14 仔犬な青年にちちんぷいぷい
仕事納めお疲れ様です!
外を眺めていると、珍しく灰色に曇った空は今にも泣き出しそうで、通りも雨を恐れてか人の行きかう姿が少なくなってきた。
外から帰ってきた直輝が、バタンと音を立ててドアを閉める音がする。
「お帰り」
「おう、ただいま。どこも行かなかったのか」
直輝と目が会うと、私に似た顔が部屋のドアのところに立って言った。
どこにもいけるはずがない。
そんな余力さえないのだから。
私がそんな顔をすると、直輝は呆れたように息をはいて、キッチンのところに立った。
冷蔵庫からミネラルウォーターを出して、グラスに注ぐと煽るように、それを口に流し込んだのが解った。
「どこか、行ってたの? 画材持って行ってなかったみたいだけど」
直輝は美術専攻だから、どこかに行くときは決まって、スケッチの画材を持ち歩く。それが今日はないようだから、何となく不思議に思った。
「あぁ、今日は友達に会いに行ってた。あれ、言わなかったっけ?」
「聞いてなかったかも。せっかく、お昼用意してたのに、帰ってこないからどうしようかと思ってた」
ゴメン、とダイニングにある、テーブルの上に用意されたランチに目を向けた直輝は、それに手を伸ばし一口つまんだようだった。
「日本の同じ大学の連れがさ、こっちに今来てて、久しぶりに会ってた」
「そうなんだ。同じ美術専攻の人?」
「いや、そいつは音楽専攻。そいつすげーんだぜ。小さいときから、ピアノのコンクールに出て、優勝してたんだってさ」
「へぇ、すごい人と良く知り合えたわね」
「まぁ、俺そいつと高校のころからの知り合いだったし」
直輝はそのまま、昼に食べるようにと用意していたものを口の中に入れ込んで、黙って咀嚼をしていた。
右手には先ほど水を飲んだグラスが、まだ握られており、左手にミネラルウォーターのボトルを持って、それを注いでいた。
「……直輝はさ、今まで恋愛をしてきて、忘れたくないこととかある?」
「今まで?」
「うん、そう。忘れたくないとか、手放しなくない人とか、離れなければ良かったとか、遠くに行ってから大事だと思う人、いた?」
「……何、後悔してる美羽と同等の立場になれってか?」
「まあ、いいから」
私が、椅子に座って両膝を抱える格好をし、膝の上に顎を乗せて直輝に聞くと、直輝は少し考えてから息を大きく吐き出し、そうだな、と短く呟いた。
「忘れたくないってのは、逆に言えば忘れられないことだよな。それは誰にでもあるんじゃないか? でも、美羽が言ったみたいな忘れたくないって言葉は、俺に言わせると重要なことじゃないと思う」
「何で?」
「これは俺の意見だけど、『忘れたくない人』は、『忘れそうな人』だから、忘れたくないんだよ。でも、美羽の場合は違うだろ? 美羽が想ってる奴は『忘れたくない』じゃなくて、『忘れられない』くらい大事な奴。ちゃんと心の中では解ってると思うけどな」
そういうと、直輝はニヤリと笑いながら自室のアトリエに篭ってしまった。
一人残された私は、直輝の背中を視線で追って、その姿が消えていった扉をじっと見つめていた。
確かに、心の中では解っている。
でも、自分でどうしたらいいのかが解らない。日本に戻っても、伊織くんの会社の場所まではわからない。電話をしてみてもいいけれど、聞き出した連絡先を登録していた携帯も今は手元に残っていない。
2人で会っていたアパートも今は引き払ってもぬけの殻だし、会社にいてもきっと彼は、私がいないのをすでに知っているころだと思う。
私は一人絶望にくれながら、窓の外を眺めた。
*****
けれど、その日を境に、私がフランスに来てから滅多に外出をしなかった直輝が、私に何も告げずに、外出することが増えた。
いつも直輝は気の向くままに外出をするから決まった時間に外出をすることは、ほとんどなかった。しかし、ここ最近決まった時間になると朝早くから外出をし、昼過ぎに帰ってきて、昼食を食べると部屋に篭るというような生活を送っている。
うじうじと考え込んでいる私とは違って、何だか楽しそうにも見えてくる。
それが5日続いたこの日。
「朝早くから何をしに行ってるの?」
率直に私が聞いてみると、直輝は私の顔をじっと見つめて、少し考えるように言葉を選んでいるように見えた。
でも、決まって言う言葉は「そのうち解るよ」という言葉だった。
その言葉に私は黙るしかなくて、モヤモヤしてすっきりしないから、今日は久しぶりに外もいい天気だし、と思ってマルシェに買い物に出かけた。
フランスの穏やかな風心地。食材の買い物に賑わう街。古めかしい建物の並び。
本当に私をどん底から救ってくれる癒しだと思う。でも、本当にどん底から救ってくれる出会いは、このあとに刻々と近づいて待っていたなんて、知る由もなかった。
両手一杯に抱えた荷物を持ち直す瞬間、果物屋さんで買った真っ赤なリンゴが地面に向かって転がり落ちる。
何だったっけな?
ニュートンの万有引力の法則。
リンゴが地球の力に引かれて地面に落ちること。ううん、本当は地球もリンゴに引かれていること。
ふとそう思った瞬間、落ちたはずのリンゴが誰かの手の上に収まって、痛むのを免れた。
「Merci」
相手の顔も見えず、とっさにお礼の言葉を言うと、「今日は何を作るの?」と少し高めの声をした男の人が、リンゴを持ち直して聞いてきた。
「おやつにアップルパイ……かな?」
私が言おうとしていた言葉を、男の人は得意げに言って見せて、驚いた私はその人を見るや否や、その場に全ての荷物をすべり落とした。
「会いにきた」
「い、織、くん。どうし、」
「『会える日は、会えなかった分だけ一緒に』居たかったから」
4ヶ月振りに見た彼の瞳は、今も変わらずに、私を見つめていた。
目の前の彼の姿を疑って、何の言葉を交わさず、ただただ彼を見つめた。
誰も知らない。私だけのためだけに、日本で最も人気がある人が、会いに来る何て、誰も思わない 。
ただ私だけのためだけに、愛を囁く何て、誰も思わない。
目の前の彼を見て、私は、逃げ出したい気持ちと、逃げ出したくない気持ちと葛藤する前に、何かを考えることも出来ないで、ただ立ってる。
気が付けば、伊織くんが目と鼻の先にいて、頬に彼の右手が触れていた。
――久しぶりに触れる温もり。
荒れていた心の波が、スーッと穏やかになっていくのがわかった。
「逢いたかった……」
ずっと、涙を浮かべた伊織くんが呟いた。私はその言葉に、「うん」とだけ呟いた。
伊織くんに色々言いたかったけど、気持ちが動転しすぎて、頷くことしか出来なかった。
私はただ、左頬に添えられた彼の右手の温もりを感じて、目を閉じてさらにその優しさに触れていた。
何も言葉を発することができなくて、目を閉じてはまた彼を見て、再び目を閉じる。彼を肌身に感じれば感じるほど、涙が溢れてくる。
一度逃げ出したのに、私を追ってきた彼。
一度逃げ出したのに、彼の元へ戻った私。
親指で私の涙を拭ってくれる伊織くんを見ると、私は所かまわず彼に抱きついた。
「美羽さんがいないと、意味ないよ」
そう呟きながら、伊織くんは私の肩に頭を預けた。私はその声を聞きながら、彼の胸に顔をうずめた。
「あなたがいないと、歌えない」
その言葉を聞いた瞬間、私はさらに彼をきつく抱きしめて、嬉しすぎて、嗚咽を漏らした。
私は彼の歌の一部だった。今まで、私は彼の歌には必要ないと思っていた。私の存在は彼の世界には邪魔なのだと思っていた。
それくらい、私と伊織くんの住む世界は違うと思っていたから。
――どれくらい時間が経ったんだろう。
私がやっと泣き止むと、伊織くんは私を愛しむように見つめていて、ふわりと柔らかい笑みをくれた。私も彼を見て少し笑うと、それを見た彼は「あのね、」と話し始めた。
でも、伊織くんは少し考えるように言葉を止めてしまった。
「どう、したの?」
「いや、うん。何か、久しぶりすぎて。緊張してきた」
「え?」
どういうことか、伊織くんは私から視線を外して、そっぽを向いていた。私がじっとその姿を見ていると、「あ゛ー。無理。ダメだ」と理解できない言葉を発して、私はさらに彼を見つめた。
「どうしたの?」
同じ言葉で問いかけると、伊織くんは何かを決意したように、私をまっすぐ見て口を開いた。
「……あの、さ。あのね?」
「うん」
「俺さ、」
「うん」
「ここで、ピアノのリサイタルするんだ」
「うん。……え?」
私は一瞬彼の言った言葉を疑って、聞き返すと彼はそのまま下を向いてしまって、
私の問いかけに答えてくれそうもない。
『ピアノ リサイタル』
それを聴いた瞬間、いろんなことが頭の中を駆け巡り、近い記憶では弟の直輝が言ってた、『高校から同じ大学の連れ』がふと思い浮かびあがってきた。
そういえば彼も弟と同じK大生だった。なぜ、私はそれを思いつかなかったんだろう?
それに。もし、それが本当ならば、私は以前から彼とつながっていた。
これは運命の導きなのだろうか。
私は出会うべくして、彼に出会ったのだろうか。
――現に彼は今私の目の前にいる。
私は両手を彼の両頬に当てて、視線を合わせるように顔を上げさせると、何も考えずに、背伸びをして、彼の唇に自分のそれを触れさせた。
全然話の筋が通っていないのに、なぜか彼にキスをしたいと思った。唇を離すと、彼は当然、驚いた顔をしていて、私の顔をじっと見つめた。
私は、その視線に合わせて、彼を見つめると、「弾けるよ」と短く彼に言った。それ以外、何も言葉は要らないと思ったから。
31日ラスト公開です。