02卒業
3月1日。
その日も、いつも通り、何の変わりもなく朝がやってきた。
最後となる制服を身に付け、もう通ることがないだろう通学路を通って、佑奈はいつもより少し早く校門についた。
ちらほらと校門をくぐっていく生徒たち。知り合いを見つめては、「おはよう」を言い、しかしそれも今日で最後なのだと思うと、なかなか足が動かず、じっと校門に突っ立っていた。
門を覆うように咲き誇る桜から、風で舞い降りてくる花弁をそっと手で捕まえては放す。
「――あぁあ、今日で最後かぁ」
大きなため息とともに、改めて今日が卒業式であることを実感する。
そんなとき、ぽんぽんと肩を叩かれた。
「おはよう、佑奈」
すぐ後ろにいたのは、少し(いやだいぶ?)目を赤くした葵衣の姿。
佑名はつい笑い出しそうになるのを抑えて、挨拶を返す。
「おはよう、葵衣。目が真っ赤だよ」
「だ、だって今日で最後なんだと思うと……」
「いやいや、泣くのは早いっしょ」
「……昨日からですけどなにか」
きっと涙でうるんだ目で睨まれると、抑えていたものもあふれだす。
佑奈はいつものように、笑い声をあげた。
「ばっかだね、葵衣。早すぎでしょ」
「し、仕方ないじゃん。うるさいなぁ。もう知らない」
「あ、ちょっと、待ってー!」
怒ったように先に校門をくぐろうとする葵衣の手をぎゅっと握る。
葵衣は振り向かなかったが、握り返してくれた。
「よし、いこっか」
「うん」
そうして、桜の花道を通って、佑奈たちは高校生活最後の日を迎えた。
「卒業証書授与される者。一組……」
校長、来賓の方の長ったらしく、ありがたーい祝辞を終え、五人ずつ賞状が渡されていく。
一組が終え、二組の番。
見知った友達がどんどん舞台へ上がっては、降りてくる。
その中には葵衣の姿もあった。
入学してからすぐ知り合って、それからずっと一緒だった。。
しんどいときも悲しい時もいつもそばにいてくれて。
たくさん助けられて。一緒にいるのが楽しくて。
賞状を渡された葵衣が降りてくる。
ふと目が合うと、やっぱりその目は真っ赤で。
思わずこぼれた笑みを見た葵衣は、もうと小さく頬を膨らませた。
「三組」
あっという間に自分のクラスの番だ。この一年を供に過ごしたクラスメイトが、また昇っては降りてくる。
弥生の姿も見えた。
すっと伸びた背筋。相変わらずでかい胸。
初めてこの学校に来たとき話しかけてくれたのは弥生だった。
それから笑って、泣いて。
喧嘩して、仲直りをして。
そんな日々が昨日のように思い出された。
そうして佑名は立ち上がり、五人のなかの最後尾に並んで歩きだす。
舞台の真ん中に設置された階段をのぼる。右から名前が呼ばれていく。
「吉崎 佑奈」
「はい」
代表者が賞状を受け取り、佑奈たちは回れ右をして横の階段から下りていく。
ふと、舞台の下に目をやると、仲間がたくさんいた。
この三年間をともにした大切な人がいた。
後方の二年生の席には翔の姿。
指の先まで伸ばしたセーターで何度も頬をこすっている。
昨日、絶対泣かないとか言ってたくせに。
思わず口が綻ぶ。あとで思いっきり笑ってやろうと決めてから、佑名は舞台を降りた。
「四組」
佑奈たちが席に座ると同時に、四組の人たちが立つ。
懐かしい背中が舞台へと歩いていく姿を、佑奈はじっと見つめる。
やがてその背中は舞台へ上がり、名前が呼ばれるのを待つ。
「大原 凌介」
「――はい」
何度もこの耳で聞きなれた声が、体育館に響く。
回れ右をした〝猫〟とふと目が合う。
〝猫〟が声もなく鳴いた。口ぱくのはずなのに、なぜか耳元で〝猫〟の声がした。
『ばーか』
目を三日月のように細めて〝猫〟が笑う。
三年間変わらないその笑顔。
あの笑顔に惹かれて、溺れていった。
だから佑奈は最高の笑顔とともに、口を開いた。
『あーほ』
声が聞こえたのか、〝猫〟はもう一度こちらを振り返ってから、席に座って見えなくなった。
そのあとも賞状の授与は続き、最後の一人がし割ったとき、大きな拍手が起こった。
「卒業証書授与式を終わります。卒業生退場」
その言葉を合図に、佑奈たちは音をそろえて席を立つ。
祝福の拍手と、佑奈が所属した吹奏楽部の音楽に見送られ、体育館を後にする。
あっという間の卒業式だった。
あっという間の三年間だった。
あっという間に佑奈たちの高校生活は幕を下ろした。
「佑奈」
その声は突然聞こえた。
最後のホームルーム時間が終わり、クラスメイトに涙ながら別れを告げているさなかのことだった。
何気なく振り返った佑奈は、その視線の先にいた意外な人物に体を固まらせた。
「ちょっと来てほしいところがある」
驚きと同様で思考回路が停止している佑奈の手をひっぱり、その声の持ち主はさっさと教室を出て、階段を下り、上履きもそのままに校門を出る。
「え、え、え、え?」
今や遠くなった教室の窓から、佑名と同じように困惑の顔をのぞかせるクラスメイトや弥生の姿が木々で見えなくなった頃、やっと我に戻った佑名はあわてて足をとめた。
「ま、待って待って、どこ行くの? てか何事?」
「――きまってるだろ」
そう言うと再び佑奈の手をひっぱりながら、ぐんぐん進む。
いやいや、きまってるって何さ?
「も、もう、ちょっと……」
いい加減、離してよ、と続くはずだった言葉は、佑奈の喉で止まった。
佑奈の足が自然と止まる。
きっとここに来たかったんだろうと、分かったから。
前を歩いていた足も同じように止まり、佑奈の腕が離された。
佑奈は逃げなかった。
「――ここに、来たかったの?」
「……おう」
校門を出てまっすぐ直進をしてしばらくのところにある、小さな公園。
桜がきれいに咲き誇っている。公園の地面は桃色のじゅうたんで敷き詰められていた。
どちらからともなく、その公園に足を踏み入れる。
滑り台とブランコがあるだけの小さな公園。
二人はまるで〝約束〟していたかのように、隅にあるベンチに腰を下ろした。
「〝猫〟。かあ。我ながらよく名付けたよね」
「猫?」
「うん。〝猫〟はね、笑うと可愛くてね三日月みたいに目がほそーくなるの」
「――……おう。それで?」
「鳴き声も変でねぇ。遠くにいてもすーぐ分かるんだよ!」
「さすがお前だな」
「でしょ」
「他は? その猫ってどんな猫?」
「茶色の毛をしていてね。すぐに耳のそばの毛を触るくせがあってね。足が短くてね」
「うるせぇ」
「それでね、ボール蹴るのが得意でね」
「まあな!」
「可愛くて、それから……可愛くて、ね」
あふれだしてくるものを必死に止めようと、佑奈は上を向く。
「わ、私と……いるとき、がね……。一番……可愛くてっ……」
「ああ。楽しかったな」
「……っ……なのに、……ね」
「……なのに?」
絶対帰ってくるって言って出て行ったくせに、他の飼い主を見つけてしまったバカ猫。
そんなことがいいたいわけじゃないのに。
もっと、違うことがいいたいはずなのに。
笑顔でいたいはずなのに。
「…っ…ひっく……」
「――ごめん。ごめん、佑奈」
「りょ、りょーくん……!」
久しぶりに口にした名。
久しぶりに耳にした、その声で紡がれる自分の名。
小さな公園には、たまに目の前を通る車のエンジン音と、佑奈の小さな嗚咽だけ響いていた。
何が悲しくて、どうして泣いているのかは佑奈にも分からなかった。
ただただ、涙があふれ出てきていた。
佑奈はベンチのうえで三角座りをし、その膝の上に顔をうずめる。
「佑奈?」
「……」
「佑奈、ほら、見てみろよ。お前の大好きな桜がいっぱい舞ってるぞ」
その言葉に三秒ほど思考を働かせてから、そぉっと顔を上げる。
膝から目だけをのぞかせ、舞い踊る桜を目で追い続けた。
「……」
「……」
どれくらいそうしていただろうか。
〝猫〟はふっと笑いをこぼした。
「ど、どうしたの?」
「いや、この場所で。佑奈の隣に座るのも、こうやって佑奈の泣き声を聞くのも、ずいぶん久しぶりだなあって」
「そう……だね」
一年以上前の事だ。ここで〝猫〟と別れたのは。
もう一年もたっていたのかという驚きと、まだ一年しか経っていなかったのかという寂しさ。
二人はやがてゆっくりと、同時に目を閉じた。
舞い散る桜を白色に塗り替える。
桃色のじゅうたんを銀色に。少し騒がしい昼の光を、静寂な夜の闇に。
そうして二人はまた、同時に目を開けた。
そこは、あの時と同じ景色をしていた。
「なぁ佑奈?」
「なあに?」
「なんで今日、お前をここに連れてきたか分かるか?」
「……分かんない」
「じゃあ、さぁ。俺らがまだ付き合ってたら、何していたと思う?」
「――そうだねぇ。しょうもないことで盛り上がって、笑って、しあわせに、過ごしてたと思うよ」
「奇遇だな、俺もそう思う。佑奈ほど俺を大切にしてくれる人にはもう出会えない気がする」
「えへへ、なんか照れるね。ありがとう」
「笑ってるお前をみてると、なんで俺はお前の手を離してしまったんだろって。佑奈と将来のことを当たり前に話してた、あのころが幸せだったって今更に気付いたんだ」
「……うん」
「好きだ、佑奈」
――佑奈は。
別に驚かなかった。涙でうるんだ目で一度まばたきをしてから、膝の上に今度は顎を置いた。
「そっか」
「驚かないんだな」
「まぁね! りょーくんのことなんてなんでもお見通しだっつーの!」
そんなの嘘だ。予想外だ。全然想像なんてしてなかった。
でも、驚かなかった
〝猫〟――りょくんは、佑奈の言葉に目を見開いてから、やっぱり敵わねぇや、とつぶやいた。
「りょーくん?」
「あ?」
「ずっと待ってたんだよ」
別れて一週間は元気だった。だって帰ってくるって信じていたから。
別れて一カ月が過ぎた頃には、もう駄目だった。
「ずっと辛かった。ご飯も食べれないし、寝れないし。りょーくんからもらった『りゃんこ』を何回びしょびしょにしただろってくらい泣いた」
そうして二カ月が過ぎて、りょーくんとの間に奇妙な関係が生まれて。
「利用されてるって分かってるのに、嬉しくて。りょーくんに会えることが、りょーくんの目が私を見つめる事が、嬉しくて。これで最後、これで最後って何回も言いながら会いに行ってた」
「……ごめん。それは本当に悪かった」
「ううん、謝らないで。私は嬉しかったの」
でも葵衣に諭されて、やっと間違いに気づいて。
それからはもう絶対泣かないって決めた。
少なくとも、りょーくんの前では絶対に。
「りょーくんとは話せないけど、笑ってる私の顔をみて、もう一度好きになってほしかった。楽しそうな私の隣にまた立ちたいって思ってもらいたかった」
辛くても笑って。はしゃいで。
でも埋まらない穴をどうしても埋めたくて、いろんな人と付き合ったけど、やっぱりいつでも思い出すのはりょーくんで。
不意に、春の風が吹く。
雪景色だった世界が、桜が舞う暖かな春に戻ってきた。
「そう、この、風。あの子は――翔は。この風みたいに、ふぅって私の中に入ってきた。ただ幸せになりたかったんだろって言ってくれた。俺が、幸せにしてやるって」
もう涙は出なかった。
〝今〟の私が帰ってきた。
「りょーくんの嫌いなところなんてない。今も大好き」
「――うん」
「幸せだった。付き合ってりょーくんと夢を見ている間も、別れて絶望の淵にいたときのことも、今は幸せだったって思える」
「……」
りょーくんは何も答えなかった。
たまに、鼻をすする音が聞こえ、そのたびにりょーくんは頬をぬぐっていた。
佑奈は気付かないふりのまま、桃色じゅうたんに足をおろし、立ち上がった。
「りょーくん。りょーくんはずっとずっと、私の中で大切な人だよ。忘れられない人」
「――っ……ああ」
「でもね、そばにいたいのは、そばにいてほしいのは、翔なんだ」
「……そっ……か。そっか……」
「りょーくん、未来のことで悩むのはきっとすごく幸せなことだと思うよ」
「しあわせ?」
「うん、悩むことも幸せなの。だから、さ! りょーくんはりょーくんらしく、笑って、進んでみなよ!」
佑奈はゆっくりと振り返った。
そこにはベンチに座ったまま、佑奈を見上げるりょーくんの姿があった。
「やっぱり……」
りょーくんはふと口を開いた。
佑奈は、ん? と問いかける。
「やっぱり、佑奈は、強いな」
あまりに意外な言葉に佑奈はしばらく目を見開いてから、くすくすと笑った。
「葵衣と、弥生と、はると。翔と。りょーくんのおかげだよ」
左の小指が輝きをまして、サクラの香水の香りが佑奈をつつみ、耳の蝶がはねを揺らして、胸のウサギはじっと佑奈を見守って。
佑奈の心に降る雪が、新しい道を作り出していた。
「そっかあ。――なあ佑奈」
「ん?」
「俺に幸せの意味を教えてくれて、愛してくれて、ありがとな。佑奈のおかげで今の俺がいる」
「どういたしまして、りょーくん。こちらこそ、大切な思い出をありがとう。今の私がいるのもりょーくんのおかげだよ」
りょーくんもまた、ゆっくりと立ち上がった。
そこには、見慣れた笑顔があった。目を赤くしたりょーくんの笑顔があった。
「あっれーりょーくん、おめめが真っ赤よー?」
「はっ。まぁちょっと、○撃の巨人と戦って、砂が目に入ったんだよ」
「まじで。一人で戦ったの?」
「おうよ。よゆーで勝ってきたわ。泣いて命乞いしてきた」
「うん……それはそれでキモイかも」
「お前こそ、目、赤いぜ」
「ああ、ちょっと私も海賊王と戦ってきて、砂が目に入ったの」
「まじかよ。一人で?」
「当たり前じゃん! ル○ィーも指くわえて眺めてたわ」
「一応、主人公じゃなかったか、○フィー」
「違うよ、私が主人公だよ」
くすくすと笑いをこぼして、しまいに耐え切れなくなって二人で声を出して笑いだした。
「さっすが佑奈。ノリについてくる感じ、懐かしいな」
「でしょー? えっへん!」
一しきり、笑い合って、テンションが上がって公園を駆け回った。
「――ふぅ、俺ら、アホみたいだな!」
「いまさら!」
あはっと笑い返して、佑奈は公園の隅に咲いていた桜に近寄った。
この公園で春を見たのは初めてのはずなのに、この桜の木だけは初めて見た気がしなかった。
いつも心の中にいたような、そんな感じ。
「佑奈」
名前を呼ばれて振り向く。
すぐ近くにりょーくんがいた。
「――ただいま、佑奈」
「おかえりなさい」
いってらっしゃいと、りょーくんに告げたあの時と同じように。
行ってきますと、返しくれたあの時と同じように。
二人とも笑顔だった。
「佑奈、愛してる」
「うん。りょーくん、愛してた。――もう一度、その言葉が聞けて、よかった」
「ああ、俺も、言えてよかった」
そうして二人は公園の出口まで歩いて行った。
桃色のじゅうたんを踏みしめ、ゆっくり、ゆっくりと。
やがて公園と道路の境目に立つと、佑奈はりょーくんと向き合った。
「んじゃ、私は葵衣とのデートがあるから学校に帰るね」
「おう。俺も、ダチとボーリング行ってくるわ」
りょーくんは手のひらを佑奈に向けた。
佑奈はしばらく考えてから、自分の手のひらを合わせた。
前と変わらない大きな手だった。
指を絡めあう。
「じゃあね、りょーくん。今度は、さようならだね」
また会えるかもしれない。もう、会えないかもしれない。
少し、いや、だいぶ淋しい。
けれど、大丈夫。
二人が過ごした幸せな過去と、翔と歩むこれからの未来。
それがあれば、なんでもできそうな気がした。
だから、佑奈は笑えたのだ。
「――いや、違うぜ」
予期しなかった返答に、佑奈は首をかしげた。
りょーくんは潤んだ瞳に笑顔をのせて、言った。
「いってらっしゃい、だ。佑奈。いってらっしゃい」
「――…うん。いってきます。りょーくんも、いってらっしゃい」
「ああ。いってきます」
ただいま、は、もうないけれど。
絡めあっていた手をそっと離して、微笑み合って、佑奈たちはお互いに背を向けた。
そして、そっと一歩めを踏み出す。
かつて隣で一緒の夢を見て人は、もういない。
でも心の中にはずっと居続ける大切な存在。
時が過ぎて、寄り添える人を見つけて。
大好きな親友ができて。
一緒に笑えるクラスメイトができて。
離れてても応援してくれる友だちがいて。
――ああ、幸せな高校生活だったな。
佑奈は青い青い空を見上げ、やっぱり笑顔で、そうつぶやいた。
やがて見えてきた校門。見慣れた顔がたくさんあった。
「佑奈ー! どこ行ってたの! 早く写真撮ろうよ!」
何も聞かずに大きく手を振ってくる弥生。
ぶんぶんと手を振るたびに揺れる胸がすごくむかついて、佑奈は少し早足になった。
「早く来ないと今日のデートなしだから」
相変わらずツンツンとした態度の葵衣。
しかしその目は遠目からもわかるほど赤いのが、かわいくて、佑奈はまた少し早足になった。
「もうみんな、集まってるぞー!」
いつもの声で、いつもの笑顔で、佑奈を迎えてくれる翔。
胸の奥が温かくなって、そぉっと背中を押す春風に乗って、佑奈は駆け出した。
「みんな、ただいまー!」
大切な人たちの輪に佑奈は飛び込む。
「お、おかえりなさい。相変わらずすごいアタックね」
「おかえりんごー」
「おかえり、佑奈」
ただただ驚く弥生と、避難する葵衣と、受け止めてくれる翔。
さぁあっとひときわ強く風が吹き、桜が舞った。
たくさん泣いてたくさん笑った三年間だった。色んな人に出会えて、成長できた三年間だった。
忘れられない、最高の三年間は、こうして幕を閉じた。




