19、魔物から奪い取れ
魔術師の放心状態を破ったのは、携帯の呼び出し音だった。
「うん。 ‥‥うん。 いないんだね? 部屋にもね?
わかった。 わかった、大丈夫、慌てなくていいよ」
喜和子ママからだった。
カウンターで預かっていたはずのミギワがいなくなったと言う。
意識が無い状態だったので、一瞬だけ目を離したら、車椅子を置き去りにして消えてしまったらしい。
「いいって、気にしなくて。
居場所なんてすぐわかる。 連れて帰るよ」
多分パニックになっているだろう喜和子ママに優しく言ってから、ウィズは電話を切った。
同時にあたしの手をぐいと引いて、部屋を出ようとする。
「ま、待って。 カードキーがテーブルに置いてあっ‥‥」
「怜なんか破産すればいいんだ」
ウィズはキーを中に置いたまま、ドアを閉めてしまった。
相当煮詰まってるな、感情的に。
口に出したりはしないけど、あたしは絶対に忘れない。
ウィズと怜さんは、ただの幼馴染みじゃないってこと。
怜さんが多重人格だった頃、第2人格のレイミ先生はウィズに恋していた。
そして人格統合する前日の晩、このふたりは確かにベッドインしかけたはずなのだ。
レイミ先生の自己申告によると、最後の一線は越えてないらしいが、どこまでで踏みとどまったものやら、あたしは確認することができなかった。
今、人格が統合されて新しい人生をスタートし、ウィズと家族の次くらいに親しい怜さんに、そんな話を蒸し返すのは失礼だと思って、その後も質問したことが無い。
正直、怜さんがウィズにまだ恋心を抱いていたとしても、それは無理のない話じゃないかと思う。 思うけど‥‥気にはなる。
あたしの戸惑いをよそに、ウィズは潔く怜さんのことを後回しにして、ミギワの捜索に取り掛かった。
彼にとって、ミギワの体を捜すのはたやすいことだった。
あたしには見えないミギワの動線が、魔術師の目には光る糸のようにくっきりと見えている。
その糸を追って、ウィズのレヴィンは川岸にある寂れた公園へ、あたしたちを運んで来た。
児童公園というにはあまりにお粗末なジャングルジムと、親が見たら「触っちゃいけません」と言うだろうほどに錆びついた滑り台が、雑草の中に「生えて」いる。
足元には、捨てられたビール缶や、何が入っていたのか考えるのも怖いようなビニール袋がいくつも落ちていて汚いことこの上ない。
そんな、歩くだけで病気になりそうな公園の奥に、その公衆便所はあった。
間違いなく怪談のネタにしか使用されてないだろうと思われる、茶色く変色した建物だった。
近づいただけで、鼻が曲がるほどのアンモニア臭。
2つあるうちの、左側の個室が使用中だ。
ノックをしても返事がない。
ドアの上に隙間も無いので、ウィズは車からドライバーを持ち出し、ドアノブを分解してしまった。
ホラー映画の効果音に使いたいくらいのきしみ音とともに、ドアが開くと、あたしたちは立ち竦んだ。
便所の床はゴミで埋め尽くされていた。
便器を埋めてしまおうとして、わざわざゴミを持って来て敷き詰めたように見える。 生ゴミではなかったが、立ち昇る異臭は尋常な物じゃない。
ゴミで作ったマットの上に置いてあるのは、大きな黒いゴミ袋だった。
多分下に敷いたゴミが入れられていた袋なのだろう。
口はしっかり閉じられているが、上のほうに空気穴らしき物が開けてある。
ミギワの体は、その袋にすっぽり包まれていた。
見た途端、あたしは大声で泣き叫びたくなった。
「ミー君が自分でしたのよね?」
「そうだ」
「こんなに汚い袋に自分で」
「そう‥‥。 自分で入ったんだ。 僕らから隠れるために」
普通の人間だったら、誰がこんな汚い所に、自分の体を隠したいなんて思うだろう。
あたしだったら死んでもいやだ。 たとえ他人に乗り移ってやったんだとしても、こんな気味の悪い場所のこんな汚い袋に、自分の体を押し込むなんてできっこない。
「ミギワの自分への価値観は極端に低いんだ」
ウィズが言った。 彼の声も悲しみに震えていた。
「これまで誰からもゴミとしか扱われていなかった自分を、ミギワは自分自身でもゴミとしか認められない。 そして、ミギワにとって周りの人は、自分をゴミとして捨てたり敵意を持ったりする、怖いだけの存在なんだ」
「あたしたちも、信用されてないのよね」
「そうだよ」
「体を預かられたら、戻って来た時会わなきゃいけないから。
ミー君は、戻ったらウィズにひどい目に会わされると思ってるんだわ。
だから怖がってる‥‥。 あたしや他の人たちも」
「うん、すごく怖がってる」
あたしたちだけじゃない。
ミギワにとって、世界中の人間が、恐ろしい敵なのだ。
自分をゴミとしてしか見てない、隙を見て捨ててしまおうと思っている、恐ろしい存在。
だから誰といても気が休まらない、怖い、落ち着かない。
それでも誰かと触れ合っていかなきゃいけないとしたら、肌を合わせないといけない欲望に悩まされているとしたら。
‥‥相手を縛るか死体にするしか方法が無いじゃないか!!
「ミー君に会わせて。 ウィズ」
あたしは魔術師に訴えた。
「ミー君が可哀想。 ミー君に会いたいの」
涙が頬を伝うのが邪魔で腹立たしい。
目を開けて、この惨状を焼き付けて置かなきゃならないのに。
あたしがミギワに愛情を感じたのは、この時が初めてだった。
それまでもミギワを大切に思ってはいたけど、それはウィズのためだった。
ウィズがやることを手伝ってあげたい一心だった。
でも、こんな悲しい思いが、この先ミギワを悪魔にしてしまうなんて悲しすぎるじゃないか。
世界を否定して悪魔にならなきゃいけないほど悪いことを、ミギワがしたって言うんだろうか?
まるで腕の中にいたわが子を、魔物に奪い取られたような気持ちが、あたしの中に生まれていた。
「取り戻してよ、ウィズ。 あたしたちのミー君よ」
言いながらミギワの体をゴミ袋から出し、しっかり腕に抱き締めた。
「ミー君、お家に帰ろう。 お風呂に入ってキレイにしよう。
キミはキレイなんだよ。 こんなとこにいるなんて、勿体ないよ。
ねえウィズ、ミー君帰って来るよね?」
「美久ちゃん、僕が運ぶよ。 重いだろう」
「重くなんかないわ! ミー君はすごく軽いのよ。
どうしてこんなに軽いと思う? 怖がってるからでしょう?
人が怖くて、自分の体にいることが出来なくて、だからご飯を食べられないから軽いんでしょう?」
「美久ちゃん」
「怖くないのに。 あたしたちが怖くないって、どうしたら伝わるの?
殺して無抵抗にしなくても愛し合えるって、どうやったらわかってもらえるの?」
ウィズがあたしの肩を抱いてくれた。
よく見ると彼も泣いていた。
ふたりで鼻を鳴らしながら、ミギワの体をレヴィンに運び込む。
「ミギワをおびき寄せようか」
運転席に座ったウィズが、ポツリと言った。
「おびき寄せる?」
「待つんだよ。 あそこならきっと来る」
「どこ?」
「美久ちゃんの夢の中。 決して死なずに済む場所だから」
お花畑がいいな、と思った。
どうやったらそこへミギワを呼び込めるのかわからないけど、汚い場所じゃイヤだ。
あのステキな色彩のいい匂いのする場所へ、ミギワを呼んであげたい。
あたしの魔術師なら、きっとそれが出来るだろう。
美久ちゃん、腹をくくると母の強さを持っています。
怜の話はもう少し後に、ちゃんと蒸し返しますからね。
ああ、こうやって伏線ばかりが増えてゆく。