第35話:翼の帰還、黒崎家の遺産(レガシー)
SGボートレースクラシック、予選3日目。
蒲郡の夜はさらに深まり、織田信哉の「鏡面」属性による幻惑は日を追うごとに鋭さを増していた。乾健児はハルの助言で「闇」を見る感覚を掴みつつあったが、機体性能の限界が近づいていた。平和島で酷使された『銀鱗・泥龍』のマブイ伝導系に、微細なクラック(ひび割れ)が生じていたのだ。
「……無理はさせられねえ。だが、このままじゃ織田の『光』に焼き切られる」
整備室で一人、機艇の心臓部を見つめる乾。そこへ、場内の喧騒を切り裂くような、高く鋭いヒールの音が響いた。
「相変わらず、泥臭い整備をしてるわね。健児」
振り返ると、そこには黒いドレスの上に真っ赤なレーシングジャケットを羽織った、黒崎翼が立っていた。
「翼! 黒崎家の始末はどうしたんだよ」
「一応の決着はつけたわ。……パパが遺した負の遺産も、すべて清算してきた。でも、これだけは処分できなかったの」
翼が差し出したのは、厳重に電磁シールドされた黒いアタッシュケースだった。中には、不気味なほど透明な、結晶体のような形状のプロペラが鎮座していた。
「パパが死ぬ間際まで研究していた、蒲郡のナイター専用プロペラ――『月下美人』。マブイを光に変換するんじゃなく、周囲の光を『吸収』して推進力に変える、黒崎家の最高傑作よ」
龍平は、いつか自分が乾を絶望させるためにこれを作った。しかし、翼が持ってきたそれは、龍平の執念を超えた「技術の結晶」として、乾の右腕を呼応させるように震えていた。
「蒲郡SG・予選3日目……全艇、起動!!」
翼の手によって換装された『月下美人』を装着し、乾は再び水面へ。
対する織田信哉は、カクテル光線を全開に反射させ、水面に何十隻もの「光の残像」を作り出した。
「消えろ、乾健児! 光の渦に呑み込まれるがいい!」
織田の属性変質――『極光の檻』。
しかし、乾がスロットルを開けた瞬間、異変が起きた。
乾の機艇の周囲から、蒲郡の照明が「消えた」のだ。プロペラが回転するたび、周囲の光がブラックホールのように機体へと吸い込まれ、機体は完全な「影」と化した。
属性融合――『無双白銀・影龍』!!
「なっ……機体が見えない!? レーダーからも消えただと!?」
織田が動揺し、光の残像が乱れる。
乾は、織田が放つ眩い光を「エサ」として利用し、その光の道に沿って影となって加速した。
第1マーク。織田が光の壁を作ってターンしようとした刹那、その光をすべて吸い尽くした乾の影が、無音でインコースを貫いた。
光があるから影が生まれるのではない。
光を喰らうことで、影は絶対的な実体となる。
乾の『泥龍』は、蒲郡の夜を支配していた光の魔術を、物理的な「静寂」で上書きした。
1位、乾。2位、織田。3位、ハル。
ピットに戻った乾を、翼とハルが迎えた。
「……やるじゃない、健児。パパの遺産、ちゃんと使いこなしたわね」
「おじさん、今の旋回は計算不能だよ。……でも、最高の『闇』だった」
乾は、翼の肩を引き寄せ、ハルの頭を乱暴に撫でた。
「ハルの計算、翼のメカ、そして俺の腕。……やっぱり、こいつが揃わねえと、からくり競艇は始まらねえな」
SGクラシック、予選。乾健児は再び、最強の「三位一体」を取り戻した。
だが、決勝戦では、織田信哉がさらなる「光の極致」を準備して待ち構えている。
そして、その背後には、黒崎龍平さえも恐れた「マブイ議会」の影が、蒲郡の夜に忍び寄っていた。




