第5話:金属性の「斬」、泥にまみれた龍
第五話:金属性の「斬」、泥にまみれた龍
1993年、春。
日本中を狂わせたバブルの熱狂は、いまや実体のない徒花として散り、冷たい雨となって列島に降り注いでいた。しかし、滋賀県・琵琶湖の畔に位置する「大宮機艇教習所」だけは、例年になく異様な、そして暴力的なまでの熱気に包まれていた。
今日は「びわこルーキー記念」の予選最終日。
からくり競艇界の未来を担う新星たちが、その魂を削り合う卒業記念レースだ。観覧席の最上段、防弾ガラスに守られた特等席には、最新のからくり工学に投資するスポンサーや、沈みゆく日本経済の舵を握る政財界の重鎮たちが顔を揃えていた。
乾 健児は、ピットの片隅で、自分の機艇のハッチを開けていた。
周囲に並ぶのは、メーカーの息がかかった最新鋭のカーボンフレームと、最高純度のマブイ石を積んだ「サラ」の機体ばかり。その中で、乾の艇は異様だった。使い古されたボルト、廃材置場から拾い集めた真鍮の増設ゼンマイ、継ぎ接ぎだらけの外装。それはまるで、幾多の死線を潜り抜けてきた老いた野犬のような、不吉な威圧感を放っていた。
油まみれのタオルで黒ずんだ手を拭きながら、乾は突き刺さるような視線を感じて顔を上げた。
「……おい、乾。あそこを見ろ。お前の『過去』が、特等席でふんぞり返ってやがるぞ」
今岡校長が、湿った空気の中でも消えない紫煙を燻らせながら、顎で上階を指した。
そこには、キャメル色の高級カシミアコートを羽織り、場違いなほど洗練された冷徹な空気を纏った男が立っていた。
黒崎 龍平。
かつて乾の不動産会社に数千億の融資を行い、「共に時代を作りましょう」と微笑んでいた男。そしてバブル崩壊の引き金が引かれた瞬間、真っ先に乾の首を切り、裏で株を操作して彼を路頭に迷わせ、ホームレスへと突き落とした元メインバンクの担当者だ。今や彼は、機艇産業の利権を牛耳る「マブイ金融」の重鎮となり、この教習所の筆頭出資者として君臨していた。
「……黒崎」
乾の胸の奥、コアマブイ器官がドロリとした黒い熱を持って脈打つ。
「あいつの息子、**黒崎 翼が出る。属性は土から変質した最上位、『龍』**だ。重圧で他艇の動きを封じ、水面を支配するエリート中のエリートだぞ」
今岡の言葉通り、1号艇のピットには、最新鋭機「白銀号」に乗り、不敵な笑みを浮かべる青年がいた。父・龍平の冷酷さと、有り余る天賦の才を継承した男。翼は乾を一瞥すると、汚物を見るような目で鼻を鳴らし、見せつけるように黄金色の重厚なマブイを立ち昇らせた。
「ホームレスが混じっていると聞いたけれど……。汚らわしい。琵琶湖の聖なる水が腐ってしまうわね。パパに言って、後で消毒させないと」
翼が放つマブイは、周囲の空気を物理的に「重く」変質させていた。観測計の針が、異常な重力異常を検知して激しく振れる。
「全艇、起動!!」
スタートの号笛とともに、琵琶湖の水面が各属性の放つ極彩色の光で塗り潰された。
1号艇・黒崎翼。5号艇・ハル。そして、大外の6号艇に乾健児。
スロットルを開いた瞬間、1号艇の翼から放たれたのは、土属性の極致たる**「龍」**のマブイだった。ボートの背後に、黄金に輝く巨大な龍の幻影が立ち昇り、その咆哮が琵琶湖の底まで震わせる。
「これが『龍』の力よ! 下賤な輩は、泥に這いつくばっていなさい!」
翼が放つ「重圧」は、後続のボートに通常の数倍の重力となって襲いかかる。2号艇から4号艇までのエリート候補生たちは、翼が通った後の「重い水」にハンドルを奪われ、スクリューが空転し、加速すらままならない。
対する5号艇のハルは、相変わらずの「マブイネービラ(無魂)」であった。属性すら存在しないはずの彼は、物理的なエンジンの超高回転と、木属性から変質した**「風」**の特性を完璧に模倣する機体制御により、龍の重圧が作り出すわずかな「重力の隙間」を縫うように滑っていく。
そして、大外の6号艇。乾。
乾は、魂圧プールでの死線で掴んだ「凝縮」の感覚を、全身の神経回路に走らせた。
(重圧? 龍? ……笑わせるな。俺がこの半年間で背負ってきた借金と絶望の重さに比べれば、こんな風圧、そよ風にも満たない!)
乾の17,000のマブイが、金属性の極致**「斬」**へと変質を開始する。
それは煌びやかな黄金の輝きではない。深夜の路地裏、月光に照らされた剥き出しの日本刀のような、凍てつく鋼の、殺意の輝きだった。
「マブイ・ニードル……全開ッ!!」
乾の機艇の舳先から、目に見えないほど鋭く、細い「刃」が突き出した。
龍が作り出した重い水の壁を、乾は「力」で押し通すのではない。空間の分子ごと、運命の糸ごと「切断」して進むのだ。
抵抗値がゼロになる。
6号艇は物理法則をあざ笑うような直線スピードで、第一ターンマークへと、最短最速の角度で突き刺さった。
「なっ……!? あたしの『龍』の加護を切り裂いた……!? あのオンボロが!」
驚愕し、一瞬操作が遅れた翼のインコースに、乾が弾丸のごとく潜り込む。
しかし、翼も血筋に恥じぬ執念を持っていた。彼は瞬時にマブイの出力を反転させ、土の根源的な変質属性**「泥」**を発動させた。
「逃がさないわ! 泥濘に沈んで、そのまま消えなさい!」
翼が叫ぶと同時に、第1マーク付近の水面が、一瞬にして粘り気のある、黒い泥のような性質に変貌した。通常のからくり機艇なら、スクリューに泥が絡まり、エンジンがオーバーヒートして転覆、あるいは爆発する地獄のトラップ。
乾の機艇も、強烈な引きずり込みに遭い、船体が激しく震動した。廃材のゼンマイが千切れんばかりの悲鳴を上げ、メインのマブイ石が摩擦熱で真っ赤に溶け始める。
「……おじさん、危ないよ! 水が死んだ!」
ハルの声が、通信機を通さず、脳裏に直接響く。ハルは「風」の加速を使い、泥の上を水切りの石のように跳ねて回避していた。
だが、乾はスロットルを戻さない。それどころか、心臓が爆ぜるほどのマブイを注ぎ込む。
(泥? ああ、知ってるさ。俺は数ヶ月、その中で寝ていたんだからな! 段ボールの城を濡らし、俺のプライドを汚し、口の中にまで入り込んできた、あの不快な感触だ!)
乾の脳裏に、公園のベンチで凍え、雨混じりの泥水を啜って生きていた夜がフラッシュバックする。
あの時、モニター越しに俺の破滅を笑った連中。
あの時、俺をゴミのように追い出した社会。
怒り、屈辱、そして、底の知れない深い絶望。
それらすべてが、金属性のマブイをさらに研ぎ澄ませていく。
五行において、金は土から生まれる。ならば、土の最上位である「龍」も「泥」も、金属性の「斬」の前では、自身を磨き上げるための「砥石」に過ぎない。
「斬れぇぇぇぇぇぇ!!」
乾のマブイが、ボート全体を巨大な「刀身」へと変貌させた。
泥を切り裂き、龍の鱗を剥ぎ取り、乾は翼の真横に、火花を散らしながら並びかける。
その瞬間、翼は乾の目を見た。
そこにあったのは、もはや人間のものではない。すべてを、たとえ神であっても切り伏せるという、鋼の意志そのものだった。
乾と翼の死闘。凄まじい「斬」の閃光と「泥」の重圧が正面衝突し、水面に巨大な、属性のエネルギーが渦巻く空白地帯を作り出す。
その僅かな、コンマ数秒の隙を、マブイネービラのハルが見逃さなかった。
「……おじさん、ごめんね。ここは、僕がもらうよ」
ハルは、乾が「斬」で切り開き、翼が「泥」で固めた、その不自然な境界線――マブイの斥力が最も不安定になる「ゼロ地点」に、音もなく滑り込んだ。
属性を持たぬがゆえに、属性同士の衝突に巻き込まれない。
ハルの艇は、物理的な反動だけを完璧に計算して利用し、二人の先を越えてチェッカーフラッグへと吸い込まれていった。
「……あの、ガキ……!」
乾は激しく舌打ちした。しかし、同時に口角が不敵に上がった。
ハルの走りは、乾の「斬」がなければ成立しなかった。ハルは、乾を最強の「風避け」にして空間を切り開かせ、誰よりも効率的に、最短距離を駆け抜けたのだ。
結果。
1位、ハル。
2位、乾 健児。
3位、黒崎 翼。
予選突破。しかし、全観客の目に、そしてスポンサーたちの記憶に焼き付いたのは、大外からすべてを切り裂いて上がってきた6号艇のホームレス――乾の姿だった。
ピットに戻った乾を待っていたのは、憤怒に顔を歪ませた黒崎 龍平だった。
「……乾。貴様、何のつもりだ。今のレース、翼に道を譲っていれば、教習所を卒業した後にそれなりのポストを用意してやるつもりだったものを。飼い犬の分際で、噛み付く相手を間違えるな」
乾は、油と泥にまみれた顔のまま、かつての「恩人」であり「仇敵」である男を正面から見据えた。
「黒崎。あんたの言う『ポスト』なんて、俺が捨てたゴミ箱の中に腐るほど入ってる。……俺が欲しいのは、あんたが持ってる汚い金じゃない」
乾は、自分の胸――マブイ器官のある場所を強く叩いた。
「この17,000の『斬』が、あんたの喉元をいつ、どのように切り裂くか……その恐怖を、特等席でじっくり味わってろ。俺は、あんたたちから奪われたすべてを、この水の上で取り返す。利子も、遅延損害金も、全部乗せてな」
「……ホームレス風情がッ! 明日の決勝で、文字通り塵にしてくれる!」
黒崎が去っていくその後ろ姿を見送りながら、今岡校長がゆっくりと歩み寄ってきた。
「乾、いい『斬』だった。だが、属性は諸刃の剣だ。金属性を研ぎすぎれば、お前自身の精神もボロボロに砕ける。……お前の右腕を見ろ。震えが止まってねえぞ」
今岡は、乾の右手の激しい痙攣を鋭く指摘した。17,000という膨大なマブイを無理やり「斬」へと圧縮・変質させる負荷は、乾の肉体を内側から削り取っていた。
「……分かってます。でも、研がなきゃ、あいつらには届かない。あいつらを引きずり下ろせない」
乾は、ハルのもとへ歩み寄った。ハルはピットの縁に座り、無機質な瞳で琵琶湖の夕闇を見つめていた。
「ハル。お前、俺を利用したな」
「あはは。おじさんの『斬』、すごく綺麗だったから。道が見えたんだ。僕には、ああいう熱いのは出せないからさ。おじさんは、僕にとって最高の『エンジンの部品』だよ」
ハルは無邪気に笑う。だがその瞳は、やはりどこまでも空虚で、何も映していなかった。
「次は決勝だ。マブイネービラと、ホームレス……どっちが琵琶湖の頂点に立つか、決めようぜ」
「うん。楽しみだよ、おじさん」
琵琶湖の夕闇が、すべてを飲み込むように迫る。
乾は、再びレンチを握った。マブイ石は熱を持ち、機体は属性の衝突でボロボロだ。しかし、乾 健児の魂は、かつて数千億を動かしていた頃よりも、遥かに鋭く、気高く、鋼の輝きを放っていた。
「……見てろよ。俺のレースは、ここからが本番だ」
彼は闇に包まれ始めたピットで、明日の決勝に向けた「最後の、そして最悪の調整」を始めた。




