27、乳よあなたは強かった
「取りあえず、オッパイを吸わせる。
これが一番効果的と思うぜ」
怜さん、着崩した白衣の胸の前で、とんでもなくエロチックな手つきをして見せた。
“ミギワに何をしてやったらいいか・第2弾”の質問の答えがそれだ。
現実で出来る事は全てやっているけど、時間は限られている。 ウィズの話では、ミギワの未来はまだ改善されていないらしい。
それでこの際、夢の中でも何かをしようじゃないかということで、ミギワのリハビリ時間中に怜さんに相談したのだ。
大学病院リハビリ棟のティールームは客が少なく、人目を気にしなくてよかったので、あまり上等でないコーヒーも気にならなかった。
「オッパイって……だ、誰の……」
「俺やコロ助のだと思うか?」
あたしは唖然として口を閉め忘れていた。
ウィズは無表情で固まっている。
頭に包帯を巻いてようやく普通に仕事がはかどる体調になった魔術師は、あんな目に会ったのに恐れる様子もなくミギワと生活を続けている。
この頃はこの人の鬼気迫る執念に、みんな少々引き気味だ。
怜さんの提案は、そのウィズをさえ凝固させる秀逸な爆弾発言だった。
「美久ちゃんすごい顔。 お前はもうちょっと反応しろ」
楽しげに笑い転げた怜さんは、ついでにウィズの頭をポカンと叩いてから、説明を始めた。
「セクハラで言ってるんじゃなくて、ちゃんと統計があるんだぜ。
ある学者が強姦歴のある少年500人について、乳児期の授乳状況を調べたら、母乳なし人工栄養だけで育てられた子供が60%もいた。
幼児期の子供を持つ6000世帯を対象に、人工栄養のみで育てた子供の数を調べた調査結果が25%だったらしいから、これは異常に多い数値だ。
強姦を繰り返す男性が被害者を選ぶ時、外見が同じタイプを選ぶのはよくあることで、これが自分の母親と共通する特徴のある女性である場合が多い、という調査結果もある」
怜さんは風味の飛んだような味のコーヒーをまずそうにすすった。
「一般には知られていないが、赤ん坊にも性欲はあるんだ。
小児性欲と言って、誰かの胸に抱かれたいという欲求、乳首を咥えたいという欲求。 それを年齢相応の扱いで満たして貰えなかった子供が、思春期になってから一気に欲求不満を噴出させる。
母親に十分満たして貰った子供は、性欲をコントロール出来やすいんだ」
「だからって今突然授乳させて何か意味があるの?」
あたしが反論すると、怜さんは胸をそらした。
「あるさ。 この場でやったらただの変態だけど、夢の中でやるんだろ?
ミギワが赤ちゃんに、美久ちゃんがお母さんになれば問題ないよね。
要は、ごっこ遊びで不満を解消させたり、人形でシミュレーションさせたりする精神療法と一緒だよ」
「美久ちゃんやってくれる?」
ウィズがものすごく真顔で聞いて来る。
特上の宝石みたいな瞳がまともにあたしの顔を見て、そのあとしっかりと胸のあたりを見おろした。
「見るな! こらっ、怜さんも楽しそうに見るんじゃない!」
もう、このふたりも欲求不満なんじゃないの?
あたしはふたりの足を踏んづけながら、仕方なくこの役を引き受けることにした。
なにしろあたしの魔術師が滑稽なくらい真面目に思いつめているから、断るに断れない。
話が決まった後、怜さんはちょっと矛盾する忠告をしてくれた。
「コロ助、夢の中をうろつくのはほどほどにしとけよ。
夢ってのは本来、人間の記憶を整理するためにある。
要らない事は忘れ、次の記憶を入れるための隙間を作る作業なんだ。
そこをおろそかにすると、不要な記憶がたまって精神の浄化を妨げる。
うつ病の原因の一つが不眠って知ってるか?
お前のことだから、夢中になると自分の夢を見るのを忘れてはまり込みそうで心配なんだ。
いいか、せいぜい週1回くらいにしとけよ」
「わかった」
ウィズが素直にうなずいた。
「それとな、美久ちゃんとのデートはちゃんと現実でやれ」
「現実でもしてるじゃないか」
ウィズが心外そうに言うのを、怜さんはチッチッチと人差し指で制した。
「夢の中で発展して満足してると危険だぜ。 バーチャルオタクみたいになっちまう」
「なんのことさ」
「お前ら、セックスしてねえだろう」
ウィズがコーヒーを鼻から出した。
「わはははは、どうだ苦しいだろう。
この前のお返しだ、思い知ったかあ」
怜さん、咳き込むウィズにカラカラと嘲笑を降り注ぐ。
この大人げなさは、人格統合する前の“怜”と一緒だ。
「おかしいなと思ったんだよな。 この前まであれほど『抱いてほしいオーラ』出してた美久ちゃんが、このごろ妙に落ち着いてるから、てっきりゴールテープ切ったもんだと思ってたら、この前コロ助の裸見てうろたえてるし、コロはベッドをミギワにやっても全然不自由してない感じだし」
「ううう」
あたしとウィズはちらりと顔を見合わせた。
そう、あたしたちは現実世界ではまだ一線を突破していない。
どっちかが避けてるとかじゃなく、いつも周りに人がいるので落ち着かず、婚約した安心感もあってなんとなく延び延びになっている。
この数か月、さあ今日こそは!みたいな盛り上がりのきっかけがなく平和だったせいかもしれない。
「男のほうがやりたがって暴走しないのはおかしい!」
まどかや他の友達はウィズを変人扱いしてるけど、仙人様のマイペースは今に始まったことじゃないし、ほどほどにエッチなことはやってるのだ。
だから、あたしはこの状態に特別不満は抱いてないんだけど……。
「そりゃあ夢の中でセックスしてりゃ、痛みはないし失敗はないし、妊娠の心配もないし誰に見られる不安もない。 いいことだらけで万々歳だろうけどな。
そういう艱難辛苦を乗り越えて、二人でいろいろ考えることにセックスの意義があるんだろうが。
一緒に苦労もしないで女の子を喜ばそうなんて」
怜さんは意地悪く目を凝らして、ウィズの耳に唇を近づけ、底冷えのする声音で言った。
「この手抜き野郎」
「美久ちゃん、吹雪なんか怒ってるの?」
病院の駐車場で、ウィズの車が出てくるのを待ちながら、ミギワがふっと言った。
よっぽどショックだったのか、ウィズはあれきり物を言わずに考え込んでしまったのだ。
「いつものこと、怜さんと喧嘩しただけよ」
「吹雪いつもやられてるね」
「付き合いが長いから遠慮がないの。 兄弟喧嘩みたいなものよ。 心配?」
「ムカつく。 怜先生、いつも優しいのに吹雪にだけ意地悪するから」
あたしはミギワの頭を撫でながら、しみじみ感動していた。
来たばかりの頃は簡単な会話も満足にできなかったのに、なんて細やかな表現ができるようになったんだろう。
あんなに敵視していたウィズを気遣う気持ちも出て来て、ミギワはホントに人間らしくなった。
こんなにいい子になったのに、まだ殺人鬼になる未来が消えてないってどういうことなんだろう。
「美久ちゃん。 クレソンまだ入院してるの」
唐突にミギワが尋ねた。
驚いて息が詰まりかけた。 田島先生がバラしてくれてミギワが激怒したあの時以来、またしてもタブーになっていた話題だからだ。
「俺、クレソンに会いたい。 動物病院に連れてってって、吹雪に頼んでくれない?」
「ミー君……」
クレソンにしたことを反省してくれたんだろうか。
あたしは胸がいっぱいになって、帰りに行こうと2つ返事で請け合ってしまった。
後で思えば、これはとても恐ろしい決断だったのだ。