第37話:荒ぶる江戸川、マスターズの老将たち
1994年4月。乾健児が降り立ったのは、全国でも類を見ない「河川」を利用したコース、江戸川競艇場。
開催されるのは、35歳以上の熟練レーサーたちが技を競う、G1「マスターズチャンピオン」(当時は名人戦の前身的な位置づけ)。本来ならSG王者の乾には格下の舞台に見えるが、マブイ議会が送り込んだ刺客がこの大会に潜伏しているという情報を翼が掴んでいた。
「おじさん、気をつけて。江戸川は他の競艇場とは次元が違う。潮流と風がぶつかり合って、水面に『マブイの穴』ができているよ」
ハルが警告する通り、江戸川の激しい流れは、精密なからくり機艇の姿勢制御を狂わせる「自然の猛威」そのものだった。
江戸川で乾を待ち受けていたのは、この地を30年守り続ける「江戸川の鉄人」、源 権造。
彼の属性は**「土の変質――『沈黙』」**。
派手な光も残像もない。ただ、彼の機艇が通った後の水面は、荒れ狂う潮流さえもが「沈黙」し、平坦な道へと変わる。
「若造。SGを獲ったくらいで江戸川が走れると思うなよ。ここはな、マブイの出力じゃねえ。川とどれだけ対話したかで決まるんだ」
源のマブイ出力は17,000。皮肉にも乾がかつて縛られていた数字と同じだった。しかし、その密度は乾の知るそれとは比較にならないほど重く、静かだった。
「江戸川G1・マスターズ初日……全艇、起動!!」
スタートの号笛。乾は『真珠白金』の出力で強引に潮流をねじ伏せようとする。しかし、江戸川の不規則な逆流がプロペラに絡みつき、機体が激しく左右に振られる。
その時、後方から迫る不気味な黒い機艇があった。源ではない。議会が送り込んだ刺客、コードネーム:『無色』。
その機体は、江戸川の荒波を「透過」するように進んでいた。
「……ターゲット確認。乾健児の17,000オーバーの波動を、規定値まで強制冷却する」
『無色』が放つ属性変質――『絶対零度の収束』。
乾の右腕に、かつてない冷気が走る。白銀のマブイが凍りつき、機艇のエンジンが悲鳴を上げた。
絶体絶命の乾を救ったのは、敵であるはずの源だった。
源の機艇が乾のサイドに寄り添い、その「沈黙」の波動で周囲の潮流を一時的に安定させたのだ。
「いいか、健児! 流れに逆らうな。流れの一部になれ! 白金を溶かして、この泥水に流し込め!!」
乾は源の言葉に呼応し、凍りつきかけたマブイを無理に燃やすのではなく、江戸川の濁流へと「放流」した。
自らを空にし、川の動きをマブイでトレースする。
その瞬間、乾の視界から「敵」が消え、江戸川の底を流れる太古からの記憶が流れ込んできた。
新境地――『白銀・千手観音』!!
一つの大きな流れではなく、無数の小さな「マブイの糸」を水面に張り巡らせることで、乾は『無色』の冷却攻撃を分散し、荒波を逆手に取った超高速旋回を見せた。
1位、源権造。2位、乾健児。3位、無色。
惜しくも源には届かなかったが、乾は江戸川の「真理」の一端に触れた。
ピットに戻った源は、タバコをくゆらせながら乾に不敵に笑いかけた。
「……へっ、飲み込みが早いじゃねえか。だがな、決勝はもっと荒れるぜ。マブイ議会の奴ら、本気で江戸川を飲み込もうとしてやがるからな」
翼とハルが駆け寄る中、乾は自分の右腕を見つめた。
そこには、江戸川の泥水と混ざり合い、より深く、より渋みを増した新しい白銀の輝きが宿っていた。




