中山寺の星下り
白い頬が赤く色づいていた。千秋は拳を握りしめ、唇をかみ、下を向いている。周囲の子供たちの憐れむような視線と教師の困ったような顔が目に入った。一層情けない気持ちになって、千秋は頬が緩んでみっともない笑みを曝け出さないように唇をかみしめるしかなかった。男の子だろう、しっかりしないか、という父の声が聞こえた気がして無性に悲しくなる。
その部屋は宙に舞い上がった埃がいつまでも落ちてこなかった。風がないからだ。その部屋にも窓はあったがそれが開かれることはめったになく、また入り口のドアが開閉されることも少なかった。その部屋は黴臭い本のページをめくる音と、校庭に面した窓から漏れ聞こえる子供たちがはしゃぐ声以外には何も音がない。
千秋は休みになるといつもこの図書室を訪れた。千秋には校庭で毎日行われる隣のクラスとのサッカーに誘ってくれる友達がいなかったからだ。千秋の方でもそれを拒絶していたけれど。
こんなことが有った。体育の時間、担任の先生が友達とグループになるように言った。こういう時、千秋はいつも最後まで余ってしまう。余りものに対する軽蔑の混じった視線に千秋は耐えることができず、強がって、こんな奴ら誰が仲間になってやるもんかと固く歯を食いしばり、紅潮した頬をうつむかせ、ただ時間が過ぎるのを待った。そういうことを繰り返しているうちに千秋を仲間に入れてくれる子はいなくなった。だから、千秋は一人で図書室にこもるのだった。千秋はこの年頃の子にしては例外的に読書が好きだった。ダレン・シャンや、バーティミアスのいる世界は現実のそれよりもとても魅力的で、ページをめくるうちはその世界に入り込めた気がした。
そんな千秋にも、友達が欲しいと思うことが有る。五時間目の算数が終わった後、近くの公園で待ち合わせて帰る男子のグループを見るたびにお腹の上の方がうずくのを感じた。千秋も短くそろえた髪に汗をにじませ、とっぷりと日が暮れた道を両親への言い訳を考えながら急ぎ足で家に帰る友人が欲しかったのだ。しかし、千秋のプライドと環境がそれを阻んだ。千秋の父は全国に支店を持つ銀行に勤めており、定期的に命じられる転勤にはいつも千秋たちを連れた。そのせいで、千秋には幼馴染というものがついぞできたことはなかったし、唐突に断ち切られることのない友情を経験したこともなかった。そんな一人息子を両親も気にかけ、何くれとなく世話を焼いたが、生来の強情がそれをことごとく無にした。
さて、千秋には日課があった。すべての授業が終わり、クラスメート(特に、千秋をいつもからかう男子のグループ)が下校すると、千秋はランドセルを背負ったまま、町はずれに向かった。千秋が住む町は、真北を除く三方を山に囲われていた。街の中央部にある学校を出ると、千秋はそのまま学区を出て、(本来児童が学区を独りで出ることは禁じられていた)南へ向かった。住宅街を抜け、しばらく歩くと、山のふもとに、小さな石階段がある。その階段の脇には中山寺と掘られた石が無造作に投げられていた。
千秋は周囲を確認して誰も見知った者がいないのを確認すると、えいっと階段を駆け上がる。ちょうど百段を上りきると、其処には千秋のお気に入りの空間があった。お寺には普段誰もおらず、また、町はずれのため訪れる者もいなかったため、千秋は一人そこで遊ぶことができた。そこで学校から持ち帰った本を読んだり、さっき読んだ本を思い返して空想にふけったりするのが好きだった。境内には鎮守の森を抜けて透き通る風が吹き込み、空を覆うイチョウの枝葉を通して柔らかな日差しが降り注いでいた。
千秋は毎日のようにこの境内に来ては夕方日が暮れるまでの時間を過ごしていた。
梅が八分咲きになるころ、千秋は何時ものように周囲の目を気にして背筋を丸めながらお寺にやってきた。今日はお気に入りの児童向けファンタジー小説を鞄に詰め込んでいた所為で、階段を上りきる頃にはすぐにでも倒れ込みたい気分になっていた。千秋が御手水を通り過ぎて本堂に近づいていくと、何やらひそひそ声がきこえた気がした。最初、それは風の通り過ぎる音だと思って気にとめなかった。しかし、その音は御堂に近づくにつれて大きくなり、境内を半分まで過ぎる頃にははっきりと耳に届く様になっていた。お堂の中から聞こえてきた気がして耳をそばだてると、それが単なる風の声ではないとわかった。千秋は身をこわばらせ、白い背中に冷や汗をにじませたが、その声がしわがれひび割れていることがわかって警戒心を緩めた。どこか優しい響きに誘われて、少しずつ本堂へと近づいて行く。
県庁所在地から車で1時間もかかる田舎だからだろうか、無用心にも本堂はかぎが掛かっていない。千秋は鞄をそっと地面に置き、賽銭箱を乗り越えると、身を縮めて中をうかがった。此処まで近づくとはっきりと漏れ声に浮かぶ喜色を見て取れた。笑声にまじって、チントンシャンとなにやら楽器を奏でる音も聞こえる。
千秋はそっと襖を押し開けた。息をひそめ、体を傾け目を隙間に寄せ、中をうかがった。室内は暗く、外の明るさのせいですぐには判別できなかった。次第に中の状況が分かるようになると千秋はあっと声をあげそうになった。
室内では明らかに人ならざる者達が蠢いていた。一つ目で小学生の千秋の半分の背丈にも満たぬ者、唐傘を傾け中央で踊る女、大あくびをする黒い犬、体中が苔むしてごつごつした大男、数え切れぬほどの異形の者達が楽しげに歌い、騒いでいた。千秋は息をするのも忘れて見入っていたが、そのうち、体重を入れ替えた途端床を軋ませてしまった。中の音楽がぴたりとやんだ。次の瞬間千秋は脱兎のごとく縁から飛び降り、鞄をひっつかんで石段を駆け下りた。我に返ったのは家の門が見えるほどになってからだった。
その夜、千秋は何も食べる気がせずに、夕食ができたことを告げる母の声にも応じなかった。ベッドの横たわったまま、昼間にお寺で見た光景について思いをめぐらせる。あのこの世のものとも思えぬ光景はなんだったのだろう。身を翻す瞬間、こちらを見据えた大犬の眼が忘れられなかった。その眼は恐ろしいほど澄んでいて吸い込まれそうなほどで、千秋はその眼を振り切るときの、心が引き裂かれるような郷愁にも似た痛みが甦って来るのを感じた。千秋はもう一度その眼に逢いたいと思うようになっていた。
翌日、朝露を滴らせる満開の梅が境内を明るく彩る中、千秋はおそるおそるお堂に近づいた。千秋の手には隣町で買った芳林堂の桜餅が入った紙袋が提げられている。そっとお堂を除く。今日はまだ室内にはだれもいないようだ。千秋は桜餅をそっと差し入れると、お堂の裏手に回って、腰を下ろした。日の当たらない裏は涼しくて、早起きした千秋はつい眠気に揺蕩う。
日が高くなった頃、がやがやと物音が聞こえて、千秋はハッと飛び起きた。急いで表に回り、身を隠して襖に近づくと、室内から声が聞こえた。
「おや、御同輩。あちらを御覧じろ」
「おや、隣町の芳林堂の桜餅ではないか。どれ、供え物に見えるが、我らが頂いても構うまい」
「然り然り。近頃は神をも恐れぬ不届き者が増えて御座るが見上げたものも居る様ですなあ」
長いひげの生えた老人と天狗としか思えないような風体の男がからからと笑いながらしゃべっていた。そこに、白い鴉がやってきた。鴉は「かあ」と鳴くかと思いきやこれまた人語をしゃべりだし、
「露神様に小天狗殿、いったい如何いたしました」と飛び跳ねた。露神と呼ばれた老人も天狗も、鴉がしゃべるのは驚くに値しないことらしく、「菱垣殿、芳林堂の桜餅でござる」
などと言ってはしゃいでいる。
三人は車座に桜餅を食べ始めた。千秋はその様をじっと見つめている。そっと隙間を押し広げた。まだ気づかれない。さらに押し広げる。かたり、と音がした。室内の空気の流れが止まった。露神がぽとりと口に咥えた桜餅を取り落したのを合図に室内は狂乱に陥った。鴉は室内を飛び回り、天狗はどすどすと足を踏み鳴らして走り回った。千秋は襖をあけ放つと、踵を返したくなる思いを堪えて室内に立ち入った。
「待って、待ってください。俺は怪しいものじゃないです。ただ、ちょっと話がしたくて」
千秋がそういうと、室内の狂乱はもっと大きくなった。千秋はどうすればいいかわからなくて、あたりを見回すと、じっと千秋を見る老人が目に入った。露神と呼ばれた老人は狂乱には加わらず、千秋を見つめていた。
「あの、露神さん、ぼく、あの……」
露神はコクリとうなずくと、手を掲げて「小天狗殿、菱垣殿」と呼びかけた。すると二人はぴたりと動きをとめた。
「小天狗殿、菱垣殿、御身らの驚きはわかるが彼の話を聞いてやってはどうかな。――この桜餅は君のかね」
「そうです。ちょっとお話がしたくて」
「ほう! 捧げものをまず寄こすとは感心感心」
小天狗が声を上げた。露神はそれを再び制して、
「供物はよいが、わかっているのかね? 見ての通り儂らはただの人ではない」
「あの、昨日ここで宴会をやっているのを見かけて、楽しそうだなって……」
「昨日? ああ、真白殿の宴か。あれはよい宴じゃった」
露神はそういうと、からからと笑った。
「して、小天狗殿、如何様に致そうか」
「如何様に、と言われても人と交わるなど……」
「そういえばおぬしはその様な厳つい形をして人が恐ろしいのじゃったか」
「恐ろしくなどはない。ただ嫌いなだけじゃ」
「またまた」
菱垣はずっと千秋を凝視していた。露神に問われると、「私はかまいませぬが」といった。
露神はうなずくと、
「小天狗殿、御身がどうなされようとかまわぬが、儂はこの子からの供物を頂いてしもうた。この子に何か返さねばならぬ。どうじゃろう、付きおうてはくれぬか」
「……まあ、よいでしょう」
「よかった」
露神はにっこりと笑った。笑った顔のまま、千秋に向き直る。
「さて、古き約定によりそなたの願いを叶えて進ぜよう。――願いは何かね」
「お願いはないんです。で、でもその代り……」
千秋はつっかえ、赤面しながら言った。
「友達になってください!」
露神は優しく微笑んだ。
「気持ちはわかるが、あやかしと人が友達になることは出来ぬ。君は人の間に居場所を見つけねばならん。――たとえ、どれほどつらくとも人は今いる場所で生きていかねばならぬのだ」
「そんな」
「少し付き合ってやるくらいなら構うまい」
小天狗が言った。小天狗はどこかあらぬほうを見つめていた。
「本当ですか!?」
「まあ、小天狗殿が良いならば儂はよいが」
「私も異存はありませぬ」
菱垣がきいきい声で付け加えた。
「それではよかろう。君、名はなんという」
「千秋です。今野千秋」
「よかろう、千秋。また来なさい」
その時、ごうと風が本堂に吹き込んで部屋を荒れ狂った。千秋が顔をかばった腕をどけると、其処にはだれもいなかった。
その夜、千秋の父が珍しく帰宅していた。普段は千秋が寝るころに帰ることが多い。父、浩介は千秋が居間に入ると手招きした。テーブルに座らせると、何か考え込むような顔つきをして黙ってしまう。千秋はいたたまれないような気持がして、椅子の上でもじもじした。
「千秋、あのな」
浩介はようやく口を開いた。
「学校、どうだ」
「どうだって……。別に普通だよ」
「そうか」
浩介はまた黙り込んでしまった。千秋はどうしてもその場にじっとしていることができずに立ち上がって自室に戻ろうとした。
「待て待て、待ちなさい」
父はそういって千秋を制した。気付けば、母の美幸が心配そうに二人を見ていた。
「今は誰もわかってくれなくても誠実に接していればいつか必ずわかってくれる日が来る。誠実ってわかるか」
千秋は頷いたが、もうそれ以上耐えきれなくなって、その場を離れた。後に残された浩介は美幸と顔を見合わせて、ため息をつくしかなかった。
次の日、千秋は息を切らせて走っていた。町はずれの石段も一気に登って、境内に出る。境内では梅の木の下で酒盛りが行われていた。
「おお、千秋殿」
菱垣さん、千秋は駆け寄って輪に入った。輪の中では「人だ、人ではないか」と声がしたが露神に制されて黙ってしまった。
「皆の衆、彼は千秋殿という。よしなにしてやってくれ」
露神がそういうと、物見高い物の怪たちはどっと千秋の下に押し寄せた。
「千秋殿、はつま屋の串団子ですぞ。串団子はお好きかな」
「こちらはぜんざいでござる。たんと食べなされ」
「千秋殿、千秋殿はどちらにお住まいかな」
千秋は津波のように襲い掛かる言葉に翻弄されて、目を回してしまう。その困惑はどこか楽しくて誇らしいものだった。
それからの時間は水が流れるようにとどまることなく過ぎていった。千秋は時がたつのも忘れて妖怪たちと遊び明かした。街の北に流れる小川で釣りに行ったり、夜家を抜け出して夜桜をみたりした。
あるときには、大代という妖怪の背に乗って、山から山へと飛んだ。大代は一反木綿のような風貌で、滑空するときも空を駆け昇るときも不思議と振り落されることがなかった。空から見る町は同じ高さから見るのとは違って、どこかかわいらしく、まるで精巧なミニチュアのようだった。大代は風を操って通行人を転ばしたり、桜の花びらを吹き散らしたりして千秋を楽しませた。地上に降りるときには千秋のほおは興奮で赤く染まっていた。
ほかにもこんなことが有った。
深夜0時を回ったころ、家を抜け出した千秋がお堂に着くと、妖怪たちが御神木の下に集まって酒盛りをしていた。あたりには酒の匂いと桜の芳香が混じって、えも言われぬ馥郁たる香りが漂っていた。妖怪たちは千秋の姿を見つけると競ってそばに置こうとした。
しかし、千秋はその誘いを振り切ってまっさきに御神木の根元に行く。
「千秋殿はつれないのお」
「あんなに露神様になついて」
残念そうな妖怪たちの声がなんだかおかしかった。
「露神さま」
「おお、千秋殿か。こんばんは」
露神は何時も御神木の根元に腰を下ろしていた。露神は手招きして千秋を座らせた。
千秋は露神になついていた。露神の優しげな風貌とどことなく漂う品の良さがそうさせるのだろう。千秋は露神の傍に坐ると、差し出された甘酒を飲んだ。口の中にふんわりとした香りが広がり、幸せな気持ちが胸に広がる。
「今日はなんの集まりなんですか?」
「今日の集まりは星下りに御座る」
露神の手前に座っていた菰という妖怪が答えた。
「星下り?」
「左様、ごらんなされ」
促されて空を見上げると、イチョウの葉を通して、満天の星空が見えた。星々は互いに干渉することなく瞬き、宝石が夜空にちりばめられたようだ。境内からはイチョウの葉が風に揺れるごとに星が流され、まるで星が降り注ぐように見えた。露神が掲げた指を滑らすと、夜空にひときわ輝く星が流れ、落ちた。次に動かすと、二番目に明るい星が落ちた。指を動かすごとに先を争うようにして落ちていく星はまるで光の滝のように見えた。
「これが星下りでござる」
うわあ、と千秋は歓声を上げた。見たこともない光景に、千秋は声も出ないほど心を動かされている。物の怪たちは手を打って喜び、酒を注ぎ合っていた。心ふるわせる光景に酔いしれているのは、千秋一人しかいないのが残念だった。
千秋は教室で立ち尽くしていた。黒板には赤や黄色の色とりどりのチョークで千秋を中傷する落書きが書きなぐってある。拳を握り絞め、紅潮した頬をうつむかせてただ立ち尽くしているほかなかった。自分から消しに行くことも、その場から立ち去ることも悪意ある者の嘲笑を誘いそうでできなかった。その時、にやにやと笑う連中が目に入った。坊主頭の気が強そうな男の子が中心にいる。千秋は少年らしくない、いやらしい笑みを見た途端に頬がカッと熱くなって体中の血液が沸騰するのを感じた。つかつかとその少年のまえに行くと、千秋は大きく息を吸い込んだ。
「いい加減にしろっ、このバカ!」
その時、一陣の風が巻き上がって坊主頭を掬い取り、壁にたたきつけた。周囲は皆呆然として声を上げる者はなく、ただ、千秋の荒い息がきこえるばかりだった。
驚きから覚めたクラスメートの千秋を見る目は、蔑みから恐怖へと変わっていた。けれど、千秋は呻き声を上げる少年を足元に、身内から喜びと誇らしさが湧きあがるのを感じていた。
その時から千秋は変わった。どこかおどおどしていた形は影をひそめ、堂々とするようになった。また、件の少年とすれ違う時など、ことさらに嘲笑のそぶりを見せるようになった。千秋は自分が中山寺に集うあやかしたちの力を身に着けたことに気付いていた。それは幼い少年にとって、とても心華やぐ事実だった。これさえあればもうバカにされることも嘲笑されて居心地の悪い思いをすることもない。もう怖いものなどなかった。そう思い至った時、このチカラを中山寺の妖怪たちの前で披露しようと思った。喜んでくれると思ったのだ。
実は、千秋は学校での一件の後しばらくお堂に寄りつかなかった。特に他意があったわけではない。学校でみんなが千秋を畏れるのが楽しくて忘れていたのだ。これまで軽蔑されこそされ、対等に見られたことのなかった千秋にはこちらの感情をうかがう相手の眼がぞくぞくするほどの快感を生み出した。
中山寺に行ってみると、すでに花は散り、青々とした緑が山全体を覆っていた。石段を一段飛ばしで駆けあがる。境内にはだれもいなかった。千秋は本堂に駆け寄った。靴を脱ぎ捨てて濡れ縁に這い上がる。襖をあけると、千秋の顔がぱあっと明るくなった。室内には露神と数名の妖怪たちが将棋を指していた。千秋は傍にちょこんと座った。すると、露神がピクリと鼻を震わせて振り返った。
「おお、これは……」
その声にほかの妖怪たちも振り向く。あやかしたちが顔を見合わせてざわざわと話し始めた。いつもと様子が違う。千秋は怖くなって、露神を見た。露神は険しい顔をして少年を凝視している。
「千秋殿、その力はどうなされた」
「あ、これ、わかりますか? あの、ぼく、やったんです」
「やった? 何を為された」
「だから、このチカラを使って、僕をいじめてた奴等に思い知らせてやったんです」
妖怪たちが悲鳴を上げた。
「なんということを」
「おお、おいたわしや。この年でそのようなことを」
口々にさえずるあやかしたちを制して、露神は口を開いた。
「千秋殿、どうやら長く遊ぶうちに我らの力が移ってしまったようだ。本来、このチカラは人が扱えるものではない。そのまま放置すると必ずや御身に災いをもたらすだろう」
「そんな、」
千秋はほとんど泣きそうだった。
露神は静かに首を振る。
「もう会わぬ方がよいかもしれぬな」
「そんな!」
「良かれと思ってしたことだったが……。このままでは御身のためにならぬ」
「お願いです! 許してください。もうしません。どこにもいかないで!」
「どこにも行きはせぬよ」
露神は優しく言った。
「我らの住む世界と御身らの住む世界は元々重なり合っておる。我らは居るとも言えるし居らぬとも言える。ただ、あるべき姿に戻すだけ」
風が静かに室内に流れ込んだ。放り投げられた巻物がかさかさと風に揺れる。露神が口をすぼめてそっと息を吐いた。すると、見る見るうちに妖怪たちの影が薄れ、滲むように消えてしまった。後には、千秋だけが残された。千秋は声を限りに泣いた。自分の胸の奥から何か大切なものが抜け落ちてしまったような薄寒い心地が恐ろしく、また悲しくて日が暮れるまで泣き伏していた。
「どうしたんだ千秋は。もう三日も学校へ行ってないんだろ?」
「そうなのよ。この前泣き腫らして帰ってきてからほとんど何も口にしてないし」
学校へ言った方がいいかしら、という妻を宥めて、浩介は居間に戻った。彼には千秋のこと以外にも考えることが山ほどあった。明日も学校へ行かないようなら何か対策を考えようと心に決めてネクタイを締める。玄関のドアを開けると、夏の苛烈な日差しが降り注いでいた。
父が出勤した後も千秋は薄暗い部屋でベッドに横たわっていた。三日間碌に食べていないが欲しいとも思わなかった。もう千秋には何一つ残っていない。友人も、チカラも。このまま部屋でずっと暮らそうか、と本気で思っていた。学校へ行くのが恐ろしくてたまらなかった。すでに千秋には力がないのだ。ひょっとすると手酷い報復を受けるかもしれない。そう思うと怖くて立ち上がることができなかった。
扉の外に人の気配がした。
「もうお昼よ。昼からでもいいから学校へ行きなさい、ね? 大丈夫だから」
母の声はすがるようで、千秋はそれ以上聞いていられずに頭まで毛布をかぶってしまった。
浩介は息子の部屋の前にたって息を深く吸った。思えば息子と改まって話をするのも初めてだ。
「千秋、入るぞ」
部屋は薄暗く、雑然としていた。据えたようなにおいが鼻を衝く。
「千秋……」
千秋はベッドにうずくまっていた。起きてはいるようだが返事はない。浩介はベッドのまえで膝をついた。
「父さんに何があったか話してくれないか」
返事は期待していなかったが、しばらくして千秋が顔を起こした。その顔は涙で腫れて白い頬が微かに色づいていた。
千秋は中山寺のことも、学校でのこともすべてを話した。もう一人で抱え込むのは限界だったのだ。話し終わると、浩介はしばらく黙ったままだった。千秋が不安になり始めたころ、ようやく口を開いた。
「父さんはカミサマとか妖怪とか、そういうのはよくわからないけど、もし千秋が失って辛かったのならそれはお前にとってとても大切なものだったんだ」
浩介はベッドに腰掛け、息子の肩をなでた。手のひらに小さな震えが伝わってくる。こんなに弱弱しかったのか、と浩介は思った。肩に手を回し、ぎゅっと抱きしめた。震えが少しずつ小さくなって、肌が触れた部分がじんわりと暖かくなった。
「父さん、明日、謝ってみる」
かすれた声で千秋が言った。浩介は小さくうなずいた。
学校はいつもよりも無機質でよそよそしく見えた。薄汚れたコンクリートの外壁がどことなく荒れ果てた刑務所を連想させる。千秋はなるべく顔を上げないようにして靴をはきかえ、教室に向かった。一歩進むごとに心臓が跳ね上がり、口からこぼれそうだった。
教室には、坊主頭の少年がすでに来ていた。机にカードを広げて何やら話している。千秋は跳ねまわる鼓動を努めて気にしないようにして、少年の前に立った。少年の目に恐怖の色が浮かぶのを目にして、ずきりと心が痛んだ。
「あの」
「な、なんだよ」
「この間は本当にごめん」
少年はあっけにとられたような顔をしたが、すぐに立ち直って笑顔を見せた。
「気にすんなよ。こっちこそ悪かったな。そうだ、今日サッカーやるんだけど来ないか?」
「あ、うん。行くよ」
緊張した面持ちで見つめていた周囲の子供たちが途端に騒ぎ始めた。千秋は胸の奥のこわばりがほどけていくのを感じた。
山はもう紅葉が始まっていた。時を経ずして山全体が色づくだろう。千秋は手に持った袋を揺らさないようにして慎重に石段を上った。
久しぶりに来たせいか随分疲れた。境内には人っ子一人いない。御堂の襖をあけて、隣町の芳林堂で買った和菓子を置いた。風が前髪をなでた。なぜか懐かしい匂いがして、千秋は微笑んだ。
遠くで彼を呼ぶ声がした。
今いくよ。
千秋はつぶやいて石段を降りた。もう来ることもないだろう。後には風が緩やかに笑っていた。




