第38話:虚空の艇王、上田通彦
江戸川G1・マスターズチャンピオン2日目。
昨日、源権造から「川との対話」を学んだ乾健児の前に、今大会最大の異端児が立ちはだかった。
その男の名は、上田 通彦。
後に大宮機艇教習所の校長として、数多のレーサーを震え上がらせることになる「艇王」である。
ピットで機体を見つめる上田の姿に、乾は戦慄した。
顔から指先にかけて走る無数の縫合痕。そして何より異常なのは、彼から**「マブイの波動が一切感じられない」**ことだった。からくり競艇の世界において、感情や魂のエネルギーであるマブイを持たないことは、呼吸をせずに生きているに等しい。
「……マブイがない? ハル、どういうことだ」
「計算不能だよ、おじさん。あの人のバイタルサインは正常だけど、エネルギー的には『空白』だ。マブイを検知する僕のセンサーが、あの人の周りだけブラックホールみたいに吸い込まれてる……!」
第12レース。乾は1号艇、上田は6号艇。
江戸川の上げ潮が最高潮に達し、荒れ狂う水面で上田が静かに口を開いた。
「乾君。君の『白金』は美しいが、それは光があるから見えるものだ。……本当の暗闇を知る者には、その光は単なる『ノイズ』に過ぎない」
上田通彦。彼はかつて凄絶な事故により全身を損壊し、その際に魂のすべてを喪失したと言われている。しかし、彼は絶望の果てに、**「マブイがないからこそ、世界のあらゆる干渉を受けない」**という究極の境地、**属性:『虚無』**に到達していた。
「江戸川G1・2日目……全艇、起動!!」
スタートの号笛。乾は『白銀・千手観音』を繰り出し、江戸川の潮流を味方につけて飛び出す。
しかし、大外から迫る上田の機艇には、推進音さえなかった。
属性変質――『絶対静止』。
通常、からくり機艇はマブイの出力で水を押し、風を切って進む。しかし上田は、自らが「無」であることで、水の抵抗、風の摩擦、さらには他艇が放つマブイのプレッシャーさえも完全に透過する。
荒れ狂う江戸川の波が、上田の機艇に触れた瞬間に「消える」。彼は波の上を走っているのではなく、存在しない空間を滑っているかのように加速した。
「……っ、消えた!? レーダーからも、俺の感覚からも!!」
乾が旋回に入ろうとした瞬間、死角から音もなく上田の機艇が「出現」した。
第1マーク。乾の白銀の旋回。
だが、上田はマブイの火花を散らすこともなく、ただ指先の縫合痕が疼くような静かな動作で、乾の懐を通り抜けた。
「……技術とは、魂に頼るものではない。折れた骨を繋ぎ、裂けた皮膚を縫い合わせるように、絶望を積み重ねた先にしか『本物』はないんだ」
上田の機艇が通った後は、江戸川の潮流さえもが凍りついたように静まり返る。それは源の「沈黙」とは似て非なる、生命の気配が一切絶たれた**「死の静寂」**だった。
1位、上田通彦。2位、乾健児。3位、源権造。
完敗だった。SG王者の称号を持ってしても、上田の「無」を捉えることはできなかった。
ピットに戻った上田は、無表情に自分の継ぎ接ぎの手袋を脱いだ。
「乾君。君は大宮に来る運命にある。……その時、君に教えるべきことが山ほどあるようだ」
上田はそう言い残し、霧の中に消えていった。
ハルは震えながら言った。
「おじさん……あの人は、マブイ議会が送り込んだ刺客じゃない。あの人は、マブイそのものを否定する『からくり競艇の終わりの始まり』かもしれない……」
乾は、自分の右腕に宿る白銀の熱が、上田の冷たさに触れて微かに小さくなったのを感じた。
江戸川マスターズ。老将たちの技に加え、艇王・上田という巨大な壁が、乾の「魂の競艇」を根底から揺さぶり始めていた。




