01 仔犬な青年との出会いはプロローグ
本家サイトで掲載していたものを改稿しております。
ずっと傍にいてほしい。
ギュッと抱きしめていてほしい。
そう思えるあなたに出会った。
地位も名誉も名前さえ分からないあなたに、
ただの男と女として。
その日は月に何度かの会社が設ける定期的な休日だった。
偶然、ショップが立ち並ぶ街の歩道を、ショウウィンドウに沿って私は歩いていただけ。
何の予感もなく、ただ思うがままに。
だけど、何かに引きつけられるように。
*****
「お姉さん、俺買わない?」
私に声をかけてきたの彼は、私と同じ年か、ちょっと年下っぽい感じの子で、誰にも気づかれずそっと脇に咲く花のように、ビル角の花壇の淵に一人で座っていた。
やたら目が引きつけられて後ろ髪を引かれるように、彼の前を通り過ぎようとした瞬間の出来事だった。
何を言われたのか理解ができずに、彼の瞳を思わず見てしまった。
その瞬間、私は「あぁ、最後だな」って予感がした。
人を引き付ける可愛い笑顔と、腹の底に響くような声がバズーカ砲を食らったみたいに響いた。
ぼうっとする私の顔を彼はのぞき見ながら、次の瞬間すまなそうな顔をした。
「残念なことに財布と携帯、忘れてきたみたいで、家に帰れなくなっちゃったんだよね」
「え?」
「見ず知らずの怪しいやつに、お金貸すとか善良な人って世の中少ないと思うし、お姉さんが俺を買ってくれるとすごく助かるんだけど」
「…あなたを、買う?」
「そう。俺ごと貸し出すので、その報酬として、お金をいただきたいのですが」
「あの、…」
それ、人身売買ですか…?
「いや、もちろん、家に帰れたあかつきには、利子付けて返済するので! どうかっ、この通りっ!」
得体の知れない彼は、両手を顔の前で合わせて私を拝んだ。
突然のことで何も状況が把握できない私だけれど、なぜか彼を放って置くことができなかった。
それは、彼がこの上なく整った顔をしているからとか、人を引き付ける笑顔があるからというのも一つの原因ではあるけれど、彼の瞳に私が映っていたいと図々しくも思ってしまったのだ。
しかし、世間は不況で生活するのも渇々の状態。
善意にタクシー代を出すのは、相当な痛手だった。
「……残念だけど私、給料日が明後日だから、持ち合わせが今なくって」
「はぁ、やっぱり…。そうだよなぁ」
目の前で犬の耳が垂れさがる錯覚が見えるくらい、彼は力無くその場に座り込む。
頭を抱えて唸っている時に、ちょうどその場に大きな腹の虫が鳴り響いて、両者とも考えを止めて目を合わせた。
彼は顔を赤らめつつ、「すいません。」ってすぐさま目線を外した。
私は苦笑しつつ、ポッとアイディアが浮かんで、彼と目線を合わせようと、その場にしゃがみ込んで言った。
「ひとつ、提案なんだけど」
「?」
頭の上から降りかかる声に、彼は影となった方へ顔を上げた。
見た目よりも肌かつるつるしてて、羨ましいくらい整ったパーツを持っていた。
「私にあなたと喋る時間と一緒にご飯を食べる時間をちょうだい?」
「…え?」
意味がわからない、とでも言うように彼が私に向かって首をかしげる動作を見せている。
「そしたら、あなたの家までの交通費を渡すわ。これでいいかな?」
最近では誰にも見せていなかった笑顔。
ちゃんと笑えているかわからなかったけど、声音は震えずに言えていたと思う。
彼は私の意外な言葉を聞いて嬉しそうに、そして優しい笑みを浮べた。
*****
「あなた、何歳?」
彼と横に並んで歩いていた私の質問に何の躊躇いもなくテンポ良く返事をしてくれていた。
「19。もうすぐ誕生日だから20か。お姉さんは?」
「お姉さんって呼ばれるほど、歳変わらないよ? 21だもん」
「へぇ、でもメチャクチャ働き者に見える。会社では・・・・・新人?」
「そうでもないの。もともとバイトで・・・・って、上司に知り合いがいるから口利きでいれてもらっただけなの」
冗談めいたように私が言うと、彼は「ふーん」と興味なさ気に答えながらも、しっかりとその目は私の持ち物(仕事の資料)に向いていた。
・・・・と、再度彼の腹の虫が聞こえてきて、彼はちょっと照れくさそうにはにかんで見せた。
なんか、不思議だった。
普段から人と話す事が苦手の私が、まともに人と話せていた。
そして何より、不思議と彼といる時間がもっと欲しいと思っている自分がいた。
だんだん日の入り時間も早くなってきた夕方、私たちは横に並んで帰路についた途中だった。
下町の匂いがまだ残っている商店街に来た。
その通りは、夕方の買い物客で賑わっていて所狭しと人がごった返している。
私はその中の数件に立ち寄って、夕飯の買い物をした。
「…お姉さん、俺、飢え死にしそう。」
後ろで聞こえたのは、お昼私と出会ってお昼ご飯を抜いている彼。
私は振りかえって彼をなだめるように「もうすぐだから」と急かした。
「美羽ちゃ~ん、今日は彼氏連れ? これ、おまけしとくよ」
「ありがとう! いつも、大さん優しい!」
「はははっ、上手いねぇ。いつもありがとうねぇ」
そんな会話が何件かあって、通りを抜けたらもう、マンションだった。
「私んちここ」
「へぇ、綺麗じゃん」
私が指し示したマンションを彼が見上げて呟いた。
白を基調とした完全オートロックのマンション。私は管理人さんに挨拶をして、彼を部屋に上げた。
「1DKなのに・・・・ものが少ない?」
私は部屋に帰るとすぐに彼のための食事を作り始めた。
彼はきょろきょろと部屋を見渡しながら私はただ質問に答えるだけだった。
「まぁ、1日この部屋で何かするって事が少ないからね~。寝に帰ってくるには丁度良いの」
「あぁ、だからテレビもないとか? 休みの日は?」
「そうね、見る暇がないって言った方が良いのかな? 休みは寝てる。音楽とかファッションは街をぶらぶらすれば勝手に入ってくるし」
「雑誌は見ないの?」
「ああ、うん。スクープとか信用しないようにしてるの。私の性格って、・・・・・単純だって、言われた、し。」
私はこの一瞬、忌まわしき過去にあった1人の人物を思い出した。
その間何やら手が止まっていたらしく、後ろで私を見ていた彼が私に声をかけたらしいが、私は記憶のないまま食事をしてしまった。
「ミウさん?」
「・・・え?」
覗きこまれた顔に私は我を戻して、彼の顔を見た。
何度見ても整った顔だった。
「や、何でもない。そうだ、お姉さん、ミウさんって名前だよね」
「うん、そうよ。・・・もしかして、さっきの買い物の時?」
「そうそう。どう言う字?」
「美、羽・・・こう言う字」
私は彼の手のひらを取って、指で美しい羽という漢字を書いて見せた。
そして、書き終わると食後の紅茶の準備をし始めた。
「美羽? やっぱり名前も綺麗だね。俺は伊織」
「イオリくん?」
私は彼が言った名前の音を口にすると、彼もまた、私の手を取って指で手のひらに何かを書いた。
「うん、伊集院の伊に、機織の織る」
「伊織。ステキね。はい、紅茶」
そういいながら紅茶を運ぶが、不本意ながらその手は震えていた。
「美羽さん、触っていい?」
「え?」
テーブルの足を挟んだ隣にいた彼は、いつのまにか私の真横に座っていて、ゆっくりと私の手に触れた。
私の手が彼に触れられた部分がひどく熱を帯びると共に、「ある事」が原因で恐怖に反応する。
「さっきから、ずっと美羽さんの手が震えてるんだけど。俺が触ってから尚更」
彼に言われた私は、自分の手に視線を落とした。
本当にブルブル震えていた。原因は知っていた。
私が恋愛の場数を踏んでいない理由――――元カレからの暴力。
人に近づこうとすると、怖くなる、発作的なもの。
当時は考えられないくらいに人間不審に陥って、精神科に通いつめてやっとここまで治った。
「昔、元カレからね、暴力をふるわれて、ずっと前に別れちゃったんだけど・・・。伊織くんと話していた時はそうでもなかったんだけど、さっき・・・思い出しちゃって。でも、大丈夫。」
「でも、今にも泣きそうな目」
「・・・・・っ」
私は彼に指摘された言葉を黙っているしかなかった。
見上げると、そこには伊織がいる事はわかる。
見つめ合った目が、何かに引きつけられるかのように外せない。
覗きこまれた顔が心配そうに私を見て、向き合った体は自然とそしてゆっくりと彼の腕の中に引きこまれる。
気が付けば、私は彼の長い足の膝が立てられた間に座らされていた。
背中に回された手の片方は後頭部に回って、彼の肩の部分に引き寄せられた。
抱きしめられる私。
久しぶりに感じる人肌がとても心地よかった。
「年上なのに・・・・・」
「ん?」
顔を埋めた彼の肩から微かながらに声を出すと、彼はゆっくりと優しく私の話を聞いた。
「私、年上なのに、何か伊織くんの方がお兄さんみたい」
私は微かに笑って、彼の背中に腕を回した。
*****
彼に抱きしめられながら、私の震えが止まった頃。
「そう言えば、携帯が無いって言ったよね? どうして、携帯が無いと帰れないの?」
私はまだ抱きしめられたまま、思い出したように彼に尋ねた。
すると、彼は私の顔を見て困ったかように口を開いた。
「用が終わり次第、電話するはずだったんだ。 だから、財布使う場所も無いなぁと思って置いて来たんだ」
普段ひっきーだしね、と苦笑も交えて。
「ふーん。もしかして、伊織くんってどっかの会社の御曹司的身分?」
「御曹司じゃないよ」
「えー? 立ち振る舞いとか、着てるこの服とか・・・香水の匂いだって高級感あるよ?」
そういうと、彼は「はは」とまた苦笑いをして天井を見上げた。
本当にそう思った。
着てる服はGパンとシャツとジャケットだけ(今は加湿器が効いてて脱いでる)だけど、雰囲気が違った。
街で会ったときも、人目に触れないような場所に座っていたけれど、私には十分目を引いていたし、本当に19なのかと思わせるくらいだった。
「・・・・・・じゃ、迎えに来るはずだった人の連絡先は?」
「んー。覚えてない。ボタン押すだけだったし」
「そっかぁ。だったら、お金貸すしか無いんだよね。・・・・私のお給料日、後3日なんだよねぇ。そしたら、本当にお金貸せるから。それまでここに泊まって? あ、でも学校あるよね」
私は言いながら1人自問自答を繰り返していると、目の前の彼はおかしそうに笑っていた。
「どうして笑うの?」
怪訝そうな顔で私が言うと、彼は急に笑うのを堪えて私を見た。
「いや、何か嬉しくて」
「何が?」
「美羽さんの存在が」
「?」
私は眉間に皺を寄せながら彼を見た。
「こうやって抱きしめると、何か妙に落ちつくとことか。・・・前にどっかで会ったみたいだ」
そう言って、彼は私の顎を右手の親指と人差し指で上へ向かせて顔を向き合わせた。
何をするかと思いきやただじっと熱い視線を送るだけ。
そうして、また2人は沈黙へと落ちていく。
私は慣れないことに赤面して俯きかけた時、
「…ホント、警戒心なさ過ぎて困る」
「え?」
伊織君がぼそりと何かを呟いて聞き返そうとしたと同時に唇を塞がれた。
目の前に広がる彼の顔が私の目の前に闇を落としていた。
私は驚いて最初は目を開いていたけれど、条件反射で目を閉じた。
時間にしてどのくらいだろうか。
私は緊張して呼吸をすることすら忘れていた。
その間にも彼の舌が歯列をなぞって隅々を確かめている。
重なり合った部分の隙間から酸素を求めて口を開いた瞬間、すっとスマートに彼の舌が侵入して来た。
そこからただ触れ合ったキスから、一層深いキスに変化した瞬間だった。
暗闇で感じる彼の柔らかいキス。
漏れた唇が離され、つーっと銀の糸が結ばれていた。
「何か変だ。今日会ったばかりなのに・・・・・」
ボーっとなった私の思考力は0(ゼロ)。
このキスは何を意味するのだろう。
このキスは何を予感させるのだろう。
それから、私と彼の奇妙な関係が始まった―――