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からくり競艇〜ホームレス、魂のフルスロットル〜  作者: 水前寺鯉太郎
第1部:学校編

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第3話:虚無(ゼロ)と極限(マキシマム)の旋回

第三話:虚無ゼロ極限マキシマムの旋回


琵琶湖の朝は、比叡山から吹き下ろす「比叡おろし」によって、肺の最深部まで凍りつくような冷気に包まれていた。

午前五時。まだ訓練生たちの宿舎に明かりが灯る前、大宮機艇教習所の北端にある「廃材置場」には、人影があった。

そこは、過酷な「スピード至上主義」の訓練に耐えきれず、水圧と遠心力によって粉砕された機艇たちの墓場だ。ひしゃげたカーボン製のカウル、錆びついた真鍮のパイプ、そして輝きを失った「マブイ石」の欠片が、無造作に山をなしている。

乾 健児は、かじかんだ指先に息を吹きかけながら、泥にまみれたジャンクパーツを漁っていた。

昨日の実技訓練。乾が放出した規格外の17,000マブイは、支給された練習艇「初陣型」の心臓部を物理的に焼き切った。中心核であるマブイ石には無数のひびが入り、冷却系は高熱で溶け落ちていた。

「……冷却じゃねえ。この熱量は、冷やして収まるもんじゃない」

乾は独り言を吐き捨て、地面に転がっていた戦時中の旧式機艇の残骸から、巨大な真鍮製のゼンマイバネを引き抜いた。

かつて不動産王として数千億の資金を動かしていた頃、彼は一つの口座に大金を留めておくリスクを知っていた。莫大な資産は、複雑なペーパーカンパニーや海外口座へ「分散」させ、追跡を逃れるのが鉄則だ。

(マブイも同じだ。一つの石に17,000をぶち込めば、石が砕けるか、俺の脳が焼ける。なら、逃げ道を作ってやりゃいい)

乾は拾い集めた廃材を前に、即席の「魂のバイパス手術」を開始した。

メインのマブイ石へ向かう伝達系に割り込みをかけ、余剰エネルギーを機体各所に増設した「ゼンマイ」や「手動式の蒸気弁」へと逃がす。

それは近代工学の粋を集めた教習所の理念とは真逆の、前時代的な、しかし合理的で狂気じみた改造だった。

「おじさん、またゴミを拾ってるの?」

気配もなく、背後から声がした。

振り返ると、そこには薄い訓練服一枚で平然と立っている少年、ハルがいた。

マブイ探知機に一切映らない「マブイ0」の特異体質。乾のような高出力保持者が放つ熱気とは対照的に、ハルの周囲だけは凪のように静まり返っている。

「……ゴミじゃない。俺の『重み』を支えるための、柱だ」

乾は、十数キロはある真鍮のゼンマイを肩に担ぎ上げた。

「ハル、お前……マブイがないのに、どうやってあのマブイ石を回してるんだ? 0に何を掛けても0だろうが」

ハルは不思議そうな顔をして、乾の改造機艇の無骨なギアを見つめた。

「僕は回さないよ。マブイ石は、ただの『窓』だもん。水面が回ろうとするのを、邪魔しないだけ。……おじさんのマブイは、すごく熱くて重いね。でも、熱すぎると、水の上では滑っちゃうよ」

少年の言葉は、乾の耳には届かなかった。

今の乾にとって、マブイとは「暴力」であり、世界を屈服させるための「重圧」そのものだったからだ。


午後。教習所のメイン水面にて、第1班の模擬レースが開催されようとしていた。

ピットの屋根の上。特等席で紫煙を燻らせているのは、校長の今岡 裕太郎だ。

彼は双眼鏡も使わず、鋭い眼光だけでピットアウトを待つ艇群を凝視していた。

「……乾の野郎、支給品を勝手にデコりやがったな。あの真鍮の塊は何だ」

傍らに控える教官が、苦り切った表情でタブレットのデータを確認する。

「校長、許可なくパーツを換装するのは重大な規則違反です。しかも、あの増設ゼンマイ……計算上は重心が狂って、直進すらままならないはずですが」

「いいんだよ。ここは『速い奴』が正義でルールだ。あいつが持ち込んだガラクタが、17,000の猛毒を食いきれるかどうか、見せてもらおうじゃねえか」

今岡は吸い殻をコンクリートの床でもみ消した。

今日のカードは、乾とハル、そしてマブイ5,000〜6,000を安定して出力するエリート候補生3人による5艇立て。

乾は最外郭の6号艇。ハルは最内の1号艇。

「ハルの『ゼロ』と、乾の『極大』。琵琶湖がどっちの魂を喰うか……見ものだな」

「全艇、起動エンゲージ!!」

スタートの号笛が琵琶湖の空気を引き裂いた。

3. 轟鳴、そしてステルス:17,000マブイの咆哮

乾がハンドルに装着した自作の端子を握りしめた瞬間、脳内を「ドロリ」とした漆黒の重圧が駆け抜けた。

コアマブイ5,000が心臓を早鐘のように叩き、外付けの12,000――失った名声、裏切られた記憶、凍える路地裏の飢え――が、血管を焼きながらボートへ奔流となって流れ込む。

――ギギギ、ガガガガガッ!!

乾が廃材置場から拾い集めた「分散用サブゼンマイ」が、過剰なマブイを受けて猛烈に巻き上がり、悲鳴のような金属音を奏でる。メインのマブイ石をバックアップするように、機体各所に配置された古いギアが超高速で回転し始めた。

「行けぇぇぇぇ!!」

乾の6号艇が、文字通り「爆発」した。

1マークまでの直線スリット。他のエリートたちが操る最新鋭機が、まるで止まっているかのように後ろへ流れていく。

圧倒的な、暴力的なまでの加速。17,000のマブイが作り出す推進力は、水面を物理的に焦がし、白い水煙の代わりに蒸気を噴き上げさせる。

しかし。

乾がふと横を見ると、そこには信じられない光景があった。

自分のすぐ隣に、音もなく並走する影がある。ハルの1号艇だ。

乾の機艇は、マブイの過負荷で「キィィィィィィィン!」という耳を刺すような高周波を発し、周囲の水を沸騰させ、空気すら歪ませている。

対して、ハルの艇は、波紋一つ立てずに滑っている。マブイサインは完全なるゼロ。教習所の高性能センサーですら、そこに艇が存在することを感知できない「無の疾走」。

「……なんだ、こいつ……!? 物理法則を無視してやがるのか!」

乾の額に冷や汗が流れる。

自分の速度は、間違いなく教習所の歴代記録を塗り替えるレベルだ。なのに、ハルを振り切れない。

ハルのボートは、乾が無理やり水面を叩きつけて作り出す激しい引きウェーキを、あざ笑うかのように軽々と跳ねて越えていく。まるで、波そのものがハルを先へと運んでいるかのようだった。


運命の第1ターンマーク。

時速160キロを超える速度で、2艇が同時に旋回点へと突入する。

大宮本校の真髄、「全速旋回」の瞬間だ。

乾は、ハンドルを左に全力で切り込みながら、サブゼンマイの固定レバーを力任せに引き抜いた。

「ロック解放アンリミテッド!!」

溜め込まれた17,000のマブイが一気にマブイ石へとバイパスから再合流し、石が臨界点を超えた太陽のような輝きを放つ。

「大宮旋回・改……『バブル・クラッシュ』!!」

ボートが水面を粉砕し、垂直に近い角度で旋回を開始する。

強烈な遠心力が乾の肉体をシートに叩きつけ、視界が真っ赤に染まる。

それはかつて、倒産当日のオフィスビルから見た、すべてを焼き尽くすような血の色の夕焼けと同じ色だ。

(このまま、全部消えてしまえ……! 俺を捨てた世界も、この俺自身も!!)

乾が最内インを強引にこじ開け、自らのマブイで水を押し退けようとした、その時。

視界の端に、白い閃光が走った。

ハルだ。

ハルは、乾のマブイが作り出した強烈な水飛沫、その「暴力の渦」の中にあえて突っ込んだ。

「危ない……! 巻き込まれて粉砕するぞ!」

ピットで見守る教官たちが悲鳴を上げる。

だが、ハルは沈まなかった。

彼は、乾の攻撃的なマブイが引き起こした「熱対流」と「水の乱れ」を、自身のマブイがないことを逆手に取り、艇体そのものを「水の一部」として同調シンクロさせたのだ。

乾のマブイが激しければ激しいほど、ハルはそのエネルギーを外部から吸収し、自らの加速へと変換する。

「……おじさん。水は、逆らっちゃダメなんだよ」

ハルの艇が、無音のまま乾のインコースをかすめる。

コンマ数ミリ。

乾の機艇の塗装を剥ぎ取るほどの超至近距離。

乾は、スローモーションのように流れる時間の中で見た。ハルの瞳の中に、琵琶湖の底のような、深く、静かで、何も存在しない広大な虚無を。

ハルの1号艇は、乾の旋回の「外側」を回るのではなく、乾が作り出した「力の隙間」を縫うように抜けていった。

5. 敗北と泥の味:真のコアマブイ

結果は、ハルの圧勝だった。

乾は2位。エリート候補生たちを半周近く引き離したとはいえ、ハルには一度も触れることすらできなかった。

ピットに戻った乾は、機艇から降りるなり、その場に膝をついて激しく嘔吐した。

過剰なマブイの使用、そして旋回時の異常なGによる「魂酔たまよい」。脳の神経系が焼け付くような痛みに、乾はのたうち回る。

「……クソが。……クソ、クソ、クソッ!!」

乾は、油と泥にまみれたピットの床を拳で殴りつけた。

12,000の外付けマブイ。絶望の底で積み上げたこの「執念」という武器が、ハルの「無」の前では、ただの滑稽な重荷でしかなかったことが、何よりも耐え難かった。

「乾」

今岡校長が、上から彼を見下ろしていた。その手には、また新しい煙草が握られている。

「お前の17,000は、確かに凄まじい。この水面の歴史を塗り替える出力だ。だがそれは、重すぎるハンマーと同じだ。どれほど威力があろうと、振り回せば自分の足も砕く」

今岡は、遠くで自分の艇を整備しているハルの背中を指差した。

「ハルは、ハンマーを振らない。あいつは、風そのものになろうとしている。……お前が勝つには、そのマブイを『重さ』ではなく、『鋭さ』に変える工夫が必要だ」

乾は顔を上げ、血走った眼で今岡を睨んだ。

「……鋭さだと?」

「ああ。バブルの時代、お前は数字というナイフを動かして人を殺してきたんだろう? だったら、そのマブイを一本の針に変えてみろ。水の隙間を、運命の縫い目を刺すような、研ぎ澄まされた一点の出力をな」

今岡はそう言うと、乾の頭に吸い殻を落とさんばかりの距離でニヤリと笑った。

「明日からは、琵琶湖の深部。水圧100メートルの環境を模した特殊訓練施設『魂圧こんあつプール』での訓練だ。マブイを針にできなきゃ、水圧でお前のマブイ器官ごと、ペシャンコに潰されるぞ。死ぬなよ、ホームレス」

乾は、震える手で顔を拭った。

肺にはまだ、ハルが通り過ぎた後の冷たい、真空の風の感触が残っている。

不動産王だった頃、彼は一度も「負け」を認めたことはなかった。失敗すれば情勢のせいにし、裏切られれば相手のせいにした。

だが今、この泥臭いピットで、全身の細胞が悲鳴を上げる中で、乾 健児は生まれて初めて、逃げ場のない「真の敗北」を噛み締めていた。

そして、その敗北の苦みこそが、彼の内側に眠る「5,000」という平凡なはずのコアマブイを、わずかに変質させ始めていた。執念とは違う、もっと静かで、鋭利な熱。

(待ってろ、ハル。次はお前の『無』を、俺の『業』で焼き尽くしてやる。……いや、貫いてやる)

乾は立ち上がり、ふらつく足取りで再び廃材置場へと歩き出した。

もっと鋭く。もっと速く。

琵琶湖の冷たい波が、彼の無謀な挑戦を嘲笑うように、激しくコンクリートを叩いていた。


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