第39話:鋼の教育、大宮の先触れ
江戸川G1・2日目。上田通彦の「無」に完敗した乾健児は、宿舎に戻ることもなく、月明かりの下で愛機を整備し続けていた。しかし、いくらマブイの出力を調整しても、上田のあの「摩擦ゼロ」の旋回を越えるイメージが湧かない。
「……マブイに頼らねえ戦い方、か。俺にはそれしかねえと思ってたんだがな」
乾は、宿舎の屋上で夜風に吹かれる上田を見つけ、意を決して歩み寄った。
「上田さん……! あんたのあの旋回、教えてくれ。マブイを捨てて、どうやって江戸川を走るのかを」
上田は継ぎ接ぎだらけの指で、空に浮かぶ月を指差した。
「乾君。君は17,000という数字に縛られ、今はそれを超えた『輝き』に酔っている。だが、その光が消えた時、君に残るのは何だ? ……答えは肉体と、恐怖を殺すための反復だ」
翌朝、未明。江戸川のピットに、上田に呼び出された乾の姿があった。
上田は乾の『銀鱗・泥龍』のマブイ接続端子に、無機質な鉄のボルトを叩き込み、物理的に「封印」した。
「なっ、何すんだ!? これじゃマブイを機艇に流せねえ!」
「それが修行だ。これから決勝まで、君は一切のマブイ操作を禁ずる。使うのは腕の筋力、体重移動、そして水の抵抗を感じる指先の神経だけだ」
ハルが計測する中、乾の特訓が始まった。
マブイによる姿勢制御が効かない機体は、江戸川の潮流に木の葉のように翻弄される。乾は何度も水面に叩きつけられ、カウルに頭をぶつけ、全身が青あざだらけになった。
「無駄な動きが多い。マブイで誤魔化してきたツケだ。……波の斜面を見ろ。水は敵ではなく、利用すべき斜面だ」
上田の冷徹な声が飛ぶ。
特訓は数時間に及んだ。乾の右腕は、マブイの熱ではなく、筋肉の悲鳴で震えていた。
だが、疲労が極限に達したその時、乾の感覚に変化が起きた。
マブイを介さず、プロペラが水を掻く「振動」が、ステアリングを通じてダイレクトに脳に伝わってきたのだ。
「……今だ。右に三度、重心を左後ろへ」
ハルの演算が追いつく前に、乾の肉体が反応した。
マブイに頼らず、水の抵抗を最小限にする「骨」と「筋」の旋回。
乾の指先には、上田の顔にあるような**「見えない縫合痕」**が刻まれていくような感覚があった。それは、魂ではなく「生身の人間」として水面と対峙するための、戦士の傷跡だった。
「……少しはマシになったな」
上田が初めて、僅かに口角を上げた。
乾の機艇は、マブイの火花を散らさずとも、江戸川の激流を「滑る」ように曲がれるようになっていた。
「上田さん。あんた、なんでここまでして俺に……」
「言ったはずだ。君は大宮に来る運命にある。……からくり競艇の未来が、マブイの暴走によって滅びる前に、君に『人間』の戦い方を叩き込んでおく必要がある」
その言葉の裏には、上田がかつて失った何か、そしてマブイ議会が隠蔽しようとしている「からくり」の真実が隠されているようだった。
特訓を終え、ボロボロになりながらピットに戻った乾。
彼の右腕の白銀マブイは、封印されたことで内側へと凝縮され、鈍い「鋼」のような光を帯び始めていた。
「健児、すごい顔してるわよ……。まるで別の生き物みたい」
翼が差し出すタオルを受け取り、乾は不敵に笑った。
「ああ。……マブイがあろうがなかろうが、俺が泥水の王だってことは変わらねえ。……見せてやるぜ、江戸川の老将たちに。魂を捨てた先にある『真実の旋回』をな」
江戸川G1、準優勝戦。
マブイを封印された乾健児が、肉体一つで江戸川の魔物に挑む。




