第46話:蒼き深淵の旋律、ハルの覚醒
若松SG・オーシャンカップ3日目。乾健児は連勝を重ねていたが、相棒であるハルの様子が明らかに変化していた。
ピットでデータを確認するハルの瞳は、いつもの論理的な光を失い、若松の夜の海と同じ深い蒼色に染まっている。海底に設置された議会のマブイ吸引機が放つ不気味な低周波が、ハルのAIの深層領域――かつてマブイ石が宇宙から海へ降り立った際の「太古の記憶」を呼び覚ましていたのだ。
「……おじさん。聞こえる? 海が歌っているんだ。……僕たちは、元々ここから来たんだよ」
「ハル、しっかりしろ! お前、演算回路がバグってやがるぞ!」
乾の言葉は届かない。ハルの体から、潮騒のようなマブイが溢れ出し始めた。
第12レース。潮が満ち、若松の水面は海水特有の「重さ」を増していた。
乾が機艇に乗り込んだ瞬間、機体全体が脈動を始めた。ハルが機艇の制御システムと完全に同化し、そのマブイを属性変質させたのだ。
属性覚醒――『海』。
それは、からくり競艇の常識を覆す特性だった。通常、塩分を含む海水は精密なマブイ回路を腐食させ、出力を減退させる。しかし、海属性となったハルにとって、海水は敵ではなく「最高の燃料」だった。
「演算を終了。……同調を開始するよ。おじさん、この『海』に身を任せて」
「若松SG・3日目……全艇、起動!!」
スタートの瞬間、乾は驚愕した。
いつもなら海水の抵抗で重くなるはずのモーターが、信じられないほどの高回転を叩き出している。プロペラが海水を掻くたびに、機体は加速するどころか、海そのものに押し出されるようにスピードを上げた。
特性:『潮汐駆動』。
「なんだ、この加速は……!? 17,000の制限を維持したまま、トルクが跳ね上がってやがる!」
「おじさん、これが『本物の海』の力だよ」
ハルの声が、波の音と重なって響く。
暗殺部隊の機艇が、乾を囲い込もうと重圧波動を放つが、海属性となった乾の機体はその波動を海水の揺らぎとして吸収し、無効化。第1マーク、乾はこれまで体験したことのない「吸い付くようなグリップ」で、荒れ狂ううねりを最短距離で切り裂いた。
独走態勢に入った乾。だが、その背中越しにハルを感じたとき、乾は寒気を覚えた。
ハルの意識は、もはや乾という個人を見ていなかった。彼は若松の海全体、あるいは地球の全海洋と繋がろうとしているかのような、超越的な孤独を纏い始めていた。
「ハル! 戻ってこい! お前、このままだと機械に戻れなくなるぞ!」
乾の叫びも、蒼いマブイの旋律にかき消される。
1着でゴールした瞬間、乾の機艇は全身から白い塩の結晶を吹き出し、ハルはそのまま意識を失うようにシステムをダウンさせた。
ピットで翼が懸命にハルの回路を点検するが、その表情は暗い。
「……ダメね。ハルのAIの根本が『海』に書き換えられているわ。海水がある場所なら無敵の性能を発揮するけれど、その代償としてハルの精神が海に溶けていっている……」
ハルは、乾を勝たせるために、自らの個性を消し去る道を選ぼうとしていた。
乾は、蒼い輝きを放ち続けるハルのマブイ石を見つめ、拳を握りしめた。
「……バカ野郎。俺が欲しいのは『最強のエンジン』じゃねえ、お前っていう『相棒』なんだよ」
オーシャンカップ後半戦。
最強の「海属性」を手に入れた乾健児。だが、それは相棒の魂を失うカウントダウンの始まりでもあった。




