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からくり競艇〜ホームレス、魂のフルスロットル〜  作者: 水前寺鯉太郎
第1部:学校編

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第4話:魂圧(こんあつ)の底、マブイネービラの針

第四話:魂圧こんあつの底、マブイネービラの針


滋賀県・琵琶湖の北端。そこには、湖底の最深部に匹敵する水圧を人工的に再現した巨大な円筒形施設がそびえ立っている。通称**「魂圧こんあつプール」**。

からくり競艇の歴史において、数多の天才たちが自らの才能に溺れ、マブイ器官を破損させて再起不能となった場所。「マブイの墓場」という不名誉な二つ名を持つこの施設は、重厚なコンクリートと強化チタンで塗り固められ、外界からの光を一切遮断していた。

乾 健児は、厚さ30センチの強化ガラス越しに、澱んだ鉛色の水底を見つめていた。

「いいか、乾。お前の17,000は、広大な平原にぶちまけられたガソリンだ」

背後で、今岡校長が湿った空気の中でも器用に煙草を吹かしている。紫煙は換気扇に吸い込まれる間もなく、重苦しい湿気に押し潰されていた。

「火をつければ派手に燃える。多摩川の連中を驚かせるには十分だろう。だがな、琵琶湖の『本物』を相手にするには、その燃焼はあまりに無駄が多い。この魂圧プールの中では、水の重量そのものがお前のマブイという概念を物理的に押し潰そうとする。それに抗って『広げる』んじゃねえ。逆に、マブイを一点に……針の先よりも細く『凝縮』させろ」

乾は、廃材置場から夜通し組み上げた「自作外部マブイ冷却機」を背負い、潜水服のような重厚なライディングスーツに身を包んだ。その姿は、かつての不動産王の面影など微塵もない、深海へと挑む狂った作業員だった。

「……マブイを、刺すのか」

「そうだ。マブイネービラ……ハルのような奴は、水の隙間を滑る。実体のない幽霊を殴ることはできねえ。ならお前は、水の原子の隙間をブチ抜くほどの『鋭さ』を持て。空間ごと貫通ピアスしろ。それができなきゃ、お前は一生、あのガキの影すら踏めねえぞ」

乾は無言で頷き、重厚なハッチを開けた。

瞬間、冷たい水の感触が全身を包み、彼は鉛色の闇の中へと身を投じた。


潜行開始。

深度20メートル。乾の胸にあるコアマブイ器官が、周囲の圧力に反応して激しく拍動を始める。

(くそっ、呼吸が……重い。肺の中にまで鉛が入り込んできたみたいだ)

深度50メートル。外付けマブイ12,000が、外からの水圧に押し戻され、行き場を失って乾の体内を逆流し始める。

全身の血管がミミズのように浮き上がり、眼球の毛細血管が弾け、血の涙がゴーグルの中に滲む。

この感覚には、覚えがあった。

半年前。倒産の間際、本社ビルのエントランスで、怒り狂った債権者たちに四方を囲まれ、逃げ場のない罵声と暴力を浴びせられたあの日の絶望。あの時の「息のできない圧迫感」が、今、琵琶湖の水圧となって彼を殺しにきていた。

「ああぁぁぁぁぁ……っ!!」

乾は水中で絶叫した。肺から漏れた気泡がボコボコと立ち上り、視界を遮る。

マブイが暴走し、背負った冷却機がガタガタと異音を立てる。

「分散」させるのではない。今岡が言ったのは「凝縮」だ。

乾は意識を、極限まで一点に集中させた。

17,000という巨大な、呪いのような熱量を、右手の指先、たった一箇所に集めるイメージ。

だが、集めようとすればするほど、巨大なエネルギーは磁石の同極同士のように反発し、乾の肉体を内側から木っ端微塵に引き裂こうとする。

(止めるな……集めろ! 全部、あの多摩川の泥水の中に捨ててきたはずだ! 家族も、金も、プライドも、過去の栄光も……! 今の俺に残っているのは、この忌々しい、重たい『執念』だけなんだよ!)


意識が薄れ、周囲の音が遠のきかけたその時。

水の揺らぎの中に、不自然なほど白い人影が見えた。

ハルだ。

驚くべきことに、ハルは潜水服も、酸素ボンベすら持たず、ただの白いシャツ一枚で水圧100メートルの底を「歩いて」いた。

否、歩いているのではない。彼には「水圧」がかかっていないのだ。

マブイがない。マブイがないということは、この世界の「からくり物理学」において、彼は観測対象外の幽霊であることを意味する。水は彼を「押し潰すべき物体」として認識せず、すり抜けていく。

マブイネービラ。魂を持たぬ漂泊者は、この地獄の深淵においてさえ、絶対的な「自由」を享受していた。

『おじさん、苦しそうだね』

脳内に直接、ハルの声が響く。テレパシーではない。マブイを持たぬ彼が、水の振動という純粋な物理現象を精密に操り、乾の鼓膜を震わせているのだ。

ハルは乾の目の前まで魚のようにしなやかに泳いでくると、その透き通った冷たい手で、乾の胸元に触れた。

『そんなにたくさん抱えてるから、苦しいんだよ。捨てちゃえばいいのに。僕みたいに、空っぽになれば楽になれるよ。そうすれば、おじさんも水と友達になれる』

ハルの指先から、絶対零度の「虚無」が流れ込む。

乾が必死に燃やし続けていた17,000の熱が、一瞬で凍りつき、灰に変わろうとする。

それは甘い、死への誘惑だった。

(……捨てる……? 冗談じゃねえ)

乾は、ハルの手を掴もうと右手を伸ばした。だが、その手はまるで月光に触れるように、するりと幻影のようにすり抜ける。

(俺はな、ハル……。捨てたんじゃない、奪われたんだ! 世界に、時代に、信じていた奴らに、一滴残らず絞り取られたんだ! そして奪われた空白の分だけ、俺のマブイは重くなった! この重みこそが、俺がまだ死んでいない唯一の証明なんだよ!)

乾の咆哮が、マブイ器官から放たれた衝撃波となり、魂圧プールの水を一瞬で沸騰させた。


「……来たか」

モニターを見守っていた今岡が、思わず咥えていた煙草を床に落とした。

深度100メートル。

乾の身体を覆い、荒れ狂っていた青白い奔流が、一瞬で消失した。

いや、消えたのではない。

彼の右拳の先に、豆粒ほどの、だが太陽の核よりも眩い「白銀の点」が形成されていた。

17,000のマブイ。大型客船をも動かす膨大なエネルギーを、一ミリの数百分の一という極小の空間に閉じ込めた、超高密度エネルギー体。

「マブイ・ニードル」

乾はその拳を、プールの底に設置された厚さ50センチの強化鋼鉄ターゲットに向けて、静かに突き出した。

――シュンッ!

爆音すらしない。ただ、水の分子が断裂する微かな振動だけが伝わった。

次の瞬間、世界最強の硬度を誇るはずの鋼鉄板に、指の太さほどの穴が、まるで熱したナイフでバターを刺すように、一直線に穿たれた。

その穴の周囲には、熱による溶解の跡も、物理的な衝撃による歪みすら存在しない。

「硬さ」という概念を無視して、凝縮された魂が空間そのものを刺し貫いたのだ。

「……合格だ、乾。お前は今、マブイを『速度』という広がりではなく、『貫通力』という一点に変える術を覚えた」

今岡の声が、スピーカーを通じて水底まで届く。

乾はゆっくりと上昇を開始しながら、隣で浮遊するハルを睨みつけた。

ハルは、生まれて初めて見るものを見るかのように、驚愕に目を見開いていた。

自分の「絶対的な無」が、初めて「極限の有」という暴力によって脅かされたことを、本能で悟ったかのように。


地上へと這い上がってきた乾は、重い潜水服を脱ぎ捨て、荒い息を吐きながらコンクリートの床に大の字になった。

背負っていた冷却機は真っ赤に焼けただれ、内部のゼンマイは飴細工のように溶け落ちて使い物にならなくなっていたが、乾の瞳には、かつての不動産王時代にも持っていなかった確かな確信が宿っていた。

「……おじさん、さっきの、何? 僕の横を、すごく怖い何かが通り過ぎた気がした」

プールサイドに上がってきたハルが、少し震える声で尋ねる。

乾は、力強く拳を握ってみせた。

「マブイネービラ……ハル。お前が『気配』を消して水の隙間に逃げ込むなら、俺はその隙間ごと、お前を刺し貫くことにした」

乾の口角が、猛獣のように吊り上がる。

「俺の17,000は、もうお前の邪魔をしない。ただ、お前のゴールを奪い、お前の『無』に風穴を開けるためだけに、この一点に集まる」

ハルは黙って乾を見つめていた。その無機質な瞳の中に、初めて「恐怖」という名の好奇心が芽生えていた。

「面白い。ねえ、おじさん。次のレース、楽しみにしてるよ。僕の『旧式ガソリンエンジン』と、おじさんの『マブイの針』、どっちが琵琶湖に嫌われるか、勝負だね」

ハルが去っていく後ろ姿を、今岡が満足そうに眺めていた。

「乾、準備しろ。来週はいよいよ、本校の卒業試験を兼ねた『びわこルーキー記念』だ。そこには、お前をホームレスに追い込んだ……あの『帝都大都銀行』の息がかかった機艇も出るぞ。あいつらは最新のマブイ増幅器を積んで、お前をゴミのように蹴散らすつもりだ」

「……帝都大都銀行か」

乾は立ち上がり、琵琶湖から吹き抜ける冷たい風を全身で浴びた。

「俺の借金は、あの水の上で、一滴残らず清算してやる。利子をつけてな」

バブルの亡霊、乾 健児。

魂を持たぬ神速の少年、ハル。

そして、闇から糸を引く経済の支配者たち。

琵琶湖の水面が、史上最も熱く、そして冷徹な戦いを予感して、狂ったように波打っていた。


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