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からくり競艇〜ホームレス、魂のフルスロットル〜  作者: 水前寺鯉太郎
第1部:学校編

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第6話:断罪の刃、虚無の風

第六話:断罪の刃、虚無の風


1993年、春。

バブルという巨大な幻影が完全に瓦解し、日本全体が重い足取りで「失われた時代」へと踏み出した朝。

滋賀県・琵琶湖の水面は、昨夜から吹き荒れた嵐の名残で、灰色の波が不気味にうねっていた。空は低く、比叡山から吹き下ろす風は、これから始まる「魂の処刑」を予感させるように冷酷だった。

びわこルーキー記念・決勝戦。

大宮機艇教習所のピットの影で、乾 健児は自身の右腕に巻いた汚れた包帯を、歯で噛みちぎるようにしてきつく締め直していた。

金属性の変質属性「斬」を、連日の予選で限界を超えて発動し続けた代償は重かった。彼の右腕の毛細血管はズタズタに破裂し、肌には不気味な金属光沢を帯びた青あざが、侵食するように浮き出ている。神経が焼き切れるような痛みが、一秒ごとに脳を揺さぶる。

「……乾さん、これ、持ってきな」

背後から、低く、しかし温かい声が響いた。

振り返ると、そこには新宿のガード下で共に凍えた仲間、**「六角の源さん」**が立っていた。その後ろには、炊き出しの列で肩を寄せ合ったホームレスたちが、ボロボロのトラックを飛ばして駆けつけていた。

源さんが差し出したのは、使い古された錆びだらけの油差しと、彼らが街中で拾い集めたアルミ缶を焚き火で溶かし、叩き上げて作った、歪な「補強用プレート」だった。

「俺たちが集められるのは、これくらいだ。最新のカーボンなんてのはねえ。だがよ、乾さん。あんたがこの水の上で勝つってことは、俺たちがまだ……ゴミじゃねえ、『人間』だってことの証明なんだ。……頼むぜ、俺たちの希望ヒカリ

乾は無言でその歪なプレートを受け取った。そして、愛機「鉄屑スクラップ・ニードル」の剥き出しのエンジンブロックに、迷いなく打ち付けた。

「……ああ。借金は、必ず返す。……命ごと、な」

その言葉は、かつての傲慢な不動産王としての不渡り手形ではない。泥水を啜り、同じ段ボールの下で震え、互いの体温で夜を明かした仲間たちへの、魂の血判状だった。

一方、1号艇のピットでは、異様な光景が繰り広げられていた。

黒崎 翼が、父・龍平から手渡された琥珀色の液体が入ったアンプルを、迷わず自らの首筋に打ち込んでいた。禁断のマブイ強化薬物。

「翼、それを使えばマブイは一時的に土から**『マグマ(火の変質)』**へと強制転換される。泥で沈めるなどという手ぬるいことはするな。琵琶湖の水ごと焼き尽くし、乾の『斬』を、その執念ごと溶かして蒸発させろ」

黒崎 龍平の目は、もはや勝負の行方など見ていなかった。ただ、自分の完璧なキャリアに泥を塗った「過去の亡霊」である乾を、物理的に消し去ることだけに血走っていた。


「決勝戦、全艇……起動エンゲージ!!」

号笛が鳴り響くと同時に、琵琶湖の重い水面が爆発した。

1号艇・黒崎 翼。

5号艇・ハル。

6号艇・乾 健児。

スタートラインを越えた瞬間、1号艇の翼から、空気を歪めるほどの赤黒いオーラが噴出した。薬物によって強制発動された、土と火の複合変質――「マグマ」。

「焼き尽くせ……すべてを灰にしろ! 『大噴火マグマ・バースト』!!」

翼が通った後の水面は、瞬時に沸騰し、文字通りドロドロの熱泥へと変貌する。後続の2号艇から4号艇のエリートたちは、その異常な熱量と粘性にハンドルを奪われ、マブイ石がオーバーヒートを起こして次々と戦線離脱していく。水面は、地獄の釜の底のようだった。

「あはは、すごく熱いね。おじさん、これじゃあ『斬る』前に、そのボロボロの体、溶けちゃうよ」

5号艇のハルは、相変わらず気配がない。しかし、彼は「風」の属性を模倣し、沸騰する水面から数ミリだけ浮上する「超低空飛行グランド・エフェクト」を敢行していた。マブイネービラ(無魂)ゆえに、マブイを焼く熱の波動に精神を汚染されることがない。彼は冷徹に、最速のラインをなぞる。

そして、最後尾。6号艇の乾が、ついに加速を開始する。

「溶けるか……。だったら、溶ける前に突き抜けるまでだ! 俺のマブイは、とっくに地獄で焼き入れが済んでるんだよ!」

乾は右拳を、血が滲むほどマブイ端子に叩きつけた。

17,000のマブイが、体内で激しい摩擦熱を上げ、青白い放電を始める。金属性の「斬」が、過負荷による究極の変質――**「いかずち」**の性質を帯び始めた。

「マブイ・ニードル……重加速・きわみ!!」

「鉄屑・ニードル」から、青白い電光が放射状に放たれる。「斬」に「雷」が纏うことで、その貫通力は空間の抵抗すら断ち切る鋭さに達した。沸騰する熱泥を、乾は一筋の銀光となって切り裂き、1マークへと肉薄していく。


第一ターンマーク。

翼の「マグマ」が渦を巻き、ハルの「風」が舞い、乾の「雷」が突き刺さる。三つの異能が衝突し、琵琶湖の中央に巨大な水柱が立ち上がる。

「消えなさい、ホームレスぅぅ!! 貴様のようなゴミが、私の、父様の、美しい世界を汚すなぁぁ!!」

翼が絶叫し、薬物で15,000まで跳ね上がったマブイを全開放した。乾のボートの右舷が、高熱の波に触れてドロドロに焼け落ちる。仲間の作ったアルミの補強プレートが、無惨に剥がれ飛ぶ。

「ぐあぁぁぁっ!!」

乾の右半身が焼ける。熱い。多摩川の焚き火よりも、銀座の照明よりも、何倍も熱い。だが、彼はスロットルをミリ単位も緩めない。

(痛みなら、もう知っている……。プライドを剥がされ、名前を奪われ、誰からも存在しないものとして扱われたあの日……あの冬の夜の方が、よっぽど心が熱くて痛かったんだよ!)

乾は、ハルが作り出した「真空の風」の背後にピタリとつけた。スリップストリーム。

「ハル! 道を開けろ! 俺がお前の『風』に、雷を乗せてやる!」

「えっ……? おじさん、まさか……僕を利用するんじゃなくて、混ぜるの?」

乾は、ハルの機艇が切り開く「抵抗ゼロの道」に、自分の「雷」を全出力で流し込んだ。

金は電気を通し、風は空気を運ぶ。

執念の塊である乾と、虚無の極致であるハル。

相容れないはずの二人の機体が、極限の極致で予期せぬ「共鳴シンクロ」を起こした。

二人の機体は一体の銀翼となり、翼が展開するマグマの防御壁を、まるで紙細工のように貫通した。物理法則を凌駕した共鳴旋回。乾とハルは、コンマ一秒の差でターンマークを最短距離で回り切った。

「なっ……共闘だと!? マブイネービラと、あのクズが、手を取り合ったというのか!?」

特等席で黒崎 龍平が立ち上がり、持っていたワイングラスを握り潰した。


最終周。

翼は薬物の反動で、目や鼻から血を流しながらも、狂気的な執念で食らいつく。

ハルは、これまでの「無機質な走り」を捨てていた。乾の、あの熱く、苦しく、それでいて気高いマブイに触れたことで、彼の空っぽだった心の中に、初めて「いたみ」が生まれていた。

「おじさん……僕、負けたくない。初めて、そう思うよ。これが『生きている』ってことなの?」

ハルの機艇から、これまでは物理動力の冷たい音しかしなかったはずが、奇跡のような、澄んだ鈴のような音が響き渡った。マブイネービラの彼が、自らの「命そのもの」を削り、一時的な精神エネルギーへと変換したのだ。

乾、ハル、翼。

三艇が、文字通り横一線。コンマ数ミリの差で、ゴール前の直線ホームストレッチに並んだ。

乾の視界は、もうほとんど白く霞んでいた。右腕の感覚は消え、心臓の音すら遠い。ただ、マブイ端子を通じて伝わってくる「源さんたちの歓声」と、共に走る「ハルの息遣い」だけが、彼を現世に繋ぎ止めていた。

(全部……全部、ここにある。失ったんじゃない。俺が歩んできたこの泥道が、俺の、真のマブイだったんだ)

乾は、17,000の全マブイを、機艇ではなく、自分自身の「心臓コア」に集めた。

マブイ・ニードルを、ボートではなく「乾 健児」という一個の魂に打ち込む。

金属性の極致、その先にある禁忌の属性――「てん」。

「金」は磨かれ、研がれ、ついに一切の不純物を排除した、高貴なる光へと昇華した。

乾の「鉄屑・ニードル」が、白銀の閃光と化し、水面から浮き上がる。

「これが、俺の人生の、最後の一手だぁぁぁぁぁぁぁ!!」

乾の咆哮が琵琶湖を震わせた。

翼の「マグマ」を光でかき消し、ハルの「風」を優しく置き去りにし、乾 健児は、かつての栄光も、倒産の絶望も、自分を縛っていたすべての鎖を過去へと置き去る速度で、チェッカーフラッグを真っ先に突き抜けた。


静寂が、琵琶湖を包み込んだ。

1位、乾 健児。

2位、ハル。

3位、黒崎 翼。

乾のボートは、ゴールラインを越えた瞬間にすべてのゼンマイが弾け飛び、パーツがバラバラに分解された。役目を終えた「鉄屑・ニードル」から、乾は冷たい湖へと放り出された。

「……カハッ、カハッ……」

冷たい水が、焼けた肌に、限界まで使い果たした魂に、心地よい安らぎを与えていた。

乾が湖面に大の字になって浮かんでいると、今岡校長が駆ける救助艇が近づいてきた。

「……おい、生きてるか。この、最高に格好いい大バカ野郎」

今岡は、これまでにないほど満足げに、新しい煙草に火を付けて紫煙を吐き出した。

ピットへ戻った乾を迎えたのは、警備員の制止を振り切って乱入してきた源さんたちの、号泣と叫び声だった。彼らは乾のボロボロの体を抱きかかえ、まるで自分たちが勝ったかのように喜びを爆発させた。

一方、特等席の黒崎 龍平は、機列をなす警察官たちによって連行されていった。不正薬物の使用、そして過去の不正融資の証拠が、今岡の手によって事前に当局へ提出されていたのだ。彼は、泥にまみれた乾を憎悪の目で見下ろしたが、乾はもう、彼を見てすらいなかった。

「おじさん」

ハルが、乾の隣に座った。ハルの瞳には、これまでになかった、春の陽だまりのような「暖色」が宿っていた。

「僕、負けちゃった。でも、すごく……お腹が空いた。これがマブイの感触なのかな。……生きてるって、お腹が空くことなんだね」

「……ああ。美味い飯を食え。俺が奢ってやる……と言いたいが、賞金が入るまでは、俺はまだ住所不定のホームレスだ」

二人は、泥と油のついた顔を見合わせ、声を上げて笑い合った。

数日後、大宮機艇教習所の卒業式。

今岡校長は、乾に卒業証書ではなく、一本の古い、使い込まれたプロペラを贈った。

「乾、お前の『斬』は、プロの海ではまだなまくらだ。だが……地獄の底から這い上がった鋼は、二度と折れねえ。行け、琵琶湖の亡霊。今度は日本中の、そして世界中の賞金を、その執念の針で刺し貫いてこい」

乾 健児、33歳。

職業、プロ機艇レーサー。

所持マブイ、17,000。

そして、彼の手には、一度は捨てた「未来」へのチケットが、誰よりも強く握られていた。

多摩川の泥水から始まった物語は、琵琶湖の荒波を越え、今、果てしなきプロの海へと続いていく。

銀の閃光が、遠い水平線の向こうで、新たな時代の幕開けを告げるように輝いた。


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