一.寝坊
なんだかんだで一度も学校を遅刻したことがなかった花川春樹。年明け、初めての授業日でまさかの遅刻をしてしまう。更に、遅刻者には反省文を書くというペナルティがあるらしいのだが……?
・花川春樹*高校一年生。面倒臭がりで推理小説が好き。
・井口菫咲*言動や格好から勘違いされやすいが、優しく友達想い。
・白石先生*春樹たちのクラスの副担任で、先生の中では若いほう。生徒指導担当。
やべえ、寝坊した。
年明け、初めての授業日。屋内にも入り込む冷気と、それすらも寄せ付けない布団のぬくもりにより、昨夜零時前に就寝したはずの僕は、ケータイのアラームすらものともせず、とっくに授業が始まっている時間に瞼を開いた。
年初めがこの調子では花川春樹の今年の学業の、先が思いやられる。まあどのみち、僕はその方向に対して決して真面目とは言えないけど(かといって真摯に向き合う何かがあるわけではないが)。そもそも去年だって遅刻さえしたことはなかったけれど、ほとんど毎日チャイムぎりぎりの登校だった。
両親は家にいなかったし、妹は学校だ。みんな家を出る前に起こしてくれてもよかったじゃないか。
二時間我慢すれば昼飯だし、朝ご飯を食べずに家を出た。
学校に着くと、校門は閉まっていて、敷地内は異様に静かだ。門を力まかせに開くと、ゴロゴロという重い音を響かせた。ひとり分の隙間に身体をねじ込んで、校門を再び閉じると、どこから現れたのか、てっぺんが薄くなりかけている中年の男が僕を睨んで立っていた。見覚えがある。教職員なのは間違いない。
中年の先生が口を開く。
「お前、遅刻だな。病院にでも寄ってきたのか?」
少しきつい口調に萎縮しながら、小さく首を振る。
「い、いえ。寝坊です」
「……新年早々意識の低いことだな」
相手が嘆息する。それは僕も同意見だ。相手は校舎の方を指差した。
「教室に向かう前にセーシに行って。そこで遅刻届を書いて」
遅刻した場合はそのような手続きが必要なのか。しらなんだ。会釈して、中年の横を通り過ぎる。
ふと後ろを振り返ると、校門の向こうから自転車でこちらに向かっている女子生徒のシルエットが見えた。
靴を履き替え、セーシ、もとい生徒指導室に向かう――僕の記憶が正しければ生徒指導室は体育館に面した側の校舎、その二階にあったはずだ。
二階の廊下を、教室の名前が記されたプレートを見ながら進む。生徒指導室は、生徒会室の隣にあった。
天井付近の窓から光が漏れている。授業中とはいえ、無人ではないようだ。ノックすると、中から返事があった。ドアをスライドして、部屋に入る。生徒指導室は思いのほかシンプルな部屋だった。普通教室の半分ほどの広さで、中央に長机がふたつ、平行に並べられてひとつの島を作っている。隅には棚とロッカーがひとつずつあるのみ。ロッカーの近くには隣室へつながる扉がある。窓からは体育館が見えた。
セーシにいたのはひとりだけで、知っている男の先生だった。彼は長机に向かって、パイプ椅子に座っていた。
「おお。花川くん。どうした」
僕の名前を覚えている――少しだけ嬉しくなる――この人は白石先生という。地学の担当で、僕の一年六組の副担任をしている。今年で三十路に突入した、担任の楠居先生よりも一回り若い。格好良いわけではないが、人好きのする笑みが女子生徒に人気で、優しく朗らかな性格で男子生徒からも人気がある。白石先生は生徒指導担当の先生のひとりなのだ。
用件を言う。
「遅刻したので、遅刻届を書きに」
僕が言うと、先生は立ち上がって棚を開き、中から紙を一枚取り出した。それをペンと一緒に長テーブルの上に置く。
「これに記入して。書いてくれたら受理するから」
失礼しますと口にして、椅子に腰を下ろす。B6くらいの用紙を見ると、日付氏名クラスの他に、遅刻理由を書く欄があった。遅刻理由というのは、寝坊でいいんだよな……。『昨夜は起きる気満々でしたが、寝坊してしまいました。すみませんでした』にしよう。
ペンを動かしていると、ドアがガラガラと開いて、先ほどの頭の薄い中年先生と、女子生徒が入ってきた。先生の方は右手に何かを持っているらしく、握りこぶしをしている。女子生徒は鞄を肩にかけているので、おそらく僕と同じ遅刻組だ。不服そうな顔をしている。
男性教師が白石先生に向かって言う。
「ちょっと、この子にも遅刻届、書かせてやってくれませんか。僕は彼女がつけていたアクセサリを金庫にしまってきますんで」
いうと、中年教師は隣室へとつながる扉を開いて消えていった。女子生徒の不満げな態度から察するに、彼女は遅刻に加え、校則違反のアクセサリを没収されたのだろう。
女子生徒は僕と一つ分席をあけて、椅子に座った。白石先生が僕にしたみたいに、用紙とペンを差し出す。女子生徒は慣れた様子でペンを走らせていった。常習犯なのか。
「花川くんが遅刻なんて珍しいね」
白石先生が世間話でもするように話しかけてきた。ペンを動かしながら相槌を打つ。
「はあ……、まあ初めてですし」
女子生徒がちらりとこちらを睨みつけた気がした。
「へえ、それは優秀だ。ということは、反省文を書くのも今日が初めてになるわけだ」
「反省文?」
聞き慣れない単語に、思わず訊き返してしまう。白石先生はきょとんとした僕の反応を見て、あははと笑う。
「反省文、知らないのか。それはそれは真面目に過ごしてきたんだ。まあ、花川くんは一年だし仕方ないかもしれないけど」
他人に真面目と初めて言われたかもしれない。
「遅刻や校則違反をしたら、放課後、反省文を書くのがこの高校の決まりさ。まあ、慣れた人なんかは三十分くらいでちょちょいのちょいで書いちゃうし、心配しないでよ」
「それでも三十分かかるんですか……」
そのタイミングで、女子生徒が遅刻届を書き終えたらしい。用紙を白石先生に差し出すと、白石先生が胸ポケットから取り出した小さい用紙を受け取って、そそくさと生徒指導室を出て行こうとする。
「じゃあ、また放課後。没収されたもの、取りに来るのも忘れずにね」
そう言う白石先生にぶっきらぼうな「失礼します」をぶつけて、彼女は出て行った。
閉まったドアを見つめながら、僕は問う。
「彼女も常習犯なんですか」
白石先生は苦笑しながら答える。
「……そうだねえ。例によってアクセサリをつけてきたみたいだけど、年一回目は没収だけで反省文はなくて遅刻分だけだし、まだましといったところだね」
去年の暮れは酷かったよ、遅刻・授業サボり・ピアスの反省文三枚だからね。白石先生は笑った。遅刻は一回目は様子見とかしてくれないのか……。
「まあ、花川くんも早く授業に出なさい。それと、放課後は四階の空き教室でやるから。来なかったら明日、更に一枚多く書いてもらうから注意して」
それは逃げられないな……。
放課後、言われた教室にいくと、教壇に今朝出会ったハゲの先生が仁王立ちしていた。教室では、あちらこちらに約十五人ほどの生徒が机に向かって鉛筆をガリガリ走らせている。先生から原稿用紙を受け取り(最後の一行まで文字で埋めてと言われた)、適当な席を選ぶ。
用紙はよく見られる400字詰めのそれとは違い、A3用紙のマス目のない、普段の文字サイズなら3000字はたっぷり書けそうな特別な用紙だった。おそらく学校側がわざわざこのためだけに作ったのだろう。なるほど、これは時間がかかりそうだ……。
「よお、花川。久しぶりじゃないか」
隣の席の女子生徒から不意に声をかけられ、驚いて顔を向けると、なんのことはない、一年八組の井口菫咲だ。校則に違反しているだろう茶色の髪色、鋭い目つき、男みたいな口調から、初対面の相手のほとんどは萎縮してしまう。だが、彼女が実は友達想いの良い奴だと僕は知っている。
「花川、ついに罪でも犯したか」
こいつにとってここは刑務所と同義らしい。
「あんたも新年早々、遅刻か」
問うと、井口は首を振って、茶髪をかきあげる仕草をした。
「ピアスがバレた。セーシの奴ら、ハイエナかってくらい、校則違反者を見分ける鼻が鋭いんだ」
その容貌なら僕でも注視するけどな……。
「……って、ん」
聞き流すところだったが、疑問が頭に浮かんだ。
「ピアスとかのアクセサリの没収って反省文はいらないんじゃないのか?」
「一回目はな。今朝に一回没収されて、別に持ってきていたピアスをつけていたら、昼休みにもう一回盗られた」
「……井口ってやっぱり頭悪いんだな」
口を尖らせる井口菫咲。
「オシャレを追求する女子になにをいう。明日以降もつけてくるつもりだしな。横髪で隠せば見えないはずだし」
見えないのにつけてくるのか……。多分、これがオシャレというやつなのだろう。僕には一生わかるまい。
「小さな疑問なんだけど、ピアスってやっぱり痛いのか」
「あたしの場合、穴をあけてしばらくは痛かった。でも、今日盗られたのは耳に穴が空いていなくてもつけられるものだ」
なんちゃってピアス、みたいなものなのだろうか。そんなことを言えばまた井口に噛みつかれそうだけど。
「ほら! そこ。はやく書き上げないと帰れないぞ」
手を止めて話し続ける僕たちに先生が言葉を飛ばす。
「仕方ない、さっさと書くか……」
「あたしも早くピアスを取りに行きたいしな……」
原稿用紙に向かおうとした僕の注意を、今度は教室のドアに現れた人物が逸らした。白石先生である。生徒指導の先生だから、様子を見に来たようだ。
白石先生は中年の教師に目で挨拶すると、腕組をして、彼の隣に並んだ。教室を見渡す視線が僕の目と合う。「おっ」と小さく口から漏らしたかと思えば、僕の机に近づいてきた。
「花川大先生。原稿はまだですか? 筆は進んでいますか?」
ジョークは他で言っておくれ。
「白石先生。原稿用紙一枚埋まるほどの反省点なんてないんですけど。『寝坊したので今日からは早く床に就きます』で終わりなんですけど」
言うと、先生は身をかがめて声を潜めるようにして、
「それを婉曲に遠回しに書くと案外こういうのはあっさり終わるものだよ。漢字で書くべき箇所をひらがなに直して文字数稼いだりね。少しくらいなら話を脱線させてもいい」
良いことを聞いた。……生徒指導の先生から。
「まるで反省文を経験しているような言い方ですね」
「あれ。知らなかったっけ?」
白石先生は、ぽかんとした顔をした。
「僕はここ、坂月高校の卒業生だよ。三年間も通えば、遅刻だってする。反省文を書くことももちろん経験したさ」
「失礼ですけど、先生っておいくつでしたっけ」
「二十八歳」
この人がOBだったこともそうだけど、反省文のシステムが十年以上続いていることにも驚きだ。
「小さい疑問なんですけど、この反省文って提出されたあと、どうなるんですか? 捨てられるんですか? 目は通されるんですか?」
「もちろん目を通すよ。それに処分はしない。生徒指導室のロッカーで保管している。こんなもの燃やしたりしたら積もり積もった生徒の怨念が解き放たれてしまう」
なんだそりゃ。
「まあ、保存したらしたで、夜中に誰もいない生徒指導室を原稿用紙が飛び回っているって教師の間でときたま冗談が交わされるけどね」
あっはっはと笑う先生。
その笑い声が大きかったせいか、
「白石先生。生徒の邪魔をするのはやめてください」
と中年先生のお言葉。くぎを刺された白石先生はしゅんとして、僕の前から立ち去っていった。
さあて、書くか。
僕が雑談している最中も鉛筆を動かしていた井口は、この手の文章作成には慣れているらしく、三十分強ほどで書き上げて先に帰っていった。かたや、僕はといえば、寝坊について反省する点を水増しして書けるほど言葉の上手い使いまわしが中々浮かばず、原稿用紙が全て文字で埋まった頃には冬の日は建物の陰に隠れようとしていた。
こうして睡眠時間と引き換えに貴重な放課後を失った花川春樹だった。
続きます。




