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その言葉を聞いたとき、わたしの頭に真っ先に浮かんだのは、書斎の机に置いてきた総勘定元帳のことだった。
「リディア・アシュフォード。お前との婚約を、破棄する」
ヴァレンハイム侯爵家の大広間。招かれた貴族たちのざわめきが、水を打ったように静まり返る。 婚約者――セドリック・ヴァレンハイム侯爵令息の腕には、薔薇色のドレスをまとった小柄な令嬢が寄り添っていた。ミレイユ・ロージェ男爵令嬢。半年ほど前から、彼が夜会に連れ歩くようになった娘だ。
「僕はミレイユを愛している。彼女は花のように可憐で、僕の心をあたためてくれる。……お前とは違ってな」
「ごめんなさい、リディアさま。でも、セドリックさまはずっとおっしゃっていたんです。婚約者は数字の話しかしない、息が詰まるって……」
ああ、と思う。 それは事実だ。この十年、わたしがセドリックと交わした会話の九割は数字の話だった。
残りの一割は、その数字が合わないという話だ。
「地味な女だ。化粧のひとつも覚えず、話す言葉といえば経費だの帳尻だの。父上がお前を家に置いていたのは、ただ書類仕事が早いからにすぎん。侯爵夫人の器ではないのだよ、お前は」
くすくすと笑いが漏れた。 わたしは膝を折り、丁寧に礼をした。十年かけて叩き込まれた、非の打ちどころのない淑女の礼を。
「かしこまりました。婚約破棄、謹んでお受けいたします」
あっさりと頷いたわたしに、セドリックは拍子抜けした顔をした。泣いてすがるとでも思っていたのだろうか。 だが、わたしにはひとつだけ、確認しなければならないことがあった。
「セドリックさま。引き継ぎは、なしでよろしいんですね?」
セドリックが、まばたきをした。
「……なんの話だ」
「ヴァレンハイム侯爵領の帳簿の話です」
わたしは背筋を伸ばした。ここから先は、淑女ではなく、経理の話だ。
「東部三村の年貢台帳。西の織物工房への前渡金の管理。王都商会との取引記録。港湾使用料の按分計算。それから、来月末が期限の――王国財務省への年次納税申告」
指を折るごとに、セドリックの顔から余裕が剥がれ落ちていく。
「そのすべてを、この十年、わたしが管理しておりました。婚約者として、無償で」
「そ、そんなものは事務仕事だろう! 誰にでもできる!」
「ええ、誰にでもできます」
わたしは頷いた。
「ただし、帳簿の全体を把握している者がひとりもいない状態で始めれば、少々お時間はかかるかと。三年分の仕訳を遡って照合することになりますので。……ああ、それと」
ふと思い出したように、付け加える。
「西の織物工房への前渡金ですが。過去二年、実際の納品量と支払額が合っておりません。差額は、金貨にしておよそ四百二十枚。わたしは会計処理の誤りとして三度、書面でご報告しております。三度とも、握り潰されましたが」
大広間が、しんと静まり返った。
貴族たちのざわめきの質が、変わっていた。四百二十枚。前渡金。差額。――誰の懐に。
「……でたらめを言うな!」
セドリックの声が裏返る。その腕の中で、ミレイユの顔から血の気が引いていた。 ロージェ男爵家は、確か、西の織物工房と縁続きだったはずだ。
わたしは何も言わなかった。 数字はすでに、わたしの代わりに喋っている。
「書斎の鍵は執事にお預けしました。元帳は机の上、補助簿は左の抽斗、未処理の伝票は右上の箱に、日付順にまとめてございます」
もう一度、深く礼をする。
「十年間、お世話になりました。……どうか、お体にお気をつけて」
それは、心からの言葉だった。 これから侯爵家に降りかかるものを思えば、本当に、心から。
*
夜風が冷たかった。
十年。十六の年から、朝は帳簿、昼は帳簿、夜も帳簿。侯爵夫人になるのだからと言われて、覚えたのは礼儀作法と、領地経営のすべてだった。 その十年が、たった今、清算された。貸方も借方も、きれいに残高ゼロ。
(……これから、どうしましょう)
アシュフォード子爵家は裕福ではない。父は病がちで、領地は小さい。働くしかないけれど、貴族令嬢を雇ってくれる場所など――
「――失礼」
振り返ると、黒塗りの馬車が路肩に止まっていた。 降りてきたのは、夜色の外套の長身の男性。白銀に近い金髪。表情の読めない、ひどく整った顔。
この国の貴族で、彼を知らない者はいない。
「アルヴィン・グレイシス……財務卿閣下」
王国財務省を統べる、若き公爵。冷徹無比、感情がない、血が通っていない――そんな噂ばかりが聞こえてくる人。
「アシュフォード子爵令嬢。東部三村の年貢台帳を、単式ではなく複式で組み直したのは君か」
息が止まりそうになった。 あれは三年前、担当の書記が退職して台帳が壊滅したとき、わたしが独断でやったことだ。誰にも褒められなかったし、セドリックには「無駄な手間をかけるな」と叱られた。
「……はい。わたしです」
財務卿は、しばらく黙っていた。そして、ほんのわずかに目を細めた。
「あの帳簿は、美しかった」
夜風が、彼の外套の裾を揺らす。
「三年分、通して読んだ。仕訳に迷いがない。摘要が簡潔で、誰が読んでも同じ結論に辿り着く。……あれは、事務ではない。芸術だ」
わたしは、言葉を失っていた。
十年間、誰ひとり、あの帳簿を美しいと言った人はいなかった。
「王宮財務室へ来ないか。君の席は、私が用意する」
差し出された手に、わたしが答えあぐねていたときだった。
「――ぱぱ! まだ?」
馬車の窓から、小さな顔がひょこりと覗いた。金色の巻き毛の、六つばかりの女の子。
「……だあれ?」
「娘だ」
娘。その一言で、わたしは自分の立っている場所を思い出した。
「し、失礼いたしました。こんな夜分に、ご家族の水入らずのところへ。あの、奥様は――」
言いかけて、口を閉じた。訊いてはいけないことだったかもしれない、と気づいたのは、言葉が唇を離れたあとだった。
財務卿は、ほんの一拍、黙った。
「……いない」
それだけだった。どこへ行ったとも、なぜとも、彼は言わなかった。
「ねえ、おねえさん」
女の子が、窓枠に頬を乗せてわたしを見上げる。
「おうち、くる?」
――その問いに、どう答えるのが正しかったのか。 わたしは今でも、よくわからないでいる。
*
王宮財務室は、思っていたよりもずっと、紙の匂いがした。
初日、若い書記官がわたしの前に紙束をどさりと置いた。
「北部関所の、先月分の試算表です。貸借が合いません。差額、銀貨で百六十二枚。三人がかりで二日探しましたが、見つかっておりません。伝票は八百枚を超えます」
彼――トビアスというらしい――は、明らかにわたしを試していた。当然だ。わたしが逆の立場でも、同じことをする。
「まあ、無理でしょうが。おおよそ、どのあたりから手をつけられます?」
わたしは試算表を手に取った。合計欄を見る。差額、百六十二。
――ああ。
「差額は、九で割り切れますね」
「……は?」
「貸借が合わないとき、差額が九で割り切れる場合、原因の多くは二つです。桁を取り違えたか、数字の並びを入れ替えて書いたか。たとえば二十七を七十二と書き写せば、差は四十五。九で割り切れます」
部屋の空気が変わった。奥の席で、白髪の老書記官がゆっくりと顔を上げる。
「差額の百六十二を九で割ると十八。入れ替わった二つの数字の差が一。九、十八、二十七――そういう並びの数字を含む伝票だけを拾えばよろしいのです。八百枚を頭から追う必要はありません」
「……そんな都合のいい話が」
「一刻いただけますか。合わなければ、荷物をまとめて出ていきます」
*
四十分後、わたしはトビアスの机に四枚の伝票を並べた。
「関所通行料、三十六枚が六十三枚に転記。差、二十七。積荷検査料、四十五枚が五十四枚に。差、九。馬匹通行分、八十一枚が九十枚に。差、九。……合計四十五。これでは足りません」
「ほら、やっぱり――」
「ですから、こちらが本命かと」
最後の一枚を置く。
「第三週の通行料まとめ。借方に記載すべき銀貨五十八枚五十分が、貸方に記載されております。貸借を取り違えると、差額は元の額の二倍で現れます。百十七」
紙の上に、指を滑らせる。
「四十五と、百十七。合わせて、百六十二」
しん、と静まり返った財務室に、算盤の音だけが遠く鳴っていた。
やがてトビアスは立ち上がり、深々と頭を下げた。
「……失礼いたしました、アシュフォード嬢。二日です。我々は二日、これを探していました」
「わたしは十年、これしかしておりませんでしたから」
奥から、乾いた拍手が聞こえた。四十年この部屋にいるという老書記官、ギルバートが、隣の空席を叩く。
「ここが空いとる。日当たりは悪いが、書架がいちばん近い」
*
その日の午後から、財務室に小さな来客ができた。
「リディア! きょうのおこづかいちょう、みて!」
エマお嬢さまは、わたしの机の脇に自分の椅子を持ち込むようになった。誰も咎めなかった。財務室の男たちは、この小さな侵入者にすっかり甘い。
わたしが綴じ損ないの紙で作ってあげた「はじめてのお小遣い帳」を、彼女は毎日律儀につけている。
――あめ どうか2まい。 ――りぼん どうか5まい。 ――あめ どうか2まい。 ――あめ どうか2まい。
「お嬢さま。飴が、三回ございますね」
「うん!」
「無駄遣いも一目でわかりますね、お嬢さま?」
「む、むだづかいじゃないもん! これはね、ひつようけいひなの!」
どこで覚えたのか、と思ったが、答えは考えるまでもなかった。この子の父親は、この国の財務卿である。
「では、お伺いいたします。その飴は、なにに必要でございましたか」
「ひとつは、エマがたべた。ひとつは、ばあやにあげた。ばあや、こしがいたいって」
「はい」
「ひとつは……」
そこで、彼女は急に小さくなった。
「……ぱぱの、おへやのまえに、おいてきたの。ぱぱ、いつもおそくまでおしごとなの。あさ、なくなってたから、たべてくれたんだとおもう」
エマお嬢さまは、お小遣い帳をぎゅっと抱えた。
「ね? むだづかいじゃないでしょ?」
わたしは、返す言葉をしばらく探した。結局、見つからなかったので、正直に申し上げることにした。
「……たいへん失礼いたしました、お嬢さま。立派な、必要経費でございます」
*
そんな日が続いて、ある夕暮れ。
中庭の石段に、エマお嬢さまがひとりで座っていた。膝の上に、お小遣い帳。隣は、空いている。
「まってるの。きょうは、おしごとがおおいんだって」
五の鐘は、とうに鳴っていた。
ギルバート老は言っていた。あの方は四年前から、五の鐘には必ず退庁なさる。どんなに書類が積まれていてもだ。そのために朝の四時に来ておられる、と。
――五の鐘は、お嬢さまの夕餉の時刻よ。
わたしは石段に歩み寄り、そっと隣に腰を下ろした。
「じゃあ、みてて。きょうのぶん、まだかいてないの」
たどたどしい字が、一行増える。
――あめ どうか2まい。
「これはね。たべてもらえなかったから、むだづかいかも」
わたしは、その紙を見つめた。 左に、もらったお金。右に、使ったお金。 この帳面には、書く欄がない。――待っていた時間を、書く欄が。
「お嬢さま。帳簿には、ひとつだけ、決まりがございます」
わたしはペンを取った。
「値のつけられないものを、無駄と呼んではいけません」
そして、その一行の隣に、小さく書き添えた。
――繰越。
「くりこし?」
「今日使いきれなかったものを、明日に持ち越すという意味です。明日も、明後日も。お嬢さまが繰り越すかぎり、なくなりません」
しばらく、彼女は黙ってその二文字を見つめていた。それから、こくりと頷く。
「……エマ、くりこす」
回廊の向こうで、靴音がした。夜色の外套の人影が、こちらへ足早に歩いてくる。 いつも動かない表情が、そのときだけ、はっきりと崩れていた。
*
九十日後。
ヴァレンハイム侯爵領の年次納税申告書が、わたしの机に載った。
三日――正確には四日かけて、わたしはその構造を解いた。
二年間、一度も振り替えられていない前渡金。品物を受け取る前に支払う金は、納品された時点で仕入に振り替えられて、はじめて完結する。振り替えられないまま膨れ上がる残高は、ひとつのことしか意味しない。
品物が、届いていない。 ――いや。はじめから、届く予定がなかったのだ。
「循環取引だな」
報告書に目を通した財務卿は、短くそう言った。
「はい。侯爵家が織物工房に前渡金を出し、工房はロージェ男爵家名義の仲買から糸を仕入れたことにする。仲買は別の商会へ売ったことにし、その商会が侯爵家へ織物を納めたことにして請求します。品物は一度も動きません。金だけが、回ります」
「回るたびに目減りするな」
「一巡ごとに、およそ一割五分。支出簿では『祝祭費』『雑費』に細かく割って落とされています。二年分を合計すると――」
「四百二十」
「ぴたりと一致いたします」
執務室が、静まり返った。やがて財務卿は椅子の背に身を預け、深く息を吐いた。
「よくやった」
その一言が、思いのほか、胸に沁みた。 ――十年、一度も言われなかった言葉だった。
*
監査の通告が届いた三日後、セドリックが王宮に現れた。
「――久しいな、リディア」
財務室の扉を開けたその顔は、記憶よりずいぶんやつれていた。
「お前が仕組んだのか」
「なにをでしょう」
「監査だ! 我が家に監査が入った。お前が財務卿に取り入って、私怨で――」
「セドリックさま」
わたしは、静かに遮った。
「監査の端緒は、貴家がご提出になった納税申告書でございます。わたしはそれを読んだだけです」
「読んだだけで、わかるものか!」
「わかります」
「嘘をつけ! お前ごときに帳簿の何がわかる。あれは事務仕事だと、私は何度も――」
そこで、彼は口を閉じた。 自分が何を言ったのか、遅れて理解した顔だった。
わたしは、机の上の書類を静かに揃えた。
「ええ。セドリックさまは、何度もそうおっしゃいました。事務仕事だと。誰にでもできると。だから貴家では、十年間、わたし以外の誰ひとり帳簿を読める者がいらっしゃいませんでした」
一歩、前に出る。
「読める者がいない帳簿は、書いた者にとって、いくらでも都合よく書ける帳簿でございます。四百二十枚を抜いた方は、それをよくご存じだったのでしょう」
セドリックの顔から、血の気が引いていった。
「……誰だ。誰がやった」
「わたしにはわかりません」
わたしは首を振った。
「ですが、この取引には最低でも四つの署名が要ります。前渡金を出す侯爵家、受ける工房、名義を貸す男爵家、請求を立てる商会。……そのうちひとつでも、貴家の当主かその代理人の署名がなければ、成立いたしません」
「代理人……」
彼の唇が、震えた。 思い当たる名前があったのだろう。わたしにも、あった。けれど、それを口にするのはわたしの仕事ではない。
「監査官がお調べになります。どうぞ、正直にお答えください」
わたしは、深く礼をした。十年かけて叩き込まれた、非の打ちどころのない淑女の礼を。
「――それが、いちばん帳尻が合いますので」
*
半月後、ヴァレンハイム侯爵家は爵位の返上を申し出た。 ロージェ男爵家は取り潰し。西の織物工房と王都商会にも、王国財務省の監査が入った。
わたしのもとには、一通の手紙が届いた。 「戻ってきてほしい」と、それだけが書かれていた。
わたしは、返事を書いた。三行で足りた。
――わたしはもう、王宮財務室の人間でございます。 ――帳簿は、読める者のいる場所に置かれるべきです。 ――どうか、お体にお気をつけて。
*
「アシュフォード嬢」
その夜、退庁しようとしたわたしを、財務卿が呼び止めた。
中庭の回廊。彼の隣には、エマお嬢さまが立っている。なぜか、ひどく真剣な顔をしていた。
「……閣下?」
「エマが、どうしても今日でなければならないと言うのでな」
財務卿は、珍しく居心地の悪そうな顔をした。
「私は、来月でいいと言ったのだが」
「だめ! きょうなの!」
エマお嬢さまは、両手で紙を掲げた。 見覚えのある、綴じ損ないの紙だった。たどたどしい字が並んでいる。
「じれいです!」
「……辞令、でございますか」
「うん! よみます」
彼女は、こほん、と咳払いをした。
「リディア・アシュフォードどのを、エマのあたらしいおかあさまがかりに、にんめいします」
わたしは、動けなかった。
「にんきは、ずっとです。おきゅうりょうは、あめ、まいにち2まい」
エマお嬢さまは、紙を差し出した。
「……うけてくれる?」
夜風が、回廊を吹き抜けていく。 わたしは、その紙を受け取った。手が、少し震えていた。
「……閣下」
「言っておくが、私が書かせたのではない」
「存じております」
「……だが」
財務卿は、視線を逸らしたまま、低く言った。
「私も、同じ辞令を出すつもりでいた。もう少し、体裁を整えたものをと思っていたが」
彼は、ようやくこちらを見た。
「――先を越された」
わたしは、笑ってしまった。 十年ぶりかもしれない、と思うくらい、久しぶりに。
「閣下。ひとつ、確認をよろしいでしょうか」
「なんだ」
わたしは、辞令をそっと胸に抱えた。
「引き継ぎは、なしでよろしいんですね?」
財務卿は、目を見開いた。
それから――噂話ではけっして語られない、ひどくやわらかい顔で、笑った。
「ない。前任者はいない」
彼は、手を差し出した。
「君が、初代だ」




