04葵衣
『やっぱいいわ』
そのメールが来たのは待ち合わせ時間の十分前だった。
佑奈はすでに集合場所で、寒さに堪えながら待っていたなかでのメール。
行き場も名もない感情を胸に押し留め、空を見上げて大きく息を吐き出した。
その哀れな感情は、白い吐息となって空にとける。
なんとなく、こうなることは分かっていた。
〝猫〟からの呼び出し。それが何を意味するのかなんて、考えなくてもわかる。〝猫〟が「来い」といったら、そういうことなのだ。
しょせん抱かれるだけのただの玩具。そこに佑奈の想いは、入れてはいけない。
口付けは許されず、ただ拒否権のないままに。
佑奈は弄ばれる。愛しい人に。利用されて。
「辛いなぁなんて嬉しいくせに」
やっと会える。自分を見てくれる〝猫〟に。
そう思っていたのは本当だ。
だからタンスの奥から、お気に入りのワンピースを着てきた。
でもあの日から、今までもずっとそうだった。
振り回されて抱かれて。そのあとはポイ。捨てられたあとは一人で泣いて、また立ち上がって、また抱かれる。
それの繰り返しなのだ。
「――な。ゆ……な。佑奈!」
「……え? あ……、葵……?」
「もう! こんな寒いところでどうしたの?寒いから中入ろうよ」
「葵……なんでここに……?」
「そこのコンビニに買い物にきてたら、佑奈が見えたの。佑奈こそ、こんなところでなにしてるの?」
葵に手を引っ張られ、近くのカフェに連れていかれる。
佑奈は黙って、ついていくことしかできなかった。
葵は佑奈を椅子に座らせると、ココアを二人分頼んで隣に腰を下ろした。
「どうしたの?なにかあった?」
「……」
「佑奈」
そっと頭をなでられ、あふれ出ていた涙が頬を伝う。
「あ、あの……ね、好きなの。好きなんだよ。愛してるの」
「……うん」
「遊ばれてるって、分かってる。利用……されてるって、わかってるの。でも…! それでも、そばにいたいの…!」
次呼びだしされたら行かない。そう誓ったことは何度もある。
でも、〝猫〟に会いたくて。繋がっていたくて。
たった一つ残されたこの関係の糸を、切ることはできなかった。
「……佑奈。でも、それじゃあ駄目だよ」
「わかってるよ……。こんなの、幸せじゃない。こんなの……望んでない」
「今のまま、帰ってきてもきっと嬉しくないはずだよ」
「でも……これ以上、離れたくない」
「繋がりが完全にないわけじゃないでしょう? 同じ学校じゃん。毎日だって会える。佑奈の得意な『〝猫〟観察』したい放題じゃない。それはもう、ちゃんと繋がってるよ」
「そう……だけど」
「佑奈が〝約束〟を大切に守るだけでも、繋がりになる。だってその〝約束〟はあなたたち二人だけのものだもん」
「うん……」
葵の言葉がすっと心にしみこんでいく。
一歩離れてみれば、簡単な答えだった。
恋に盲目とはこのことかと、佑奈はふと思った。
「わたしは、佑奈自身を大切にしてほしい」
ぎゅっと手を握られる。温かい手だった。
「〝猫〟は……りょーくんは、そばに…いるの……?」
「佑奈が心で思いだすだけで、そこにいるよ」
ぼろぼろと頬を濡らす涙をそっとハンカチでぬぐってくれる葵。
そうだった。葵はいつも、辛い時はそばにいてくれた。
葵に視線をうつすと、葵の目がうっすらと潤んでいる。
それに気付いた瞬間、さらに涙があふれ出た。
「……葵」
「うん?」
「えへへ、だぁいすき」
頬を濡らしたまま、満面の笑みを葵衣に向けた。
目も顔も真っ赤にして、鼻水と涙でぐしゃぐしゃになりながら。
佑奈は、ありったけのありがとうを伝えた。
「……うん、私も大好き」
葵はそっと涙を流しながら、やっぱり笑顔でどういたしましてを伝えてくれた。
その時、タイミングよく注文したココアが出てくる。
二人はしばらくじっと、ゆらゆらと立ち上る湯気を眺めていた。
「……それにしてもさ、葵」
「なぁに、佑奈」
「ココア出てくるの、ちょっと遅くなかった? タイミングがいいというか」
「あ、それ私も思った」
「それに……」
そっと視線を右に流したそのさきにあったのは、頼んだ覚えのない星型のクッキーが二つ。
先ほどココアを持ってきたウエイトレスさんが、そっと置いていったものだ。
葵がそのクッキーを手に取る。
「やばいね、佑奈さんや」
「だね」
「ここの人、優しすぎだわ」
「今時の日本にこんな優しい方がまだいたなんて。まだまだ日本も捨てたもんじゃないね」
「どこの誰よ」
「ここの私よ」
お互い顔を見合わせて、数秒。
葵がふふっと笑いをこぼした。
「どしたの?」
「佑奈、すごい顔」
「え! き、ききき気のせいだよ!」
「はいはい、それでいいから顔洗ってきたら?」
「……ぬ。そうする」
よっこらしょと席を立ち、周りの人にあまり顔を見られないようそそくさとトイレに駆け込む佑奈。
ばしゃばしゃと一しきり顔を洗ったあと、ふと鏡にうつった自分の顔をみて、思わずなるほどと呟いてしまった。
「さすがに、ちょっと腫れすぎ」
急いで持っていたタオルを濡らして目にあてる。
冷たいタオルが視界を遮る。そっと目をつぶって壁にもたれかかった。
「りょーくん」
〝猫〟の名前を口にするたびに、心が痛む。
隣にいない愛しい人。裏切り者の最低な男。それでも忘れられない大切な人。
「しばらく、さようならにしようと思うよ。私だけのあなたに会えないのはすごくさびしいけれど。私と、私の未来のために。さようならだよ」
葵が教えてくれた。たとえ会えなくても繋がってるんだってこと。
目からタオルを外して、再び鏡を見つめる。
腫れていた目は少しましになっていた。
「よし!」
気合を入れるようにぱしんと頬を叩いてから、佑奈は葵衣が待つ席へと胸をはって歩いて行った。