16、おへその声が聞こえる
「一刻も早く、鍵の掛かる部屋に籠るんだ!」
そう言われても、狭いマンションの我が家に鍵の付いた部屋なんて、たったひとつしかない。
どんな事情でも孤独でないと困る場所、要するにトイレだ。
あたしは携帯を耳に当てたまま、そこへ駆け込んだ。
怖いので誰の顔も見ることが出来なかった。
蓋をした便器に腰掛けて、携帯を握り直す。
「とりあえず鍵は掛けたわよ。
ウィズはどう動くの?」
尋ねた時には、魔術師からの電話はもう切れてしまっていた。
やだウィズったら、また自分のこと言うの忘れてる!
彼は言われなくても他人の行動がわかるので、他人に自分の動きを予告する必要性が、いまひとつ理解できないみたいなのだ。
これでは、いつまで雪隠詰めになってたらいいんだか、あたしには見当がつかない。
ウィズがこれからすぐこっちに来てくれるんだろうか。
それとも、あたしを安全圏に置いといて、ミギワと対決しようとしてるんだろうか。
どっちにしても待つことしかできない。
あたしは水のタンクにすがって、ため息をついた。
眠い、と思った記憶は全くない。
だのに、フッと短いうたた寝をしたような感じがした。
目を開けた時、目の前には肌色の物が広がっていた。
人間の首筋のあたりを、見ているらしかった。
周りに目を移すと、場所は質素なビジネスホテルの一室といった感じの部屋だ。
もう1度、今度は視線を落とすと、あたしはその人の腕の中にしっかりと包まれ、相手の肩におでこを預けて抱かれていた。 座っているのは白いベッドの上だ。
ああ、ウィズが来てくれたんだ。
そう思いかけて、すぐに違うと気づいた。
匂いだ。 ウィズは絶対に香水なんかつけない!!
その人のシャツの襟足から漂って来る、男女どちらも使える甘めのトワレの香りを、あたしはしっかりと覚えていた。
これを使ってる人をよく知ってる。
あたしやウィズにとって、とても大事な人だ。 こんなところでふたりで抱き合ったりしてていい相手じゃないんだ、絶対に。
あたしは何度も唾を飲み込んだ。
そーっと視線を上げて、相手の顔を恐る恐る見上げた。
顔を確認した途端、目をつぶってしまう。
まともに見ることが出来なかった。
「‥‥少しは落ち着いたか」
低い声で相手が話しかけて来た。 背中に回された手が暖かい。
やっぱり、夢じゃないんだ‥‥。
声を出そうとしたのに咽喉が詰まり、ちゃんと喋れたのは一言だけ。
「‥‥怜さん」
心臓の鼓動が早鐘のようだ。
そう、あたしは怜さん、つまり朝香先生の腕の中にいた。
どう思いだそうと頑張ってみても、トイレからここまでの経緯は記憶にない。
やられた。
ミギワはあたし自身に入り込んで、怜さんを誘ってここへ送らせたのだ。
なんと言って誘惑したんだか考えるのも怖いけど、とにかく怜さんをその気にさせてホテルへ引っ張り込み、抱き合わせてからあたしを自由にした。
何のために?
ウィズの話によると、ミギワは怒っていたと言う。
あたしとウィズとふたりで、ミギワがインコを殺そうとしたことを知って邪魔をし、しかもそれをミギワに話さなかった。 そのことをミギワは裏切りととらえていた。
だとしたらこの行為は、ミギワのあたしたちへの復讐なのか。
ただのイタズラなら、このまま放置して自分の体に帰ればいい。
でも復讐のためにここまでやったなら、わざわざあたしの体から出た理由はひとつだ。
あたしは勇気を振り絞って、怜さんの顔をしっかりと見た。
「ミー君ね」
怜さんは、歳より5歳は若く見える整った相貌を、思い切り下品に崩して笑い出した。
「大正解。 へそオンナに20点!」
「また言ったわね。 何よ、へそオンナってのは!」
叫びながら、腕から脱出しようともがいたが、力は相手のほうが強かった。
男になってからの怜さんは、貧弱に見られないように運動もやってるはずだ。 抵抗しているうちに、突き放す力を逆手にとって、ベッドに突き倒されてしまった。
あっと思った時には、両腕を押さえられ、セーターの裾を胸の辺りまでたくし上げられている。
「へそオンナってのはこういう状態のオンナだ。
注水口がこっちへ向いてる」
「注水口って何よ! 痛いわねもう、離しなさいッ」
あたしの両手の指には、いつの間にか例のテグスみたいな糸が巻き付いていて、動けば動くほど手や指に食い込んで来る。 その端がベッドの柵板に絡めてあるので、ろくに動けないのだ。
「知らないのか。 人間のへそってのは、注水口の跡なんだ。
赤ちゃんの時に母親から、ここへドクドク注ぎ込まれてた。
生きるために必要な大事なものを、全部」
ミギワは指先で、あたしのおヘソの辺りを突付いた。
使っているのは怜さんの体だから、いつもの言語不明瞭がなくて喋りやすそうだ。 その分、口数も増えていて、彼が意外と豊富な語彙を持っていることが初めてわかった。
「でも見ろ。 今はもう、へその緒をチョキンと切られてここはただの切り口だ。
もう親は、ココから何も入れてはくれないんだ。
お前なんか知らないよって言ってる証拠に、この穴はもう完全に塞がってしまった」
「塞がってなけりゃ困るわよ。 穴開いたままだったら雑菌入るじゃない」
「そうかな。 声が聞こえるよ。
寂しい寂しいって、へそが泣いてる声。
お母さん、お願い何か入れてよって言ってるよ」
「おへそが喋るわけないでしょ」
あたしの反論なんか、ミギワの耳には入っても行かないようだ。
「オレ、へそオンナを見ると堪らなくなる。
そこをこじ開けて、いろんな物を入れてやりたくて我慢できなくなるんだ」
あたしは息を飲んだ。
ミギワが取り出したのは、うちの母が愛用している、裁縫用の裁ちばさみ。
あたしとウィズが念入りに危険物を取り除いて部屋を準備したのに、あたしに入り込んだミギワは、わが家から易々と持ち出してきたわけだ。
もうひとつ、彼が握っていた物がある。
大抵のホテルに常備してある、小さなシャンプーのボトルだ。
「なにこれ‥‥」
「だから、広げて入れるんだ」
「おへそを!?」
あたしは目をむいてミギワを睨みつけた。 わけがわからない。
しかも、言ってるミギワの外見は怜さんだから、まるで悪い夢の中にいるみたいだ。
こじ開けるとか突っこむとか、要するに動機は性欲に近い物なんだとは思う。
でも、ミー君間違ってるよ。
入れる場所も入れるものも、違うから!