03 恐れるのは仔犬な青年とのさよなら・・・か?
私は結局彼の思惑にのったただの都合の良い女―――?
目が覚めると、目の前に肌ツルツルな彼の寝顔を見て心臓が飛び跳ねた。
朝からプチパニックを引き起こした目は驚く速さで眠気を吹き飛ばした。
よくよく状況を思い出して見れば、1日目私は大泣きして彼に抱っこされながら寝てしまったのが原因で、それから布団を出すのも面倒ということで、一緒のベッドで寝ることに決定したのだった。
慣れない事なので、ついつい自分がパジャマを着ているかどうかを確認してしまうのだ。
彼には申し訳ながら、弟が忘れていったジャージを着てもらっているため、なんだか親近感が沸いてしょうがない。
ベッドのヘッドボードに置いてある目覚まし時計を確認しながら、予定よりもだいぶん早く起きてしまった事に気が付いた。
ちょうどいい機会とばかりにまじまじと近くで見つめていたのかもしれない。
(睫毛長ぁい…)
興味本位でその睫毛に触ろうとして私は手を動かすと、彼が一瞬ピクリと動いた。
「美羽……」
「…っ!」
急に名前を呼ばれて私は伸ばしかけた手を止めた。
…寝言?
急に呼び捨てされたからドキッとした。
彼が起きないことを確認すると、そろそろとベットから起き上がった。
……が、起き上がろうとしても、外からの重力がかけられておき上がる事ができない。
むむ。
私は、自分の体を見下ろして確認すると、そこには彼の左腕がしっかりと私の腰に巻きつけてあったのだ。
ご丁寧に右腕は私の頭の下に敷いてあったらしき痕跡。
うーんと唸りながら考えて見ると、私は昨日の夜、途中からパニックになって…それから…。
思い出してみて、唇が触れた感触を思い出して一人慌てた。
わたわたした自分を見せたくなくて、遠慮無しに彼の腕を離すと、仕事に行くための身支度を開始し始めた。
浴室に行くときに、ゴンっと豪快な音がした…ような気がした。
大体の身支度を終えた頃、目を覚ましたのか彼は目を擦りながら冷蔵庫の方へスタスタと歩いていた。
「お、おはよう・・・・」
「ふぉふぁよう・・・・ございます・・・・。」
まだ眠そうな朝の挨拶|(欠伸つき)が返って来て、私は彼の行動を目で追った。
冷蔵庫を開けてミネラルウォーターを出すと、そのままボトルに口を持っていき…そうになったが、思いなおして食器棚からコップを出して水を注いだ。
水を飲んでから一息つくと、ようやくきちんと目が開いて私の方を見た。
「…?今日、仕事…?」
「うん、今日月曜日だよ…?」
私が一言言うと、彼は何を思ったのか一瞬だけ動きを止めて私を見つめ返すと、強張った顔が苦笑に変わって「そっか」と一言と返してきた。
私この時忘れていた。
今日は彼が来て3日目だってこと。
私と彼が現実へ戻ってしまう時間だって言う事。
朝食を食べ終えて私はすばやく準備をし終えると、身の回りの確認をして、彼に今日の予定を聞いた。
たぶん聞いても、今日は彼1人だし、お金…もないしする事はないんだろうけど。
「伊織くんは今日は何する? 私は仕事だから帰りは6時くらいなんだけど」
「ん~? 今日は…そうだ。紙と書くものある?」
「紙と書くもの?…寝室にあると思うけど」
「じゃ、それ借りて俺も仕事しとく」
「そう? お昼用のご飯、冷蔵庫にラップしてあるから適当に食べてね? …じゃぁ、行ってきます」
「いってらっしゃい」
伊織は美羽を送り出すと、言われた通り紙とシャーペンを美羽の部屋から取り出してきて、仕事に取りかかった。
――いってらっしゃい。
その言葉を聞いたのは本当に久しぶりだった。
彼から言われたからか、美羽の心の中は温かいと感じた。
「美羽。おっはよ」
「あ、おはよ」
会社に着いて一番に声をかけられたのは、会社の同期の藤崎八重だった。
「今日は珍しく早いじゃなぁい。どうかしたの?」
覗きこまれながら言われると私は頭の中に一瞬、彼を思い浮かべた。
しかし、私はそれを振りきって、八重に向かって笑いながら言葉を続けた。
「今日は早く目が覚めちゃったの」
「…の割に、妙に嬉しそうな顔してるし、」
そう言葉を途切れさせて八重は私の首元に鼻を寄せてクンクンと犬のように匂いを嗅いだ。
「なーんか、いつもと違う匂いがするんだけどなぁ」
八重が私の目を見ながら「誰なの?」と詮索するように見つめてきて、私はとっさに会社の方へ向かって足早になり、「あとでね」と冷や汗をたらしながら入り口へ入っていった。
仕事中に何回も何回も八重の攻撃をくらいながら私はそれとなくあしらい続けた。
「ねぇ、一体誰なの?」
「さ、さぁ? 電車でついたんじゃないの?」
「そんな一瞬の出来事が、2、3時間も染み付いたままなのかしら」
「うっ・・・」
「しかも、首よ、首。こ~んなヤラシイところについてるなんて、よっぽど妖しいじゃない」
「…っ!」
八重の指に突き刺された部分を掌で覆って、隣に平然と立つ八重を睨んだ。
八重は私のの反応を見て何かを確信したのか、誇らしげに笑んで見せて「白状しちゃいなよ」と目で語っていた。
「北条さん、これ今日の分です」
「ありがとう」
「さぁ、どうなの?」
隙も逃さない八重の言葉に、ビクビクした。
…怖いよ。その言葉が口から零れるかと思って必死に口を閉ざした。
「どうかしたんですか?」
「あなたには関係のないことよ。仕事に戻りなさい」
八重のちょっぴり厳しい言葉に、後輩も素直にしたがって、私を少し見てお辞儀をすると、潔く去っていく後姿を私は潤んだ目で追って、もう助けは来ないのかと半ば諦めを起こした。
「…八重ちゃん、お昼休みじゃだめ?」
「ちゃんと話してくれるの?」
「所々…、不都合があるから、端折るけど…」
私は八重の威圧に圧倒されて語尾がだんだんと小さくなっていく。
こんなはずじゃなかったのに…。
それに納得したのか、八重は「わかった」と納得してスタスタと自分のデスクに戻っていった。
その後姿がしてやったり…と笑っていたように見えたのは、
私の気のせい…だよね?
*****
会社に着いてからずっと頭を巡るのは、家の中にいる彼とこれから先の事。
朝からさっきまでの出来事を思い返して見て、私はずっと溜め息をついていた。
なぜか?
それは、さっき思い出した、給料日の存在と『別れ』の存在。
私の仕事はだいたいが課全体の総務の仕事で、パソコン処理を主にしている。
仕事は自分でも、バイトで培ってきた経験を活かしているつもり。
仕事には絶対の自信があるけれども、
今、心の中でうごめく気持ちには全然自信と言うものがない。
はぁ…。
私が、課の部屋に聞こえるくらいの何度目かの溜め息をつくと、さすがに課長も他の人も私を気にしてかチラチラと私の方を見てくる事がわかっていた。
「北条…そんなにきついなら、私のところに分けてくれても良いんだが……」
課長が心配そうに私に声をかけると、私は何か取りとめもない気持ちに追いやられて、八重ちゃんを見ればしっかりデスクに向かって仕事をしている。
…何か、うううっ…。
せっかく人が意気込んで仕事していたのに。
「北条、藤崎さんと一緒に休憩に入らせていただきます。そして、すいませんが気分が優れませんので帰りますね」
「え!?」
「あ、あぁ」
私は八重を引っ張っていくと、ロッカー室に向かって力なく歩き出した。
心のモヤモヤはなんですか。
八重に問いたくなった。
「んで、私に話すって決めてからのその変わりようはどう言う意味?」
「…」
「何があったの?」
どうしたと聞いてくれる八重の言葉が、朝よりも何だか優しさ増しになっていて、心が晴れない私を冷静に見ている気がしていた。
「私ね、金曜日に……学年で言うと二個下なんだけど、その…男の子を拾いまして…」
「は!? てか、話しが飛んだ。で?」
「で、トラブルがあってお金とか連絡手段がなくて家に帰れなくなったらしくって、」
「うん」
「しょうがないから、今家に泊めてるの」
「え?」
「だからね、今日お給料日でしょ? それで、今日帰っちゃうの」
「……ちょっと待て。支離滅裂だし…、妖しくないのか、その男は。しかもあんた、」
「全然妖しくないの、学校行きながら仕事もしててね、ちゃんと稼いでる。それからね、手も震えなくてむしろ安心するっていうか。その、色々おかしいの」
「どこが?」
「最初、会ったときも何か、こう、胸がズガンって撃たれたみたいになったでしょ?手触れたら安心するでしょ?全然怖くないし、優しすぎて…」
「…美羽、それまるっきり恋に落ちてる気がするんだけど」
「え~? 昨日、一昨日あったばっかりだよ?」
「恋に、時間なんて関係ないって私で証明されてない?」
八重の一言に、妙に私は納得はしたけれども、私の心に引っかかるのは、彼が私たちのいる現実とはかけ離れた場所にいること。
だから素直に頷けない。
「納得はできるんだけど本来なら、出会わない人なんだもん。今日帰るっていうなら、離れていっちゃうってことでしょ?」
息詰まる八重の返答に私は頭の中で、彼を思い出して憂鬱になった。
*****
「ただいま」
いつもなら1人の部屋にこんな言葉は言わない。
「お帰り美羽さん、お疲れ様」
いってきますという時もそうだったけど、ただいまという時に返答があるのっていいなと、私はしみじみしながら感じた。
しかし、こんな生活も今日までだと、バックの中に入れてある紙がそういっている。
(やっぱり、震えない)
私は自分の手を見て、そして彼の顔を見てにこりと笑顔を向けた。
靴を脱いで、1DKの広くないリビングに目をやると、そこには無数の紙が散らばっていた。
A4の紙に所狭しと書いてある文字とフリーハンドで書かれた楽譜。
「これ、全部伊織くんが書いたの?」
「うん、今日は1人にしてくれたから思いっきり、溜まってたぶんの仕事を片付けられたよ」
「…そっか」
私は、足元におちていた紙を拾い上げて、いつか誰かの詩になるであろうものにいくつか目を通して彼を見つめた。
彼は入り口に肩をついて私を見ていて何だか恥ずかしかったけど、私は再度あたりを見回して紙を拾い上げる行動を繰り返した。
「どれが誰に渡す分とか、ちゃんとわかる?」
「うん。番号ふってあるから」
彼は私の隣に来て、紙の右上に書いてある番号を指差し、私が握っている紙を受け取ろうと手を差し出すが、私はなぜかそれを渡す事ができなかった。
私が必死に涙を堪えていて、手まで意識が回らないから。
「美羽さん?」
優しく声をかける彼の声がただただ、愛しいなと感じていた。そして、寂しいとも感じていた。
「伊織くん、電話しようか」
「え?」
「伊織くんの事務所…電話しよ? 高原さんすごく心配してた」
「美羽さん、何考えてるのか言って」
彼が私の言葉で急に顔色を変えて、私の肩を掴んでいった。
「だって、いつか現実に戻らなきゃいけないのに、今日で最後なのに、何か言っても信じられないんだもん!」
私は心から、彼がいなくなることを恐れていた。