26、天使の鉄槌
暗がりの中で目を凝らすと、歩行用のトレーニングマシンの陰に立っていた。
神戸愛児院のリハビリルームだ。
真暗なので目が慣れるのを待ち、薄ぼんやりと見えて来た室内を、用心深く奥へと移動する。
見覚えのある倉庫のドア。
扉には、場違いに古めかしい南京錠が下がっていた。
この前は気づかなかったことに気づいた。 ここに子供を入れるのは、幽閉したい子どもだからなのだ。 病室に鍵を付けると違法になるけど、ここなら倉庫だから施錠設備があって当たり前だ。
来客や査察がある時だけ、子供を病室へ戻せば問題ない。 閉じ込めておきたい問題児だけ、ここに寝かせるのだ。
南京錠を握り締めて、ウィズがメールで教えてくれた呪文を口の中で唱える。
「ひらけゴマ!」
手の中の錠がかしゃんと外れた。
実は呪文自体は、チチンプイプイでもアブランケンソワカでもなんでもいいのだ。 あたしがそれを信じていさえすればいい。
そう、今夜は忘れちゃいけない。
誘導してるのはウィズだけど、魔法使いはあたしなのだ。
「ウィズ、入るよ」
小さく声をかけてからドアを開けた。
部屋の中は明るかった。 手抜きで付けたみたいなカバーのない裸の蛍光灯が一本、壁に取り付けられて能天気な光を放っている。
その無粋な明かりの下で、ベッドの上に男の子がひとり、半身を起こしてこちらを見ていた。
「ウィズ‥‥なの?」
そう、今夜の待ち合わせ場所は、花畑ではなくこの倉庫の中だった。 わざわざ相手を確認したのは、その人物がせいぜい9歳か10歳の子供だったからだ。
よく見るとその子は確かにウィズの顔をしている。 以前炎の中で見た顔よりもほんの少し大きくなって、でもあの時よりもっと痩せて顔色も悪く見えた。
あの炎の中のウィズを見ていなければ、本人だと気づかなかったかも知れないと思う。
「ここにいると、現在の姿が保てない」
変声期前の可愛い声で言ってウィズは下を向いた。
「美久ちゃん、あんまり見ないでくれる?
この頃の自分、好きじゃないんだ」
あたしはあわてて目を逸らしながら、小さなウィズがベッドを降りるのを手伝った。 栄養失調のせいか、彼の足元はやたらと頼りなく、用具の陰に移動させるのに結構骨が折れた。
「もう動かないで。 来るよ!」
その気配はあたしにもわかった。 階下で突然叫び声が響いたのだ。 続いてやけに大人数の足音が、どやどやと階段を登ってくる。
「離せ、離せえっ、くそばばあ!」
下品なダミ声は女性の物だ。
あたしが外した南京錠を弾き飛ばしながら、ドアがいっぱいに引き開けられた。
雪崩れ込んで来たのは10人ばかりの男女。
黒服を着た神父らしい中年の男を先頭に、残りは全員尼僧の格好をした女性だ。 暴れているのはそのシスターたちのひとりで、動きを封じるために不細工にテープひもでぐるぐる巻きにされて猛り狂っているのを、残りの全員が必死で抑え付けているのだ。
先頭の神父は腕に抱きかかえた小さな男の子をベッドに寝かせて、軽く胸の前で十字を切った。
「ミギワだよ」
ウィズが言った。
「馬鹿野郎ほどけよ、死ね! 死ね!死ね!」
悪態をついて暴れる尼僧を、神父がベッドの柱にくくりつけた。 シスター全員が目を閉じて苦しげに十字を切る。
祈りが始まった。
「主よ、この子に失った道を示し、悪魔の囁きを絶ち給え。
主の定めし場所、あるべき状態に戻れるよう、迷いと憎しみを取り去り、安らかな心を取り戻せるよう、よき導きをたれ給え。 呼びかけて袖をひき、その道に光を当て給え‥‥」
真剣な表情で祈りを捧げる神父と尼僧たちの姿は、洋画の悪魔祓いを見るようでとても日本の出来事とは思えないくらい非現実的だった。
ひとしきり祈った後、神父の合図で一向はドアの外に出て行った。
扉が閉まり、南京錠が掛かる音。
室内に残るのは、括られたまま暴れ狂うシスターと動かないミギワ、そしてあたしとウィズだけ。
ドアの外では足音がしない。 まだ彼らは出口に立っているのだ。
「美久ちゃん、来るよっ!」
いきなり、隣にいたウィズがあたしにしがみついてきた。
思わず抱き締めてしまったのは、小さな体が可哀想なくらい震えていたからだ。
ベッドに括りつけられたシスターが悲鳴を上げた。
「あああああ?」
あたしも大きな声を上げてしまう。
何かが壁を抜けて入って来る!!
壁から、ドアから、同じ方向のすべての場所から、突き刺さるようにして何かが入って来た。
色のついた透明な物。
風のような幻のような物。
細長い物が後から後から、壁に突き刺りすり抜けてこっちへ殺到して来る。
空を飛んで襲い掛かって来る。
それは、白い羽根を生やした天使の群れだった。
輝くような美しいボディにそぐわないほど厳しい顔がこちらを睨んでいる。
整った白い顔に浮かんでいるのは、狂気にも似た怒りの表情だ。
その手に握られた物は、銀色に光る巨大なサーベル。 正義の鉄拳。
無数の天使が空を切り裂き、ベッドのふたりに襲い掛かった。
声を枯らして泣き叫ぶシスター。
その体を剣で貫く天使たち。
ウィズがあたしの体を、骨が折れるほど強く抱き締めた。
「ごめんなさい! ごめんなさい! 僕のせいなんだ!
美久ちゃん助けてあげて、やめさせて!」
「ウィズ?」
「僕がやったんだ、僕が想像しちゃった。 ほんとはこれ天使じゃないんだ、お祈りなんだ!」
「お祈り?」
「お祈りの声なんだ。 見えない幻、ほんとはただの音声なんだ。
ここへ閉じ込められた夜、こんな風に僕も大勢でお祈りされた。 悪魔に魅入られてるから悪魔を祓うためと言われて」
「予言をしたから?」
「ここのスタッフは優しかった。 だから役に立ちたくて」
「予言が当たったら、悪魔だと言われたのね?」
「そうだよ。 ご尤もだろ、僕はここに来る前から悪魔だった、家でもずっとそう言われてた。
お払いなんかされたら僕は消えてなくなっちゃうんじゃないかと思って、怖くて幻覚を見たんだ」
「天使に攻撃される幻覚?」
「そう、ホントはこれ、ヘブライ語か何か、わかんない言葉のお祈りの声なんだ。
あの壁から漏れてくる祈りの声が、自分を攻撃して来るように見えた。
今見えているのは、その幻の残留思念なんだ!」
途端に、白い天使たちは消え失せた。
室内に満ちているのは、朗々と響く神父の声だけだった。
呪文の声は、長く引っ張るような独特の抑揚をつけられていて凄みがある。 なるほど、これは夜中に聞いたらさぞ怖かっただろう。
この原語の呪文を聞いて、幼いウィズは自分を攻撃する神の使いたちを想像した。 恐ろしい怪物、自分を殺しに来る敵として。
その強烈なイメージは、魔術師の能力で残留思念となり室内に残されてしまった。
恐らく他の人には見えなかったのだろう。 でも、ミギワは同じ種類の勘が働き見てしまったのだ。 ふたりが同じ「祓われる」立場だったことも、両者の感性を近づける原因だったかもしれない。
ミギワはシスターたちを恐れた。 この施設にいることを怖がった。
それで納得が行った。 ミギワはそれまでも自分の体からしょっちゅう抜け出していたけれど、生きて行くための最低ラインは守っていたはずなのだ。 それが崩れるほど留守をしたのは、ここが怖かったせいなのだ。
ウィズはあたしの体を離して説明してくれた。 その姿はもう小学生の男の子じゃなく、あたしの魔術師のウィズに戻っている。
「ミギワとネットで出会った時、僕たちはお互いの正体が一発でわかってしまったんだ。
僕はミギワを死に追いやっているのが自分の映像だってわかったし、ミギワは僕のせいであの部屋にオバケが出るって察しがついた。
おまけに僕はミギワが憧れと嫉妬を抱いている美久ちゃんの恋人だった」
「チョット待って、その事はどうやってミー君にばれたの?
ミー君は千里眼じゃないわよね?」
「僕が美久ちゃんの写真を破棄するように頼んだのが、サイトで連絡し合うきっかけだから」
「写真って‥‥」
仰天して聞き返す。
「まさか、ミヤハシのお宝写真!」
「そう、ミギワの言うへそオンナの写真。 ミギワが院長先生のパソコンに取り込んでるのが見えたから、消してくれるように頼んだ」
あたしは震え上がった。
一生の汚点と思っていたあのエロ写真。 去年ミヤハシ残党たちに消去させて安心してたけど、まだどこかに残ってて、ネットのエロサイトを飾っているのか。
それをこの魔術師は、ご丁寧にひとつずつ追いかけて廃棄させているっていうことか?
そこまで考えて、あたしはやっと気がついたのだ。
ウィズのパソコンに隠してあったエッチサイトたち。
あれはもしかしたら、ウィズの妄想のオカズとかじゃなくて、あたしの写メを追いかけたり連絡したりするためのものだった?
ウィズったら。
有難い様な、情けないような。
感謝してるけどやめて欲しいというか。
もうホントに複雑な気持ちになって、あたしはひとまず魔術師に抱き付いた。
どう反応していいかわかんない。
とりあえず、大好き。
ベッドの上のミギワが激しく泣き始めた。 体の中に帰って来たのだ。
今回、美久ちゃんの夢の中からお届けしております。
謎の答えは大体出揃ったんですが、謎解きして終わりじゃないのがこのシリーズの厄介なところです。もうヒトヤマお付き合い下さい。 今回まだ吹雪くん、全然いいとこなしですもんね。