一.紫の鏡
前回のつづき。
・花川春樹*高校一年生。面倒臭がりで推理小説が好き。
・真鈴あやめ*高校一年生。春樹の幼馴染で、ポニーテールが目印。
けほけほ、とせき込む声が聞こえた。普段使われていない部屋なだけに、ホコリが積もっている。僕は手を止めて、「大丈夫か」と声をかけた。大丈夫、と返ってくる。
「すまんな」
僕が詫びると、彼女はいつものように気楽そうな口調で、
「全然平気。いつもハルに色々してもらってるからねえ。そのお返しさー」
そう言う真鈴の方を盗み見ると、カーディガンの袖口で口を覆っている。こいつのためにも、なるべく早くこの部屋から出たい。
十五分前。
終礼後、下校の準備をしていたら、花川さん、と呼び止められた。声の主は担任の楠井先生。
「悪いけど、帰る前にひとつ、頼まれてくれる? 急ぎなんだけど、あいにく人手が足りなくて」
「どうして僕なんです」
という疑問が湧いた。
「今日の日直が花川さんだから。先生のお手伝いも仕事のうち」
終礼を過ぎたら日直からは解放されるんじゃないんですか。のどまで出かけた反論を飲み込んで、僕はお手伝いとやらの内容を聞くことにした。春学期に日直の仕事から逃げ出したら通信簿にそれらを書かれてしまったからだ。
内容を要約すると、「数年前の進路関係のとある資料を物置同然になっている空き教室から探してくれ」だそうだ。
「鍵は職員室で借りてきて。お願いね」
素直に、わかりましたと言った。昔は最後の悪あがきで、頷きとも首振りともとれる仕草で返していたのに、花川春樹も大人になったものだ。
「こら、そんな不服そうな顔しないで。すごい歪んでる、顔」
完全には素直になっていなかったようだ。
僕のいる教室は四階にある。職員室は二階だ。空き教室とやらは四階。階段を昇り降り、往復してこないといけない。物探しだけでも嫌なのに、勘弁してくれ。
職員室まで降りてくる。
そういえば、ほとんど職員室を尋ねたことはなかった。変に緊張する。職員室は横に長い。ドアも三つある。どこから入ればいいのだ。一番近かったドアをノックして開いた。
僕が叩いた戸には『ノックして入室。学年と名前を言ってから用件をいうこと!』と張り紙が貼られてあった。
一番近くのデスクにいた教職員に、
「一年六組の花川春樹です。楠井先生に頼まれて……」
鍵を借りに来た旨を伝えると、教職員は「どうぞ」と腕を横に伸ばして一点を指差した。
「どうも」
とりあえずそっち方向に歩いていく。職員室というのはどうも慣れない。悪いことはしていないのに、自然と早歩き、体を小さくしてしまう。
それらしいところで足を止めた。壁にコルクボードが張ってあり、一定間隔で釣り針のような形をした金属が六十本ほど、数列に分けて生えている。釣り針のうち、半分程度にそれぞれひっかけるようにして鍵がかけられていた。釣り針の上には『保健室』『体育準備室』など部屋の名前が記されている。
目当ての部屋の鍵を探す。すぐに見つかった。
鍵を持ち、「ありがとうございました」と言って、職員室を出た。名前を書き残したりはしていない。職員室に侵入すれば鍵を盗み放題なのではないだろうか。
「ハル、やっほー」
後ろから声をかけられた。僕のことをハルと呼ぶのは知り合いにひとりしかいない。
「真鈴」
振り向くと、案の定、真鈴あやめがいた。クラスの数少ない僕の友人である(いや、学校に、と言い換えても数少ないことは変わらないけれど)。
「どうしたの。珍しいね、職員室から出てくるなんて」
彼女は首を傾げた。スクールバッグを持っているから、これから帰るところなのだろう。質問に答えようと、僕は鍵を彼女の前に掲げて見せた。
「先生に命を受けたのさ」
「…………へえ? ちょっと、意味わかんないや」
真鈴あやめは逆方向に小首を傾げた。わざとわかりにくいように言ったのだから、わからなくて当然だ。のうのうと家に帰ることができるこいつを、小ばかにしてやろうとつい悪戯心が働いてしまった。
「よくわかんないけど、手伝ってあげようか」
む。
思わずひるんでしまった。
僕は真鈴をからかおうとしたのに、こいつは僕を助けようとしてきた。僕の悪意に気づいているのか気づいていないのか(おそらく後者だが)、彼女は他人に優しすぎる。根がお節介焼きなのだ。
「わたしは全然いいから。……それは、四階の鍵だね? さっさと用事、済ませて帰ろう」
僕が何か言い返す前に、彼女は歩き出した。ずんずん進む彼女の後ろに続く。口を挟むタイミングを失ってしまった。
「それで、なにするの。言ってみなよ」
「…………」
語気はやわらかいのに、断らせない雰囲気がある。考えてみれば、手伝ってもらって僕が損することはないのだ。正直に話すことにした。
「……なるほどね。ま、ちゃっちゃと終わらせちゃおう」
「ありがとな」
お礼は用事を済ましてからだよ。真鈴が返した。そんな会話をしている内に、目的の部屋の前に着く。南京錠に鍵を差し込み、ドアをスライドさせた。
「……うっ」
呻いたのは真鈴だったが、僕もそうしたい気分になった。ドアを開いた途端、ほこりの匂いが鼻をついたからだ。
初めて中を見る部屋は普通教室の半分程の大きさではあるが、棚、机にあふれんばかりに書類と本が積まれている。床にも段ボール類が乱雑に置かれていて、足の踏み場も少ないときた。どうやら用途がないのをいいことに、先生たちの倉庫になっていたようだ。おまけに掃除もされていないらしい。
ほこりっぽいのと薄暗いのをどうにかしようと、僕はカーテンの閉められた窓に近づいていった。窓のそばには、下足室にあるロッカーとたぶん同じものが窓の端から端まで一列で並んでいた。ロッカーの上にも本類が積まれてあり、ここに置きっぱなしにするのなら捨てればいいのにと思いながらオレンジ色をしたカーテンを開く。
違和感があると思ったら、この部屋の窓には手すりがついていない。ロッカーに足を乗せるのも嫌なので、腰を曲げ腕を伸ばして、不安定な体勢でクレセント錠を回した。きしむ窓をガラガラとスライドさせる。一月の冷気が部屋に入り込んでくる。
さあ、探し物を始めよう。……と意気込んでみるが、はて、どこから手を付ければいいのやら。
手近なところから順番に当たるという方向で始め、十分くらい経った頃だったか。
「そういえば」
思い出したように、真鈴が話を振ってきた。
「坂月高校版『紫の鏡』って知ってる?」
急に何を言い出すのだろう。
「まあ、たぶんハルは知らないよねー」
僕が反応を示さないからって勝手に話を進める真鈴あやめ。
「紫の鏡は知ってる。真鈴あやめの頭の中は一年中夏なんだなと思ってたんだ。怪談の類の定番は、夏だろ?」
随分前にクラスの全員がブレザーやカーディガンを身にまとっている。今は一月中旬。どう考えても冬だ。
「残念ながらこの話の旬は夏じゃなくて今なんだよね。普通と違う。だから坂月高校版なのさ。わたし的にはハルが一般的な紫の鏡を知っていたことに驚きだけどね」
『紫の鏡』というのはいわゆる都市伝説の類である。ハタチの誕生日までに「紫の鏡」という単語を覚えていたら不幸になるとか結婚できないとか死ぬ云々……。まあ、よくある話だ。まさか自分の通う高校でその手の噂話があったなんて。知らなんだ。
僕は手を動かしながら言う。
「さっさと続き、話してくれよ」
僕がわずかながらでも興味を持ってくれたことを嬉しく思ったらしく、真鈴は喜々として話し始める。変に声を潜めて。静かな部屋に、彼女の声がこだまする。
「今から十年くらい前のことなんだけど。
この高校の当時の女子生徒が自宅マンションから飛び降り自殺したらしいの。いじめを苦にしてね。彼女は生前、手鏡を大層愛用していたらしいんだけど、彼女の怨念は鏡にこもってしまった。タチが悪いことに、高校中の鏡に。それから、彼女は鏡の世界に住みつき、生徒がひとりでいる時、その生徒の魂を鏡の世界に引きづり込んでしまうのさ」
「ふうん」
「もうちょっと驚いた顔をしてくれてもいいのに」
僕の反応が薄いのはいつものことだろう。
「僕は怪談話が好きじゃない。どうしてかわかるか?」
「わかるよ」
「怪談話そのものが、根も葉も根拠もない噂の域から出てこない噂話だからだ」
「うん。だろうね」
でもね、と彼女の声のトーンがあがる。ワンテンポ置いて、言う。まるで秘密を打ち明けるように。
「……その話は実際の出来事がもとになっているのさ」
僕が見ていた棚には目当ての資料はないようだ。次はテーブルに積まれた紙類を当たってみよう。
「実際の出来事ってのは?」
「坂月高校生の自殺」
真鈴の方を見ると、彼女は作業を中断してケータイをさわっている。手伝ってもらっている手前、文句を言うことはできないが。
「でも、それだけじゃないんだ。自殺のあと、後を追うように、別の女子生徒が校舎から転落事故。連続でふたりも亡くなって、当時はかなり騒がれていたらしい。確かウィキペディアに載っていたはずだよ」
真鈴がほら、といってケータイの、ウィキペディアの坂月高等学校のページが表示された画面を向けてきた。距離があるのでここからでは見えないが。
「二人目が亡くなったのは、ひとり目の幽霊に殺されたからなのではないかという噂」
「その話を信じるのなら、二人目は幽霊に殺された被害者、だな」
「そうなるねえ」
十年くらい前の出来事だと真鈴が言った。十年前といえば、僕は5、6歳だ。一時期テレビで近場の高校が映りっぱなしだった記憶が確かにある。幼心ながらも大変なことなんだろうなと思っていた。
「そもそもどうしてその話をしようと?」
真鈴の思考パターンが筋の通ったものであるとは断言できないけれど、さすがにいきなり怪談話をするのは変だと思った。
「あれを見たから」
真数は先ほどまで彼女がいた位置を指差した。僕がつまらなそうな顔をして、僕を見ている――廊下側の壁に一枚の長方形の鏡が貼ってあった。家の洗面台にあるような鏡くらいの大きさだ。近づいてみると、下の方に『寄付・二十五期卒業生』の文字が並んである。二十五期生といえば、もう三十年近く前になるんじゃないか。こんなホコリだらけの部屋で使ってくれるひともいないこの鏡と、二十五期生が不憫でならない。
「なるほどな。これから紫の鏡を連想したわけだ」
「そうだよ」
学校中の鏡に女子高生は取り憑いたと言っていたから、もしかするとこの鏡にも幽霊が潜んでいるのかもしれない、なんて馬鹿なことを考える。
「それで、どう? 資料、見つかった?」
僕は首をゆるゆると振る。
「楠井先生も本当にここにあるのかはうろ覚えらしいしな。僕たちが探している資料も、例の自殺同様、今はもう誰も覚えてないんだよ」
僕が皮肉っぽく言うと真鈴は、
「ひとつ注釈をいれさせてもらうと、自殺については、誰も覚えていないわけではないよ」
真鈴あやめが、窓の外を指差す。
「校舎裏の献花、見たことない?」
僕は小首を傾げた。
放課後、帰路に着く前に真鈴に言われた場所に向かうと、確かに校舎のきわに花束が置かれてあった。開放されておらず、ひとどおりの少ない裏門近くだから、僕のように存在そのものに気づかないひとも多いだろう。
真鈴曰く、ふたり以外で過去に死亡した坂月高生はいないそうだから、これは転落事故死した二人目の女子生徒に向けられたものだろうというのが彼女の意見だ。
僕は花のそばに立ち、天を仰ぐ。昔、この並んだ窓のどこかか、屋上から落ちたひとがいる。地面はコンクリートだ、屋上からだったなら即死だったろう。
僕はしゃがみこんで、花に向かって手を合わせる。いつの間にか目は閉じていた。
……一、二、三秒。五秒ほど経ったところで、僕は目を開いて、花から背を向けた。
「あっ」
近くに副担任の白石先生が歩いているのが見えた。坂月高校出身の二十代後半に突入したばかりの若い先生だ。
ゴミ袋を持っているから、ゴミ捨て場まで向かう途中なのだろう。幸い向こうから僕に気づいてくれたようで、声をかける手間が省けた。
「おっ。花川くんじゃないか。やあ」
ついこの間、白石先生に僕の悪だくみが見破られたばかりで、僕はなんとなくこの人に引け目を感じている。
しかし、花を見てひとつの疑問が湧いたところに、都合よく彼が現れた。僕は花束を手で示す(指を差すのはなんとなく気が引けた)。
「この花っていわゆる献花ですよね。誰がここに置いていったのか知っていますか?」
事件のことを覚えているひとは誰なのか――それが僕の疑問だった。
白石先生は目を細めて口を真一文字に閉じる。「藪をつついて蛇を出してしまった」と考えているのが一目瞭然だ。――つまり、誰なのか知っている顔である。
「それは花川くんの言う通り、献花なのは間違いない。何があったかは隠しておくけれど、置いたのは学校側だよ。いうなれば教師一同、だ」
なるほど。僕は一年生だから知らなかったけれど、毎年こうやって花を供えているのかもしれない。
「学校側も責任を感じているってことですよね。十年前のことに」
白石先生はつまらなそうな顔をする。先生は僕の問いに否定も肯定もしなかった。
「なんだ、知っているんじゃないか。もしかして君も、生徒会室の幽霊とやらについて調べているんじゃないだろうな?」
初耳のワードだ。生徒会室の幽霊……?
「なんです、それ」
僕が本当に知らなさそうなのを見て、白石先生は先ほどの「藪蛇」な顔をした。つつけばつつくほどぼろぼろと知らない情報を落とす人である。先生は吹っ切れたような口調で言う。
「知らない知らない。それじゃあね、花川くん。気を付けて帰るんだよ」
止める間もなく、白石先生は早歩きで去っていってしまった。逃げる人を追いかけるほど、花川春樹は粘着質ではない。
まあ、その手のことは校内の情報に詳しい真鈴や堺さんに聞けばいいだろう。僕は帰途につく。
続きます。




