二.その雨も、いつかは止む。
前回の続き。解決編。
・花川春樹*高校一年生。面倒臭がりで推理小説が好き。
・花川椿*中学三年生。春樹の妹だが、彼と似合わず活発で社交的。
四十分くらいして、居間に姿を見せたお風呂上りの椿は、いつも通りの妹だった。水色のパジャマを着ていて、うっすらと赤く頬が蒸気している。髪はドライヤーで乾かしたらしい。――そして顔は、化粧っ気のない素の彼女だった。もちろん、白い髪飾りもしていない。
ソファーで横になっている僕に目をくれることもなく、テレビと僕の間の床に、ペタンと座り込む。視線は再放送中のドラマをやっているテレビに向かっているらしい。表情は見えないが、なにも発しないのが気になった。そこまで釘づけになるほど好きなドラマでもないだろうし……。
僕は手元の本を閉じて、声をかけた。
「おい、椿」
「なあに」
相変わらず僕に後頭部を向けたまま、彼女は答える。
「そのドラマ、面白いか」
「まあまあ」
心ここにあらずといった調子。僕は相手にされていないらしい。『まあまあ』のドラマに負けるほどか、僕は。
「そのドラマ、そんなに面白いか? 結局は主人公がハッピーエンドでヒロインと結ばれる激甘の恋愛ドラマじゃないか」
すると、椿は僕を一瞥してから、リモコンを手に取ってテレビの電源を切り、そのまま横になった。瞑目している妹に、なおも僕は話しかける。
「不機嫌なのか。何か嫌なことでもあったのか」
「別に」
椿はつんけんした口調で言い返す。
……間違いなく何かあったな、これは。
「誕生日会は、どうだったんだ。帰宅するのが早かったようだが」
「春樹お兄ちゃんには関係ないでしょ」
「そうかそうか」
質問を変える。
「誕生会というのは、出席者は全員女なのか?」
「半分半分」
男と女が半分ずつ、か。言葉少なだけど、ちゃんと答えてはくれた。
「椿。本当は黙っていようと思ったんだが」
「なに」
薄目を開けて、僕を見据える。
「泣いていただろ、お前」
「え」
椿は一瞬だけ驚いたような表情を見せてから、僕から顔をそむけた。
「どうしてそう思うの」
僕はその質問にはすぐには答えず、質問で返す。
「お前、帰ってくるの早かったよな」
「誕生日会が早く終わっただけ」
「憶測だけど、本当は自分だけ先に帰ってきたんじゃないのか」
憶測でものを喋らないで、と椿が小さく言い返した。
「お前は徒歩もしくは自転車で、誕生日会の会場である友達の家まで行ったんだろう。中学校の友達なのだから、どれだけ距離があっても、所詮は校区内だしな。電車などの公共交通機関は必要ない。
そして、帰ろうとしているときか、帰宅途中で、お前はあのゲリラ豪雨に襲われた。お前は僕に言った通り、傘を忘れてしまったらしい。でもそれならどうして、傘を借りに戻らなかった? それから三十分近くかけて帰ってくるんだ、借りを作るのを承知で、Uターンすればよかったじゃないか。この豪雨に傘を貸してくれない非情な友達なんてまさかいないだろうし。バスや電車に乗ってしまって後戻りができなかったというわけじゃないのだから」
「単に、迷惑なんじゃないかと思ったから」
ははは、それはそれは殊勝なことで。
「すまんな、本当の理由はわかってるんだ。さっきお前が風呂に入っている間に外に出たら、傘が干してあった。お前の折り畳み傘だ。用意周到で賢いお前のことだし、今朝の時点では日本晴れだったとはいえ、折り畳み傘を用意していたんだろうと思う。
そもそも借りる必要がなかったから、椿は友人の家には戻らなかったんだろう?」
椿は何も言い返してこなかった。目を瞑っているが、寝ているわけじゃないはずだ。僕はそれを肯定の合図だと解釈して、話を進める。
「だけど折り畳み傘があったのなら、おかしい。どうしてお前はそれを持っていたのにも関わらず、ずぶ濡れになって帰ってきたのだろう? 干してはいたのだから、途中までは使っていたはずなんだ。
なぜお前は嘘をついてまで、雨に濡れることを選んだのか?」
僕は少しだけ間を置いてから、言う。
「――椿は、涙を隠すためにわざと雨に濡れた。隠す必要のある涙なのだから、悲しみの涙だ。誕生日会で何かがあり、悲しくて先に帰ることにし、帰り道でお前は泣いた。濃く化粧を重ねていたお前は、涙を拭ってから、いつもはしていない、マスカラをつけていたことに気づいた。このままでは僕にどうして化粧が崩れているんだと疑問を持たれる。だから雨で化粧が崩れたことにしようとした。風呂に入ればもう問われることもないしな。
つまりお前は、僕に、泣いていたと思われるのが嫌だったんだろう?」
僕が言うと、椿はごろんと床で一回転して、うつ伏せになった。くぐもった声で言う。
「春樹なんて大っ嫌い」
あれ。『お兄ちゃん』付けじゃなくなっている。
「隠そうとしているのを知っていたのなら、黙っていてくれるのが優しさってものじゃないのかな」
「…………」
僕が黙っていると、椿はおもむろに身体を起こした。女座りでソファーに座っている僕と正対する。顔は、少し不機嫌そうだった。よく見ると、目が少し赤く腫れている。
「誕生日会は、クラスメートの友達、男女三人ずつでやったの。主役は男の人。仮に、Aくんとしようかな。会場は私の友達の家だったんだけど。あ、その子は女の子ね。Bさん」
何か文句を言ってくるのかと思いきや、説明をしてくれるらしい。
「まず一番初めにテンプレのおめでとうを言ってから、各自プレゼントを渡したの。そのあたりから、Bさんの行動がおかしいと感じていたんだよね。なんか、Aくんにやけに馴れ馴れしいし。大胆なボディータッチとかもするし。気にしないことにしてたんだけどね。Aくん、見た目だけは良いし」
頷いて、先を促す。
「で、それからお昼ご飯食べていないから、買ってきた料理を並べて昼食。ケーキはそれのあとで食べることになったの。昼食の間も、Bさん、Aくんの隣の席とったりして、ちょっと怪しかった。
昼食を終えて、ケーキの用意をするかってなって、昼食の皿を片付けたりしているときに、こっそりAくんに聞いてみたの」
「そしたら?」
「『仕方ないかなあ。皆には黙っているつもりだったんだけど、最近、あの子と付き合うことになったんだ』だってさ。わたしね、Bさんと彼氏は作らないでおこうね! って約束してたのよ。でも彼女、それを破っちゃったから。信じられないでしょ? 友達との約束破るとか。わたし、それで裏切られた気分になって、それで。具合が悪いって言って抜けてきたの。
それで、帰っている途中に降りだしてきて、折り畳み傘をさしてはいたんだけど……こみ上げる気持ちが抑えられなくなってね。涙を隠す意味合いもあったけど、雨に濡れてしまいたいって気持ちもあったんだ」
まあ、そういうことだから、と椿が立ち上がる。
「晩御飯まで少し寝てくる」
そう言って居間を出て行った。今朝と同じようにまた、静かになる。
ふと外を見ると、雨はいつの間にか、あがっていた。雲の隙間から光が零れている。家の前のマンホールが水滴で輝いている。
僕は文庫本を手に取り、再び小説の世界に入り込む準備をする。
「まあ、一部嘘だろうな、さっきの話は」
約束がなかったとは断言しない。だが、あいつのことだ、心のすべてを僕に見せるとは思わない。
きっと妹は失恋したのだ。白いバレッタをくれた、Aくんに。髪飾りをつけ始めて二年は経つから、彼女にしては長い恋だったんだと思う。
恋をしていたからこそ、張り切ってAくんのためにしたこともない化粧をした。きっと誕生日プレゼントも一生懸命選んだものだろう。でも、その努力はよりによってそんな日に無に帰されてしまう。
途中で抜け出して、涙を流すほど悲しかったのだろう。
冷たい雨を気にしないほど辛かったのだろう。
きっとこれからまた泣くんだろうと思う。
「……やれやれ」
僕は開きかけた本を閉じ、ソファーから立ち上がり、伸びをする。
確かあいつは甘い物、好きだったよな。
折角、雨もあがったのだし、ほんの少しだけ、外に出掛けてこようか。
――たまには、優しくしてあげるか。
ありがとうございました。