17、シリアル・キラーの表情
誰でもいいから、これは夢だと言って欲しい。
いきなり足を押さえられ、上に乗っかられた。
目の前に怜さんの顔がある。
チャーミングなその顔が変貌する様を見るのは、これが初めてじゃない。
以前、怜さんがレイミ先生と人格を分け合っていた頃、この顔が2種類に変化するのを見たのだ。
その怜さんの中に、今はミギワが入っている。
人間、邪な事を考えると、下品な表情になるものらしい。
ミギワを受け入れた怜さんは、ちゃんと殺人鬼の顔をしていた。
ミギワ・怜は、右手ではさみを弄びながら、あたしのお腹を見てしきりに何か考えていた。
その大きな裁ちばさみは、あたしがほんのヨチヨチ歩きの時から、母の裁縫箱に入っていた物だ。
いたずらで画用紙を切って、叱られたことがある。
縫いかけの服を触って待ち針で怪我をして泣いた時も、このはさみはテーブルに出ていた。
母との思い出がいっぱい詰まったそのはさみで、あたしは殺されるかもしれない。
声を出そうと思った。
大暴れして、せめて廊下を歩く人に不審を抱かせてやりたいとも思った。
でももうダメだ。 咽喉は張り付いたようにカラカラだし、手足はガタガタ震えるばかりで少しも力が入らない。
ウィズ、ごめん。
いつもあなたをヘタレだとからかってるけど、あたしのほうがてんで意気地なしだ。
ウィズのことを思い出したとたん、ふっと震えがゆるくなった。
そうだ、ウィズは今、この光景を見ているはずだ。
ここに一度も来たことが無いとしたら、部屋の様子から場所を判断することは出来ないかもしれない。 でも、サイドテーブルのパンフレットとかお品書きとか、ホテルの名前や部屋番号は見ることが出来るはずだ。 それでなければ、家からあたしの残留思念を辿って、警察犬みたいに追跡するだろう。
それに、彼が予見した殺人鬼の被害者の中に、あたしの名前はなかったじゃないか。
あたしは、助かる。 自力で逃げ出すことができなくても大丈夫、ウィズが来てくれる。
あたしはウィズが来るまで、ミギワの犯行を引き伸ばせばいいんだ。
そう、「千夜一夜物語」のシエラザードみたいに、興味深い話をして。
「ねえ‥‥ミー君」
声をかけると、怜さんの顔をした殺人鬼候補生は、気に障ったらしく眉間に皺を寄せた。
「その言い方やめろ。
オレを幼稚園児かなんかだと思ってるのか」
「ごめん。 じゃあ何て呼ぼうか」
「‥‥美久ちゃんは、なんであいつをウィズって呼ぶ?」
唐突に聞いてくるミギワの表情を見て、彼がウィズをライバル視しているのを感じた。
そうか、ウィズに勝ちたいんだ。
あたしの婚約者だし、同じ超能力者だもんね。
「ウィズはウィザードのWIZよ。
もともと、初めて会った時に名前がわかんなくて適当に呼んだのがそのままになってるだけなの。
でも、『魔術師』としては、ミギワくんのが上だよね」
「当たり前だ。 あいつ、見えるだけで音は聞こえないんだろ」
「そうよ。 直接、人や物が動かせるわけでもないしね。
キミのほうがずーっと優秀なウィザードだわ」
案の定、誉めそやすとミギワは得意げに口元をほころばせた。
そして、重要なことを口にした。
「あいつ、いつも美久ちゃんの夢の中を覗いてるだろ。
でもオレなら、夢の中に入って行けるんだ」
「そんなこと出来るの?」
「簡単さ」
「すごい。 ウィズには無理かもね」
これは、ウソだ。 実はウィズだって、夢の中に入って来ることは出来る。
現に以前1度だけ、あたしが死に掛けた時に、夢の中で助けてくれたことがある。
でももちろん、そんなことはミギワに伝えたりはしない。
「ああ、わかった。 ベッドに押さえつけられたことがあったわ。 こんなふうに、夢の中で。
クレソンを預かった夜のことよ。 あれがミギワくんでしょう」
ミギワはニヤニヤ笑った。
そしておもむろに、あたしのお腹に掌を当て、ゆっくりと撫で始めた。
ああ、間に合わないかも。
早く来て、ウィズ。
「ミ、ミギワくん、そこを切っても、中に物は入らないわよ!」
苦し紛れに話しかけた。
「おへそを切って広げたこと、これまでにないんでしょう?
鳥にはおへそがないもの。 ね、今回初めてやるんだよね?」
「だったら、なんだよ」
「お腹に物を詰め込むのはすごく難しいのよ。
知らないの? 腹圧ってものがあるんだから」
「ふくあつ」
ミギワの手がやっと止まった。
「そう、腹圧。 お腹の中って、内臓がぎゅう詰めで、簡単に物なんか入らないのよ。
入らないだけじゃなくて、穴を開けたとたんに、そこから腸がわーっとはみ出して来て、収拾がつかなくなっちゃうんだから」
「わーっと‥‥出てくるのか」
「そうよ、もとに戻せなくなって大変なことになるのよ。
そんな、中に物を入れるどころじゃ‥‥」
そこであたしはギョッとして言葉を切った。
ミギワは笑っていた。
怜さんの整った顔が、きらきらと異常な表情に歪んでほころんでいる。
おまけに息遣いが荒くなってる。 興奮してるんだ。
「わーっと、ここに腸が出て来るんだ。
いっぱいいいっぱい、ここに出てくる。
ベッドが血まみれになる。 グチャグチャで臭い。
開けてみたらみんな中はグチャグチャで臭いんだ。
澄ましていたって、みんな中はへそオンナで、もっと中はみんなグチャグチャで臭いんだ。
ワーッと出てくるの、見たいね、美久ちゃん」
「み、ミギワくん‥‥」
「見たいね」
ミギワがはさみを構えなおした。
どうしよう、作戦ミスだ。
かえってその気にさせちゃった!!
はさみの先の銀色の光が、あたしのお腹に当てられた。
チャキッと音がして、刃先が開かれる。
「や、やめよう、ミギワくん。
七匹の子ヤギじゃあるまいし、そんなものでお腹は切れないって! ね?ね?」
その時突然、ベルの音が鳴り響いた。
警報の音。 火災報知器だ。 部屋のすぐそばなので飛び上がるほど大きな音だ。
続いて、煙の匂いがした。 微かだが、警報機の誤作動ではないと判る匂い。
「な、何? どこか火事!?」
ミギワが簡単に動揺した。 経験値の低さが露呈したわけだ。
はさみを持ったまま、おろおろと四方を見回すが、どう動いていいかはわからないらしい。
廊下に足音がし始めた。 客らしい何人かが出て来て、どこが火事かと騒いでいるのがわかる。
「そうよ、ミギワくん、火事よ。 逃げなきゃ」
言いながら、あたしの背すじが凍るほどに冷たくなった。
火事。 この火災、誰が起こしてる?
忘れていた。 呑気にウィズを待ってたら大変なことになるんじゃないか?
はさみを持ったミギワ・怜。
手を縛られてベッドの上にいる、あたし。
この状態の部屋に踏み込んだら、ウィズはどんな精神状態になるだろう。
もともと、レイプとか虐待とかいった状況にキレやすい。
ウィズが本気で腹を立てたら、このホテル丸焼けだ!
どうなっちゃうんだろう。
ウィズ独りでも制御できないあたしなのに、この部屋にはもうひとりウィザードがいるのよ!
2週間もホテルのベッドで過ごしてしまいました。いや、物語的には一晩たってもいませんが。
ああ、寄せ鍋はいつになるんだろう。
そういえば、メニューは寄せ鍋と言いながら、お母さんにオデン鍋を買わせてしまいました。お詫びして訂正します、土鍋かなんかじゃないとおかしいのね。
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