4.噂
※前章からの続き。
注意*いわゆる日常の謎に該当する話ではありません。それを承知した上でお読みください。
・白石先生*春樹たちのクラスの副担任で、先生の中では若いほう。生徒指導担当。
・鳴神明衣子*白石先生の学生時代の先輩。生徒会長。
・南森早苗*白石先生の学生時代の同級生。生徒会役員。
生徒会会議が終わり、顧問の先生はいつものようにそそくさと部屋を出て行った。まだ完全下校時間までは結構あるのに、続けざまに先輩三人も消えて、生徒会室には俺と鳴神先輩と南森さんが残された。
いつも週一の生徒会会議のあとは、帰りたくなる時間まで生徒会室に残ってだらだらと雑談しているのだ。部活動もしていない俺は、この時間が結構好きだった。
鳴神先輩は窓のそばに並んでいるロッカーに腰かけて、カバンから取り出した本を読んでいる。ブックカバーがしてあって、タイトルは見えない。
「何を読んでいるんですか」
鳴神先輩が俺を一瞥する。
「小説」
すぐに視線を手元に戻す。素っ気ない。どうやら今はひとりの世界にいたいらしい。それなら帰ってしまえばいいのに、とは言わないけれど。
もうひとり、南森さんは彼女の定位置の席から動かず、かといって何をするでもなく、俺と鳴神先輩のやりとりを眺めているようだった。目があうと、愛想笑いのような、困ったような笑みを浮かべた。
「白石くんはまだ、帰らないの?」
「うん。もう少し、残っていたいな。南森さんは?」
また彼女は、どうとでもとれない笑みを浮かべた。
「わたしも、帰りたくない」
俺は自分のカバンからタバコの箱を取り出した。
「吸ってもいい?」
南森さんがコクリと頷く。鳴神先輩にもいちおう断りをいれてから、取り出した一本に火をつけた。カーテンと窓を空けて、煙が逃げるようにする。窓のそばで生徒会室に隠し置いている灰皿を片手に、一服する。校則違反の前に、そもそも俺は未成年だから法律にも反しているわけだけど、鳴神先輩も十八だが喫煙者だし、南森さんはタバコの煙はあまり気にならないらしいから、いつも生徒会会議の後は一本だけタバコに火をつけている。
生徒会室には、時折鳴神先輩がページをめくる音と、俺が息を大きく吐く音と、時計の針の音が聞こえるだけだった。
「白石くん」
沈黙を破ったのは南森さんだった。
「髪に何かついてるよ」
俺の頭を指差してくる。
「どこ? このあたり? とれた?」
彼女の指の先からレーザーが出るのなら、このあたりの髪が焼かれているだろうなという部分を指で掴む。そのまま手を目の前にもってくるけど、空振りだったようで指はオッケーサインをしているだけだ。
「もうちょっと上かな」
「ここ?」
そんなやりとりを三回ほど繰り返して、じれったくなったらしい南森さんは、テーブルに片手をつき、身体を伸ばして俺の頭に指を近づけてきた。思わず座ったまま、身体を反らして距離をとってしまった。南森さんの指も空振りする。
「とってあげようとしたのに」
「いや、いいよ。自分でとる」
「むう」
南森さんにばれないように、ほんの一瞬だけ、鳴神先輩を盗み見た。彼女はどうやら俺たちのやりとりになんて興味はないようだ。
もともと、俺は女子とコミュニケーションをとるのがあまり得意な方ではないのだ。髪とはいえ、触れられるのも好かない。それに、『好きな女性の前』で、別の女の人にボディータッチのようなものをされるのも嫌だった。
ぺたん、と南森さんは上げた腰を椅子に落ち着かせた。彼女は鳴神先輩の方を一瞥して、また俺に目線を戻した。何かを察したように彼女は目を細めた。
「……手鏡でも貸そうか?」
南森さんはよく自分の髪の毛を手串で整えている。その時はよく愛用の洒落たコンパクトな手鏡で自分の身だしなみをチェックしていた。その手鏡なのだろう。
折角の南森さんの厚意だけど、断った。わざわざ彼女から借りなくても、この部屋には普通教室と違って、鏡が備え付けられているのだ。
腰を上げて、のっそのっそと廊下側の壁に貼り付けられた鏡まで近づいていく。鏡像の俺の肩越しに、鳴神先輩が見えた。相変わらず目は本へ向けられている。鳴神先輩は正直、ものすごく綺麗だ。生徒会長で、更に頭も良いときた。魅力の塊のような人だろう。
「鏡をじっと見つめちゃって。白石くんって自分の顔、好きなの?」
南森さんがにやついた表情で俺を見ている。彼女はちゃんとわかって言っている。恥ずかしいところを見られてしまった。
俺の髪の毛についていたのはクッションに入っていそうな羽のようなものだった。はらうとそれは、ゆっくりと床に落下していった。
12月に入って間もなく、南森早苗が自宅のマンションから飛び降りた。
即死で、事故ではなく、自殺だったらしい。
マスコミ連中は、はじめの方こそ校門を出入りする生徒に飛びつくように話を聞き出そうとしていたが、半月で全く見なくなった。テレビで話題になったのもほんの数日間だけで、坂月高校には再び、以前のような日常が戻り始めている。
だが俺を含めた何人かは、まだ心から笑うことができそうにないでいた。当然だ。彼女は俺たちと一緒に業務をこなしてきた生徒会の仲間なのだ。毎週顔を合わせてきた南森さんの朗らかな笑顔を、ある日突然、もう見ることはできないのだと宣告されても、はいそうですかと簡単に納得することはできない。
南森さんが自ら死を選んだのは間違いないらしい。つまるところ遺書が見つかったのだ。彼女は最期の書記で、未来に希望が見えない、とだけ書き残していた。同じ学年ではあるし同じ生徒会役員でもあるけれど、クラスメートではなかったし、生徒会室以外で会うことはなかったし、彼女が何に悩み、何に苦しんでいたかなんて、知る由もなかった。
どうしても拭えないもやもやを残したまま、冬休みを迎えた。
冬休みは夏休みに加えて短い。正月を過ぎると、感覚的にはすぐに学校が始まった。
登校途中に出逢った友達の赤坂くんに「あけましておめでとう」とあいさつを交わす。赤坂くんは夏休み明けには足を骨折したり髪型が変わっていたりと夏休み前と比べて変化が多かったが、今日の彼は冬休み前と大差ない。
そして相変わらず彼の話は面白くない。その割に立て板に水を流すように喋り続ける。赤坂くんが別の友達を見つけて近づいていったのを見計らって距離をとる。次のターゲットを見つけた彼は俺が消えたことなど気づいていないようだ。
徐々に周りに坂月高校生が増えてきた頃、高校生の中に見覚えのある後ろ姿を見つけた。濡れているようにも見えるほどツヤのある長い黒髪。スカートから伸びる黒ストッキングの足。驚かせようと、こっそり近づいていく。
あと一歩のところで、彼女がこちらを振り向いた。相手に特に驚いた様子もない。
「あけおめ。ヒロくん」
俺の悪戯心を感じたのだろうか。
「あ、あけましておめでとうございます、鳴神先輩」
鳴神先輩はやわらかく微笑んだ。
鳴神明衣子は、坂月高校の生徒会長をしている。俺からすれば、生徒会の先輩になる。日本人形のような、腰まで届く濡れ羽色の髪を持ち、知的さをうかがわせる切れ長の目、鼻筋の通った顔は綺麗で、格好いい。身長は男の俺より少し大きいくらいだし、男装すれば女子も簡単に落とせそうだ。もちろん、男性からも人気が高い。生徒会選挙では他を寄せ付けない支持率だったと記憶している。
そんな先輩に新年早々、それも朝から会えるなんて運がいい。
「どうして僕が後ろにいるとわかったんです」
「気配」
鳴神先輩は即答した。そんなまさか。
「嘘じゃないわ。背後から足音がした。その足音がヒロくんっぽい気がしたのよ」
「は、はあ……」
洞察力(?)に感心するのと同時に、俺の足音を記憶していたことに嬉しさを感じる俺がいた。
「ヒロくんは正月、何をして過ごしていたの?」
先輩が話を振る。今更ながら、ヒロくんとは俺の下の名前からとったあだ名だ。
「えーっと」
正月はアルバイトもせず、自宅で怠慢に過ごしていた。しまった、鳴神先輩に訊かれるとわかっていたら、早朝にランニングのひとつでもしていたのに。とはいえ、面と向かって嘘をつくのは憚られる。
「寝て、食べて、寝て、自分の欲の赴くままに。恥ずかしいです」
「ふうん。いいじゃない。正月なんだし。日記はつけてたの」
「つけてましたよ。いちおう。似たような内容ですけどね」
高校に上がり、俺は日記をつけるようにしていた。日記自体、男子高校生がまめにつけているというのは恥ずかしいし、鳴神先輩以外には話していない。
「先輩の方は、正月、なにしていたんですか」
彼女はこめかみ手を当てて、考える仕草をする。先輩が口を開くまで、俺はそういった動作も絵になるな、と腑抜けたことを思っていた。
「私も、君と五十歩百歩よ。家で本を読んだり、特番を見たりしていた。あ、それと、来週の発表のための資料作成もしていたわね」
「発表? 授業ですか。でも、鳴神先輩はもう進路も決まっていますし、そんなに真剣に取り組むことではないんじゃないんですか」
うーん、と先輩は唸るような声を出す。
「確かに、ヒロくんの言う通り、それひとつで大学進学がなくなるわけではないでしょうけど、ここで妥協してしまうのは、なんだか許せないのよね」
鳴神先輩は俺が知る限り完璧主義の女性だ。愚問だったな。
「それで、その準備は終わったんですか」
眉間にしわを寄せて、難しい顔を見せてきた。
「これが中々進まなくて。こだわってたら全然終わらないのよ」
……完璧主義も問題だ。
その後は学校に着くまで、お年玉はどれほどもらっただの、今年の抱負だの、話が途切れることはなかった。楽しいひと時だった。
新年はじめのクラスは随分にぎわっていた。俺も仲の良い何人かの男子と雑談をして、始業式までの時間を潰した。
ひとつだけ気になったのは、南森さんの、不謹慎な噂が広まり始めていることだった。
続きます。




