18、ぱっつんぱっつん
後で知った話だが、この時ウィズが作動させた警報器は、1階からあたしたちのいた8階まで、西側ばかり8機。
煙の正体は、廊下の喫煙コーナーにある、スタンド型の灰皿、全部で15台の中身。
ただし中に吸殻が入っていない物まで一緒になって、仲良く50センチ近くも炎を上げていたらしい。
ウィズ本人は、この火災に関して全く無自覚だった。
毎度の事ながらあきれ返る。
警報器が大合唱する中をエレベーターで上がって来て、それが自分のせいだとは気づかなかったと言うんだから、怒りへの集中力が尋常じゃない。
逆に言えば、ここまでほかをシャットアウト出来るからこその魔術師なんだろう。
「美久ちゃん!!」
ドアを激しく叩かれた。
なにしろこっちは凡人の極みだから、ウィズがどんなに怒ってるかがちゃんとわかっていた。
空気を入れ過ぎてぱっつんぱっつんになっちゃった風船みたいなウィズをどうやって正気に戻すかと、あたしはたった5秒で1年分も頭を回転させた。
問題児のミギワの体はここにはない。
怜さんの体を傷つけたりしたら、後で落ち込むのはウィズ本人だ。
「ミギワくん、ウィズと会わずにすぐに自分の体に戻るのよ。
あとはあたしと怜さんがなんとかするから」
オロオロしているミギワに言ったけど、これは逆効果だった。 ミギワはキッとなって叫び返す。
「オレがあいつに負けるってこと?」
「違うわ。 ウィズが本気出したら、死人が出ちゃうからよ」
「オレはあいつになんか殺されない」
「巻き添えになる怜さんや、他のお客さんの心配をしてるのよ!」
「オレの方が強い。 証明してやる」
タダでさえ会話がマイペース気味なのに、頭に血が昇っててさらに一方通行だ。
ドアを叩き続けていたウィズが、パタリと静かになった。
“来る”のがわかった。
「ウィズ、だめ!」
ミギワ・怜の、はさみを持った右手の袖口に、黄色いリングが光って見えた。
それが見る間に、天井に向けて長い緒を引く。炎だ。
ミギワ・怜の服の袖口が燃えている。
怜さんの口から叫び声が上がり、彼ははさみを放り出すと、枕で腕を叩いたり覆ったりし始めた。
消えると見るやバスルームへ駆け込んだ。 水音が続く。
あたしはなんとかテグスから脱出しようと頑張ったが、余計に肌に食い込ませただけだった。
泣き叫ぶ警報ベルの中で、廊下のウィズはまだ沈黙している。
怜さんがバスルームから飛び出して来て、落ちていたはさみを拾い上げ、あたしに駆け寄った。
「やめてぇ!」
続きを始めるつもりかと思って悲鳴を上げたが、これは早とちりだった。
彼ははさみで、あたしのお腹ではなく、手首に巻き付いていた憎いテグスを切断したのだ。
はっとして顔を見上げると、怜さんは元通り怜さんらしい顔に戻っていた。
「怜さんなの? ミギワは出てったの?」
「そりゃもう熱いと思った途端、一目散にね。 オレが言うのもなんだが大したヘタレっぷりだ」
ああ、ほんとに怜さんの口調だ。 よかった。
よくなかったのは、魔術師の方だ。
ドアのロックを外した途端、吹っ飛ばされそうな勢いで乱入して来た。
ウィズの顔は、紙のように白かった。 しかも恐ろしく無表情。 整った容姿が、石膏像を思わせてかえって怖い。
こういう彫像が襲って来るB級ホラーを、昔見たことがある気がする。
「わああああん、ウィズ、怖かったよう!」
こうなったら泣き落とすしかない。 あたしはウィズにむしゃぶりついた。
母の忠告を思い出しながら、なるべく無邪気に泣いて見せる。
「ミー君が殺人鬼になっちゃったよう」
驚いた事に、「泣き」に入ると、本物の涙がどっと溢れて来た。
そりゃそうか。 怖かった事はホントだし、その恐怖に耐えながら今までウィズを待って、こっちもぱっつんぱっつんだったんだから。
「あたしのおへそを切り開くって言ったの。
あの子の性衝動は、親への憎しみとブレンドされて、とんでもない物とつながってるのよ。
ウィズお願い、すぐにミー君を保護してあげて。 あの子、貴女に叱られると思ったらもう行き場が無いのよ。
追い詰められたら、きっと‥‥『あれ』が始まっちゃう!」
あたしは泣きながらウィズにお願いした。
「『あれ』‥‥?」
「殺人リレーよ! 他人の体を渡り歩くクセは、逃げ出したい本能から来てるのよ。
そしてきっと無責任な殺人につながってしまうわ。 あたしがきっかけを作っちゃったから!」
そう、おへそを切り裂いたら内臓がドッとあふれ出す。
そんな想像をミギワに与えて勢いをつけてしまったのはあたしだ。
殺人衝動に、あの時具体的な目的を与えてしまった。
「ごめんねえ。 あたしのせいなの、ごめんね」
もうホントの涙しか流れて来ない。 ミギワを助けたいウィズの思いを、あたしが台無しにしてしまったのが悔しくて申し訳なくて、あたしは泣きじゃくった。
ウィズがふっと息を吐いて、あたしの体を抱き締め、そっと頭を撫でてくれた。
「美久ちゃんは悪くない。 遅くなってごめんね」
「ウィズ、ミー君を探して。 絶対に怒らないで、あたしのせいなんだから」
「わかった」
「ウィズ大好き」
「うん」
かちかちに緊張していたウィズの体が緩んで柔らかくなり、張り詰めていた心の弦が調律されて行くのがわかった。 彼の腕の中がとても暖かいことに初めて気づくと、それがまたあたしの涙を誘発する。
あたしの心も、紅茶に入れた砂糖みたいにほろほろと溶かされて行く。
怜さんがウィズの正面で頭を下げた。
「コロ助、すまん」
「すまんで済むか」
ウィズが冷たく言う。 声がまたちょっと硬くなってる。
「ウィズ、やったのはミー君で、怜さんは記憶が無いのよ」
「そのことじゃない」
ウィズはあたしの体を離し、怜さんに向き直った。
「ミギワは怜と美久ちゃんに交互に乗り移って話を進めた、その事はわかってる。
でも、美久ちゃんになったミギワが怜を誘った時、怜は怜だったはずだ。
こんなとこに連れ込むってどういう了見なのさ」と、ウィズ。
「オレは美久ちゃんの主治医だぞ。
折り入って話があると言われたら、カウンセリングの必要があるかと思うさ」
「なら自宅でも病院でもいいじゃないか。
怜は僕に隠そうと思ってここを選んだはずだ」
「お前に言いにくい話だと思ったからだろ」
「なに、それ」
鼻にシワを寄せるウィズの前に、怜さんは人差し指を突きつけた。
「お前だってネットで人生相談みたいなことやってるんだし、普通の悩みなら、美久ちゃんはお前に相談すりゃ済むだろ。 女同士の愚痴なら、まどかちゃんがいる。
それがオレにわざわざ相談しようってんなら、そこそこ限られた内容だろうから、お前とセックス系のトラブルでもあったかと思ったんだよ。 レミはその辺の相談係だったからな」
ウィズは不満げに唇をゆがめた。
「変なことする気がなかったって、言い切れる?」
「そんなこと、お前勝手にオレの頭ん中、覗いて見りゃいいじゃんか。 今更なにを遠慮してんだ」
「怜の頭の中は、もう読まないことにしてるんだ」
ウィズが言った。 ここでふっと、空気が凍りつく気配があった。
「なんで」
怜さんの声がカミソリみたいに薄く殺気立った。
「なんでって。 ‥‥ここで言ってもいいわけ?」
ウィズの声も、ちょっと尋常じゃない。 途端に、怜さんが暴発した。
「こいつ! もうとっくに読んでんじゃねえか!」
ウィズの胸倉をつかもうとする怜さんに、あたしは慌ててしがみついた。
「チョッチョッちょっと!! 何の話をしてるのよ?
ふたりとも途中から、喧嘩の内容が訳わかんなくなって来てんですけど!」
「話すと長いからさ。 先にミギワを探しに行こう」
ウィズが説明を投げようとしたので、あたしは首を振った。
こんな半端な気持ちじゃ、次の行動に移れない。
その時、怜さんがとんでもないことをした。
「オレが説明するよ」
言うが早いか、ウィズの胸倉をつかんで引き寄せたのだ。
殴るのか、と思ったら違った。
それよりずっと突拍子も無いことをやったのだ。
一瞬で怜さんの唇が、ウィズの顔に近づいて、その唇に重ねられるのがわかった。
バチン、と大きな音がして、いきなり室内が暗くなった。 電気が切れたのだ。
多分、ウィズの動揺のせいだろう。
ホテルは自家発電システムがあるらしく、ほどなく電気は回復した。
最初に明かりの中に浮かび上がったのは、ドアを開けて振り向きもせずに部屋を出て行く怜さんの背中だった。
ウィズは静止画像みたいに固まってしまってる。
あたしはへたへたと床に座り込んだ。
怜さんがウィズにキスした!
怜さんがウィズにキスした!
怜さんがウィズにキスした!
怜さんがウィズに‥‥(次回までエンドレスでリピート)
普通はこの後の章を、「ミギワを探して皆で町をさ迷い、見つけたときの心理描写で盛り上げる」‥‥のが常道なんですが、このシリーズはそれが出来ないのが苦しいんですよ、吹雪クン一瞬で居場所がわかる人なので。
怜さんの行く末は、書いてる方も心配でなりません。