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ハルハニズム~この秋雨を忘れない~  作者: 幕滝
向き合う勇気はあるか?
13/45

2.[10月22日]水

前回の続き。


[注意]この章では作者の偏見や思い込みが含まれた描写が多数あります。気分を悪くされる方がいるかもしれません。それを承知の上で、お読みください。



十一月に坂月高校に転校してきた関西弁の少女・吉槻。花川春樹は彼女と遭遇した不愉快な悪戯の犯人を追う。

一方、水城悠貴は真鈴が複数の女子生徒から攻撃されている事実を知る。問題解決に向け、彼は行動する。

・水城悠貴*長身で余裕があるように見えるが気弱な一面も。

SIDE 水城



 水城みずき悠貴ゆうきは前々から真鈴ますずという少女の存在を知ってはいたが、よく喋るようになったきっかけは十月頃にあった。

 昼休みのことである。その日、水城はいつもと同じように持参した弁当を食べ終えた。水城は談笑しながら昼ご飯を食べるような友人は大げさに言っても多いとは言えなかったから、昼休みの時間は退屈でしかなかったし、空いた時間は特に、クラスメートの楽しげな会話が生み出す教室の空気に押しつぶされそうになっていた。だから彼は毎日のように、逃げるようにして別のクラスの友達のもとへ遊びに行くのだった。

 ただその日は暇を潰すために、校内を散歩してみようと思った。真新しいものはないとわかっていたが、たまには普段目を向けていないものに注意してみようという気分になったのだ。

 あとになって、その判断は正しかったとわかる。


 校内散歩を始めて十分程で、近くの便所に入った。もちろん、男子トイレである。

 ドアを開けるとあふれんばかりの刺激臭が鼻をつき、水城は顔をしかめた。思わず息を止める。学校のトイレのいくつかは改装したばかりでどれも綺麗なのだが、彼が入った便所は校舎の隅にあり、どの学年の教室からも離れていることもあって、利用者が少ない。そのためこちらは改装が後回しにされ、昔は純白であっただろう漆喰の壁も、触れるだけでたちまち掌に菌が繁殖しそうなほど黄ばんでいる。

 そのため人気のないトイレはますます人気のないトイレになった。実際、水城が来たときには誰もいなかった。

 小便器の前に立ったあたりで息を止めることをばかばかしく思い、空気を吸い込むとたまらない刺激臭が彼を襲った。

 用を足そうとしていると、黄ばんだ壁の向こうから、笑い声が聞こえてきた。女のものだ。隣の女子便所から声が筒抜けている。

 耳を澄ましていると、笑い声に混じって水が勢いよく床を打つ音も聞こえる。

(水遊びでもしてるのかな……)

 その程度に思っていた彼は手をいつもより念入りに洗い、悪臭の便所からそそくさと出た。外に出てからのほうが、女の笑い声は一段と大きく聞き取れた。案の定、女子トイレのドアは開いている。やはり、水が流れる音もここからだ。

 異性の便所を覗く趣味は彼にはないが、女子便所の前を通り過ぎようとしたとき、つい視線をそちらに向けてしまった。水城の両目が捉えたのはひとつの個室の前に立っているふたりの女子生徒だった。見覚えはないが、ふたりともそれぞれ髪の毛を茶髪と金髪に染めており、スカートの丈も膝より上にある。火を見るも明らかに校則を破っているし、教師陣にマークされているに違いない。

 茶髪の女子生徒は掃除用のホースを手に持っていて、その先は個室のしきりを乗り越えて見えなくなっている。床に叩きつけられる水音はそのせいだ。もうひとりの金髪は個室のドアを片手で押さえていた。その女子生徒が突然、こちらを睨みつけた――水城はいつの間にか立ち止まっていた――刹那、彼女から笑みが消え、圧力を感じさせる表情になる。水城はその凄みに思わず視線を逸らし、ドアの前を離れた。

 しばらく歩いているうちに、彼の足は速くなっていることに気づいた。

「あの子たちはなにをしていたのだろう」

 歩を緩め、ぽつりとつぶやいた。

「個室に何か、面白いものがあったのか……」

 ――そんなわけあるか。お前は馬鹿か。

 水城は自身に毒づく。決まっている。あの個室の中には誰かがいる。

 やがて、彼は完全に歩くのをやめた。

 水城悠貴は元来、誰かと後先考えずに争えるような、好戦的な人間ではない。争うはおろか、競うことすら苦手だ。屋外で運動するより、部屋で読書することを好むタイプなのだ。外見も、内面を写したようにひ弱で頼りなさそうだ。

 だが、ここで彼が女子トイレに引き返せば、ふたりの不良少女と衝突することは目に見えている。さきのあの、鋭い目つき。女子とはいえ、初対面の相手に対してガン飛ばせるふたりに、立ち向かう勇気はなかった。

 ――僕がここで素知らぬ顔して去っても、「僕」が傷つくことはおおよそない。

 ……ゆうき。

 自分の名前と同じ音。ああ、情けない。これでは名前負けではないか。どうしていつから僕は根性が腐ってしまったのか。

 水城悠貴は立派な勇気こそ持ち合わせていなかったが、正義感は確かに内に存在していた。それが彼を動かしたほとんど唯一の原動力だろう。

 水城悠貴は自らをののしることで、その正義感を奮い立たせていた。

 女子トイレまで帰ってくると、果たして不良少女らはまだゲラゲラと笑い声をあげていた。入り口から開口一番、水城は言い放った。

「その中に誰か、いるんだろう!」

 突如飛び込んできた声にふたりは笑うのを止め、水城を見た。金髪が即答する。

「いねえよ」

「嘘だ」

 間髪入れずに言う。一度黙ってしまえば、彼女らに圧されてしまうと水城はわかっていた。

 不良少女が一歩距離を詰める。

「嘘じゃねえよ。そもそも誰だよあんた。見ればわかるだろ、ここは女子トイレだ。男は出て行きな」

「ま、まだ女子トイレには踏み込んでいないさ」

 どもりかけたのをなんとか踏みとどめたのはいいが、出てきた言葉は揚げ足取りだった。

 ふたりの女子生徒は明らかに不愉快にしていた。彼女たちがこちらに近づいてこようと足を踏み込んでくる。

「いるんだろう! そこに!」

 これ以上、近づいてきてほしくない思いで水城が叫ぶと、女子生徒は彼の望み通り、動きを止めた。向こうのペースに持っていかれてはいけない。彼はできる限りの大声で、今なお水が注がれている個室に向かって叫ぶ。

「おい! いるんだったら返事をしろっ!」

 トイレに声が木霊し、やがて壁に吸収されていく。個室から、返事はない。沈黙が続く。女子生徒はますます口を引きつらせる。

「ほら、いねえだろ。なに勘違いしてんだ」

 相手がそう言ったその時。ホースの放水音に紛れて小さな小さな言葉が聞こえた。

「……いる、よ……」

 チッ、と女子生徒が大きな舌打ちをする。返事に安堵した水城は、彼女らに向けて言う。思ったより、大きな声が出る。

「教師を呼んでこようか?」

 女子生徒のうちひとりが金髪をばりばりとかくと、見た相手を射貫くような、視線をぶつけてきた。

「興覚めだわ。まじで、うざい」

 彼女はそう言うと、個室を振り返り、叫んだ。

「マスズ! また遊んでやるから覚悟しておきなっ!」

 そのまま、ほらどけよ、と水城に吐き捨てると、水城の間を抜けて、女子生徒ふたりは歩いていってしまった。

 危機が去ったことを察した水城は、慌てて水を吐き出し続けるホースの口を、個室から引っ張りあげた。次に、ホースの繋がれた蛇口を止めに行く。水の勢いが弱まるのに反比例して、きゅっ、きゅっ、と蛇口をひねる音が大きくなっていくようだった。

 放水が完全に止まると、水城は個室の前に立った。

「大丈夫かい? 開けるよ?」

 返事はなかった。戸を押し掛けてからここのトイレは外開きだと気づき(道理で女子生徒がこの戸を押さえつけていたわけである)、戸を引いた。

 予想していたとはいえ、直視できない光景。ふたをした洋式便所の便座に、だらんと力の抜けた様子で女の子が座っている。首が座っていない赤ん坊のように、重力に抵抗することに諦めたように下を向いていて、前髪に隠れて顔は見えない。壁や床はびしょ濡れで、彼女の制服も例外ではなく、濡れて肌に張り付いている。湿気た髪の毛はいくつかの束になって垂れ下がり、明かりを反射していた。察するに、ここが外開きなのをいいことに、あの二人組に無理やり個室に閉じ込められ、そこにホースを突っ込まれたのだろう。

 そういえば、さきの不良少女はマスズと呼んでいた。「真鈴」と頭の中で漢字に変換される。

「うう……」

 水城が何か声をかけようとする前に、濡れた少女がうめき声のようなものをあげた。それからおもむろに、彼女は髪の毛の張り付いた顔を見せた。

 うつろな、上目づかいの瞳が彼を見る――彼は思う。とても辛い時間を過ごしたのだろう。水城悠貴の知っている真鈴の顔ではなかった。そのせいで一瞬、水城は戸惑ってしまった。

「大丈夫? 濡れてるだけで、怪我はない?」

 先ずもって、水気を拭かないといけない。冷えた身体のままでは、今の季節では簡単に風邪をひいてしまう。

「動けるかい?」

 水城は真鈴に手を差し伸べた。彼女の口が小さく動き、彼の手を握る。声はしなかったが、ありがとうと言っていたのだろう。少女の手は、とても冷たい。

 真鈴が立ち上がるのを確認してから、手を離す。少女は肌にひっつく髪の毛をかきわけ、今度こそ礼を口にした。

「ありがとう……。でも、もう大丈夫だから」

 気を遣わずにひとりにしてくれて大丈夫、というニュアンスが含まれていた。水城は首を横に振る。

「いや、放っておけないよ。その格好で教室にはいけないよね? 着替えはどうするの? とりあえず、タオルを調達してくるから、ここで待っておいて」

 一息に言う。

 真鈴は申し訳なさそうに引きつった笑みを浮かべた。

「……じゃあ、お願いします。着替えは下足室のロッカーの棚の中に体操服が……、一年六組の、端の列の一番下の段。マスズって名札がはってあるから、わかると思う」

 水城は頷くと、女子トイレを出て行く。途端、達成感が彼を包み込む。――戻ってきてよかった。僕がとめなければ、あの状態がずっと続いていたに違いない。

 いま、水城が心配しているのは、異性のロッカーから体操服を持ち去る様子が周りの目にどう映るか、のみである。

続きます。

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