第2話:比叡の風、魂の全速(ツッコミ)
第二話:比叡の風、魂の全速
1992年、冬。
バブルの崩壊は、日本という国家の骨組みを容赦なく軋ませていた。華やかだった季節は遠く去り、冷酷な現実が凍てつく風となって吹き荒れる。
近畿地方の北部に位置する琵琶湖。日本最大の水面を持つこの場所は、からくり競艇の世界において「聖地」と呼ばれる。しかし、その実態は、夢を追う若者たちのマブイを冷徹に選別し、適合しない者を冷たい湖底へと沈める巨大な「処理場」でもあった。
比叡山から吹き下ろす「比叡おろし」が、剃刀のような鋭さで水面を切り刻んでいる。
滋賀県・大宮機艇教習所本校。その重厚な鉄門の前に、一人の男が立っていた。
ボロボロのトレンチコートの襟を立て、伸び切った髭に霜を付着させた乾健児だ。
彼の周囲には、全国から選りすぐられた18歳から20歳程度のエリート候補生たちが集まっていた。彼らは一様に、親の資本力や家系の才能を感じさせる高級なライディングスーツに身を包み、最新のマブイ安定剤を摂取して、万全のコンディションでこの門を叩いている。
その中にあって、多摩川の泥水と安酒の匂いを漂わせる32歳の乾は、あまりに異質だった。
「おい、見ろよ。炊き出しの会場と間違えてる奴がいるぜ」
「マブイ測定器の故障じゃないか? 30過ぎのホームレスが、入試の一次を突破するなんて、裏口すら無理だろ」
若者たちの嘲笑が、凍てつく空気の中で乾の鼓膜を叩く。
乾は何も答えない。ただ、ポケットの中で激しく震える指先を、痛いほど握り込んだ拳でねじ伏せていた。
(……怖いか? 乾。数千億の資産を紙屑に変えた時より、あのイタリア製のクルーザーが差し押さえられた時より……この錆びた門を潜る方が、よっぽど震えてやがる)
乾の胸の奥。17,000という異常な出力を持つマブイが、冷たい風に反応して小さく、しかし鋭い火花を散らした。それは、誇り高い猛獣が檻の中で牙を剥く音に似ていた。
教習所内の講堂は、暖房が入っているはずなのに、底冷えするような緊張感に満ちていた。
正面の教壇に座り、灰皿が吸い殻でエベレストのように山盛りになるほど煙草を吹かしている小柄な男がいた。
元SGレーサー、通算1100勝を誇る伝説の男。現校長、今岡 裕太郎だ。
今岡が吐き出した紫煙が、講堂の空気を物理的な重圧となって支配する。
「……今年の新入生は、例年になく『軽い』な」
今岡の掠れた声が、マイクを通さずとも最後列まで響き渡る。
「からくり競艇は算数じゃねえ。マブイというガソリンを、心臓というタービンで燃やし、水上の『速度(速さ)』に変えるだけの単純な作業だ。だが、その単純なことができずに、毎年何人もが琵琶湖の底にマブイを置いていく。ここは学校じゃねえ、屠殺場だと思え」
今岡の鋭い眼光が、新入生たちのマブイの流れをスキャンするように動く。そして、最後列で蹲るように座る乾のところでピタリと止まった。
「おい、そこの髭ダルマ。貴様の数値……書類によればコア5,000に対して、外付けが12,000。化け物か、さもなくば稀に見る大嘘つきだ。大宮の歴史にそんなデタラメな積載量は存在しねえ」
講堂が激しくざわつく。
通常、成人後の努力で積み増せる外付けマブイは3,000が限界値だ。12,000という数値は、大型の貨物船を一人で押し動かすほどのエネルギーに相当する。それが一人の人間に、それも落ちぶれた中年の肉体に宿っているなど、物理学への冒涜に等しい。
「……嘘かどうかは、水面で確かめてください、校長」
乾が地を這うような低い声で応じる。
今岡はフッと鼻で笑い、最後の一吸いを終えると、吸い殻を山に力強く押し付けた。
「いいだろう。大宮の本校は『スピード』がすべてだ。マブイを速度に変換できないゴミは、今日中に琵琶湖の藻屑にしてやる」
実技訓練の時間。
支給された練習用機艇「初陣型」は、安定性重視の初心者向けモデルだ。しかし、この極寒の琵琶湖では、その安定性こそが仇となる。
乾は慣れないライディングスーツに身体を押し込み、ピットから琵琶湖の冷たい水面へと漕ぎ出した。
琵琶湖特有の「うねり」が、ボートを激しく揺さぶる。多摩川のような穏やかな淡水とは違う。ここは、水が意志を持って侵入者を拒んでいるかのようだった。
「第一課題! ターンマークへの全速突入だ! 恐怖を殺し、マブイを全開にしろ! 遠心力を魂の重圧でねじ伏せろ!」
拡声器から教官の怒声が飛ぶ。
エリート候補生たちが次々と旋回に入っていく。彼らは天性の高いマブイをスムーズに、効率よくエンジンへ流し込み、教科書通りの鮮やかな弧を描く。
「さすがは本校だ。18歳でこれほどの旋回を……」
教官たちが頷く中、乾の順番が来た。
乾はハンドルを握る手に、血が滲むほどの力を込めた。
「……行くぞ」
乾がスロットルを開いた瞬間、琵琶湖の空気が爆ぜた。
ドォォォォォォン!!
それは練習用機艇から鳴っていい音ではなかった。ジェットエンジンの始動音、あるいは爆撃の轟鳴。
乾の17,000という規格外のマブイが、初陣型の脆弱なタービンに無理やり流し込まれたのだ。
「初陣型」の機体は耐えきれず、フロントを異常な角度で持ち上げ、水面を跳ねる石のように暴走を始めた。
「なっ……なんだあの加速は!? 機体が空中分解するぞ!」
観覧席の候補生たちが総立ちになる。
乾の視界は、加速による強烈なGで端から白く濁っていく。比叡の山々が、目にも止まらぬ速さで後方へ流れる。第一ターンマークが、一瞬で、回避不可能な壁のように眼前に迫る。
(ここでスロットルを放せば、俺はただのホームレスに戻るだけだ……! 泥水をすすり、他人の情けを乞うて死ぬだけだ……!)
乾は、死の恐怖を呪詛で上書きした。
スロットルを放すどころか、さらに奥へと限界まで捻り込んだ。
心臓の隣に位置するコアマブイ器官が、許容温度を超えて真っ赤に加熱する。そして、彼が人生で失ってきたすべての未練、怒り、悲しみが「外付けマブイ」という黒い奔流となって回路を逆流し始めた。
「回れ……回れぇぇぇ!!」
ボートがターンマークに対し、物理学的にあり得ない垂直に近い角度で突き刺さる。
普通なら遠心力で水面を滑り、転覆するか、あるいは機体が水圧に負けて粉砕するはずの速度。
しかし、乾は自身の膨大なマブイを、ボートの右舷側に「仮想質量」として無理やり出力した。
魂の重圧が、ボートを水面に無理やり縫い止める。
ズガガガガガッ!
凄まじい衝撃音と共に、ボートは水面に深く食い込み、高さ3メートルを超える巨大な水飛沫を上げながら、針の穴を通すような鋭角のターンを決めた。
琵琶湖の重い水面が、乾の執念に屈した瞬間だった。
「……全速……ウィング・ターンだと!?」
今岡校長が、愕然として咥えていた煙草をポロリと落とした。
無事(とは言い難いが、機体のリベットが数本飛んでいた)旋回を終え、ピットに戻ってきた乾。
ボートのエンジンからは不気味な白煙が上がり、接合部の金属は熱によって赤黒く変色していた。
膝を突き、肩で荒い息をする乾の前に、一人の少年が立っていた。
名を、ハルという。
驚くべきことに、ハルからはマブイの気配が一切しない。
この世界では、どんな凡人でも微弱なマブイを放っているものだが、ハルを感知しようとしても、そこには「真空」があるかのような奇妙な違和感だけが残る。
「おじさん、すごいね。マブイが爆発してたよ。まるで、太陽をエンジンに入れて走ってるみたいだ」
ハルが、感情の読み取れない澄んだ瞳で静かに笑う。
「……お前、マブイはどうした。なぜ測定器に反応しない」
乾が喘ぎながら問うと、少年は小首を傾げた。
「僕? 僕は『0』だよ。生まれつきマブイを持ってないんだ。だから、学校のみんなからは『亡霊』って呼ばれてる」
乾は戦慄した。この大宮本校は、マブイ出力を速度に変換する「スピード至上主義」の牙城だ。マブイ0で入学するなど、翼のない鳥が空を飛ぼうとするようなもの。あるいは、燃料のない車でレースに出るような狂気。
「でもね、マブイがないから、水面の声がよく聞こえるんだ。おじさんのは……うるさすぎて、水が怒ってるよ。そんなに怒鳴らなくても、水は味方になってくれるのに」
ハルはそう言い残すと、自分の艇へと歩いていった。
その歩き方は、地面に足がついていないかのように軽やかで、一歩ごとに琵琶湖の冷気と溶け合っていくようだった。
その夜。
乾は宿舎の裏で、暗く沈む琵琶湖を一人見つめていた。
昼間の強引な旋回で、全身の筋肉は断裂寸前、毛細血管が至るところで弾けていた。
外付けマブイ12,000という過負荷は、確実に彼の肉体を内側から蝕んでいる。この力は、諸刃の剣ですらない。自らを焼き尽くすための業火だ。
背後で、カチリとライターの音がした。
今岡校長がやってきたのだ。彼は新しい煙草に火を付けると、一本乾の前に差し出した。
「……禁煙中だ。今は、水と油の匂いだけで腹がいっぱいだ」
乾が冷たく断ると、今岡は可笑しそうに鼻を鳴らした。
「そうか。……乾、お前、あのターンの瞬間、何を見た」
乾は少しの間、沈黙した。脳裏に浮かんだのは、かつて自分が支配していた銀座の喧騒、裏切った部下たちの顔、そして冷たく去っていった妻の後ろ姿。
「……札束と、俺を嘲笑った連中の、歪んだ顔です。あいつらをこの泥水に引きずり込む光景だけを見ていました」
「ハッ、最悪だな。反吐が出るほど個人的な動機だ」
今岡は紫煙を夜空の月へと吐き出した。
「だがな、乾。大宮のスピードは『恨み』だけじゃ完成しねえ。恨みは重りだ。沈むための材料にはなるが、浮くための翼にはならねえ」
今岡は乾の肩を、骨に響くほどの強さで叩いた。
「17,000のマブイ。そいつは呪いだ。使いこなせなきゃ、お前は卒業レースの前にマブイごと蒸発する。あそこの『無』……ハルという真空に勝つには、その呪いを『純粋な狂気』に変えるしかねえぞ」
今岡が去った後、乾は再び暗い湖面を見つめた。
遠く、夜の琵琶湖を走る試験走行の音が聞こえてくる。
ハルの艇だ。マブイの放出音は一切しない。ただ、水面を滑る微かな風の音、そして水が割れる「理」に基づいた完璧な音だけが、乾の鼓動を早めさせた。
バブルの狂乱で失った「黄金の重み」を、水上の「透明な速さ」に変える戦い。
乾健児の、真の地獄訓練が今、始まった。




