二.寝坊その2
前回の続き。
・花川春樹*高校一年生。面倒臭がりで推理小説が好き。
・真鈴あやめ*高校一年生。春樹の幼馴染で、ポニーテールが目印。
・堺麻子*高校一年生。黒髪眼鏡の優等生。茶目っ気もある。
・白石先生*春樹たちのクラスの副担任で、先生の中では若いほう。生徒指導担当。
やべえ、寝坊した。
次の日。今年の授業日二日目。昨夜布団の中に入っても何故か眼が冴えてなかなか寝付けず、眠りにつくことができたのは深夜二時半くらいだった。その分のツケは朝に回ってきて、僕が起きたのは一限の授業が始まる頃だった。
昨日ほどではないにしろ、遅刻に変わりはない。まさか二日連続で寝坊するとは思ってもいなかった。例によって家族は誰も起こしてくれなかったようで、家には誰もいない。
朝ごはんを済ましてから、学校へ向かった。
校門をこじ開け、昨日と同じ中年先生に生徒指導室に行くよう言われ(どうやらこの人はこの時間の校門を見張る役目があるらしい)、デジャブめいた感覚を持ちながら、セーシのドアを叩く。
中にいたのは今日も白石先生だけで、今日の彼は僕を見るなりニヤケ顔をした。
「おや、すっかり常連だね。今日はどうしたの」
「遅刻したので、遅刻届を書きに」
用紙を受け取る。書き込んでいると、やはりというか、白石先生が口を挟んできた。
「昨日あれだけ書いたのに、まだ反省が足りていなかったようだねえ」
「…………」
無視しよう。
僕の遅刻届を受理した白石先生が言う。
「放課後、今日も四階の空き教室に反省文を書きに来ること。いいね?」
はい、と答えようとして、クラスメートふたりの顔が頭に浮かんだ。真鈴あやめと堺麻子と、放課後ドーナツ屋に行く約束になっているのだ。期間限定のメニューを食べに行くということで、今回は真鈴だけじゃなくて堺さんも顔をぱっと輝かせて嬉しそうにしていた。
「今日は用事があるんで免除してくれませんか。代わりに明日書きますんで」
「遊び?」
「それは、まあ、そうですけれど」
「じゃ、駄目だね」
こういう時、嘘をつけないのが僕の欠点かもしれない。
「どうしても遊びを優先するというのなら、明日は二枚書いてもらうことになるけど、いい?」
それは嫌だ。だけど、真鈴はともかく堺さんを裏切るわけにはいかない。
「まあ、今回で花川くんは二回目だ。昨日ほどは時間がかからないって。集中してさっさと終わらせてしまえばいい。それからでも遊びには行けるでしょ」
何も言い返せない。どちらを取るか。僕の頭の中では今、反省文とドーナツが天秤にかけられている。
生徒指導室を出て、一年六組の教室へ足を向ける。五歩ほど進んだところでもう一度立ち止まる。
「………………ひらめ、いた」
――もしかするとこの手なら、どちらかを犠牲にすることもないんじゃないか?
×××××
放課後。
俺は職員室から直接、四階・特別教室Ⅳを目指していた。ここで毎日放課後、校則違反者に反省文を書かせているのだ。坂月高校に就くことが決まった数年前は最初こそ何もかも懐かしいと思っていたが、今は欠片も懐古の感情がなくなってしまった。最早、この校舎は俺の職場となってしまっていた。
「白石先生、さようなら」
俺が地学を担当している二年生が、すれ違いざま、別れの挨拶をしてくれた。さようなら、気を付けて帰るんだぞと返す。
四階へと続く階段を上っていると、目の前に俺と同じようにして上がっていく男子生徒の後ろ姿が見えた。生徒指導室の常連のひとりだ。校則違反者を全員分把握しているわけではないから確信はないけれど、おそらく目的地は俺と同じ教室だ。反省文を書きに向かっているに違いない。
四階に辿り着き、一年八組、七組を横目に過ぎていく。まだいくつかの学級は終礼の最中らしくて静かだ。一年六組を通り過ぎたところで、ばあんと大きな音を立てて、六組後方のドアが開いた。丁度今、解散したようだ。そして勢いよく飛び出してきた生徒一号は、俺と反対方向に走り抜けていってしまった。そんなに早く家に帰りたいものなのだろうか。俺の高校生時代は、生徒会に所属していたこともあって、帰途につくのはいつも日が落ちてからだった。
「――って、待てよ」
今、スタートダッシュを決めた生徒は花川春樹じゃないのか? 彼の姿はもう見えない。その方向は特別教室とは真逆。男子トイレとも違う。
用事があるとは聞いていたが、反省文を書かずに帰るつもりなのか。罰則をサボタージュすれば、反省文一枚のペナルティがあるとは花川くんも知っているはず。二枚書くのは一枚の時よりも二倍以上の負担がかかる。彼のことを思うと、多少時間を使ってでも、今日のうちに仕上げてもらいたいのだけれど。
今朝はきつく言ったが、少しだけなら手伝ってあげようと思っていたのに。俺は割と彼のことを気に入っているのだ。昔の俺に似てる……気がするから。
――いや、今ならまだ間に合うか。
生徒に悪印象を与えるから多用したくはないけれど、俺はポケットから携帯電話を取り出した。花川くんの連絡先は知らない。電話番号を呼び出すのは別のひとだ。同じ生徒指導担当で、今日校門で生徒を送り出している先生。
思いのほか、相手はすぐに出た。
『どうされました? 白石先生』
「あの、僕が副担任をやっているクラスの生徒が、今日反省文を書くことになっているんですけど、帰ろうとしているみたいなんです。花川春樹っていう一年六組の子なんですけど』
『ああー……、あの子か。昨日反省文を書いていた真面目そうな』
「そうですそうです。先生、今日正門担当ですよね。出くわしたら、止めてくれませんか」
電話の相手はははは、と笑った。
『いいですよ。生徒想いですねえ。白石先生は』
お願いします、と伝えて通話を切る。あのような真面目そうな生徒が損をするのを黙ってみているわけにはいかない。とりあえず、これで安心だ。
あらためて、特別教室Ⅳに向かう。
教室に来てから、五分ほど経っただろうか。花川くんのあの速さなら、そろそろ正門で先生と鉢合わせしてもいい頃だ。どうしても花川くんのことが気になり、廊下に出て、先ほどの電番をもう一度呼び出す。
「来ました? 花川くん」
さっきと同じような笑い声が聞こえてきた。
『ははは。気が急ってますねえ。まだあれから十分も経っていませんよ。花川くんはまだですね』
ありがとうございます、と言って通話を切った。先生には浮足立っていると思われてしまったが、十分でも、花川くんにしては遅すぎるのだ。坂月高校は正門しか開けておらず、裏門は閉鎖されている。出口は一ヶ所しかない。塀をよじ登って学校を脱出することはできるが、俺が花川くんのことを注視していることは彼は知らないでいる。わざわざ正門以外から出て行ったりはしないはずだ。
まだ校門を出ていないとすれば、当然、校内にいることになるが……。
幸い、教室に別に生徒指導の先生がひとりいる。花川くんを探しに回っても大丈夫だろう。
――さて、どこにいるのか。腕組をして考えてみる。
花川くんはクラブには所属していないから、グラウンドや体育館、部室の線はないはずだ。となると、校舎内に限られる。
始めに念のため、一年六組の教室を覗いても、案の定、彼の姿はなく。
次に思い至ったのは、図書館である。坂月高校の図書館にはネット環境にあるパソコンがある。彼には反省文を書く気があって、それを一刻も早く終わらせようと動いているとすれば。俺の時代にはネットがまだそれほど普及していなかったからなかった手段だが、今の時代、検索エンジンで『反省文 例文』とでも打てば、他人の作ったテンプレートがいくらでも出てくる。それをコピーして原稿にうつせばいいのだ。
そう思って図書館を覗いたが、どうやら外れていたらしい。しかし、生徒が自由にパソコンを使える部屋はもうひとつあるのだ。パソコンルーム――確か、パソコン研究会の活動場所となっていたはず。結果をいうと、こちらも空振りで、彼の影はなかった。パソコンルームにいたパソ研の部員に話を聞いても、部屋には来ていなかったらしい。
どこにいったのだろう……。花川くんが戻ってくることを期待して、特別教室へと足を向ける。道中、もう一度一年六組を覗いた。
ドアから一番近い席に座っている、ポニーテールの女子生徒に声をかけた。
「真鈴さん。花川くんって、もう帰ったかわかる?」
ダメ元だったが、女子生徒は不思議そうに首を傾げてこう言った。
「帰っていないと思います。わたし、このあと、ハル……じゃなかった、花川くんと堺さんと約束があるんですけど。反省文を書くから待っていてくれって言われましたし」
花川くんの遊び相手とは彼女のことだったか。彼もちゃっかり青春しているのだなと思った。ありがとう、と言って教室を出る。
言質もとれたわけで、反省文に取り掛かっている生徒がいる特別教室Ⅳに戻ってくると、果たして花川くんは後ろの方の席に座っていた。ほとんど机に覆いかぶさるようにして、原稿に向かっている。
教室にいた先生に訊ねる。
「あそこにいる男子生徒、いつきました?」
「さっき。数分前だよ」
放課になってから十五分弱……。入れ違いになったとしても、この短時間でネットで作文をコピーしてくるのは不可能か。生徒が自由に使えるコピー機も備え付けられていないし。
昨日と同じように、花川くんに近づく。俺に気づいたらしい彼は顔をあげた。
「白石先生。どうしたんですか」
「いや、特に何も。頑張っているね」
「それはどうも」
「さっき、君がこっちとは逆方向に走っていくのを見たけど、どこに行ってたのさ?」
花川くんは特に表情を変えることもなく、
「……トイレです」
トイレは君が走り去った方向からいけば遠回りになるけれど――、まあいいか。他人の行動の全てが論理的だとは限らない。ましてや相手は高校生なのだ。俺がしないといけないのは自らの疑問を潰すことではなく、彼の作文の邪魔をしないことだ。
俺はUターンして、教卓に戻る。
十分もしなかっただろう。
花川くんは突然立ち上がると、荷物をまとめ始めた。教卓に無言で原稿用紙と鉛筆を置くと、俺たちに会釈して、教室を出て行こうとする。俺は手を伸ばして、彼の書いた原稿を掴む。走り書きの汚い文字ではあるが、最後の一行まで埋まっている。文章も多少支離滅裂ではいるが、反省文の形は保っている。昨日あれだけ時間がかかったのに、見事な進歩だ。
開けっ放しのドアに目を向けると、花川くんの肩越しに堺さんが見えた――これからどこかに出掛けるのか。
廊下にいる彼らの会話が聞こえてくる。
「真鈴さんは今トイレに行っています」
「そうなのか」
「それはそうと、花川さん。二日連続で反省文を書いていたらしいですね。お疲れ様です」
「うん。まさか僕も二日連続で寝坊するとは思わなかった」
ハキハキと喋る堺さんに対して、花川くんの声は小さくて聞き取りづらい。
「今日書いた反省文は二枚なんでしたっけ」
堺さんが妙なことを口にした。
「いいや。一枚」
「あれ、そうなんですか? 遅刻の分だけなんですか」
「そう。あっちは没収だけだ」
「へえ。一回目だからですか。まあ、正直似合っていませんでしたし、没収されてちょうど良かったんじゃないですか。ピアスは」
…………ピアス? なんのことだ?
続きます。




