第18話:聖地の落日、蝕まれる右腕
からくり競艇レーサーを蝕む「職業病」
からくり機艇という、魂と機械が直結した異形の乗り物を操るレーサーたちは、常に特有の疾患と隣り合わせにある。勝利の代償として彼らが支払う「肉体の摩耗」は、以下の症状となって現れる。
* 蒸気肺: 超高温のマブイ石を冷却する際に生じる、霊的に活性化された微細な蒸気を吸い込み続けることで発症する。肺胞が硬化し、呼吸のたびに「シュン、シュン」と機械の排気音のような異音が混じるようになる。重症化すると、吐息が白く発光し始める。
* グリス負け: 機艇の可動部に使用される、マブイ伝導率を高めるための特殊潤滑油「霊素グリス」による皮膚炎。肌が硬質化し、金属のような光沢を帯びて激しく荒れる。整備士や、自らエンジンを組み上げる乾のようなレーサーに多い。
* 異常振動症: 高出力のマブイが引き起こす超高周波の振動が、ハンドルを通じて神経系に逆流する疾患。レース後も手足の震えが止まらず、日常生活で箸を持つことすら困難になる。乾の右腕の痺れも、この初期症状と言える。
* 金属耳鳴り: コンクリート壁に反響するエンジンの爆音と、マブイ石が放つ高周波を浴び続けた結果、常に耳の奥で「キィィィィン」という金属を削るような音が鳴り止まなくなる。集中力を削ぎ、不眠の原因となる。
第18話:聖地の落日、蝕まれる右腕
1. 宿命の代償
大村競艇場、2日目の夜。
不知火ゲンとの死闘を制した乾健児は、人気のない宿舎の洗面所で、自分の右腕を冷水に浸していた。
「……っ、止まれよ。クソが」
蛇口から流れる水が、乾の腕に触れた瞬間にジュッと蒸発する。右腕全体に青白い「グリス負け」の斑点が浮かび、指先は「異常振動症」によって、自分の意志とは無関係に小刻みに震えていた。耳の奥では、絶え間なく「金属耳鳴り」が響き、安らぎを奪っている。
17,000という過剰なマブイを「針」に凝縮し続けた代償は、着実に彼の肉体を蝕んでいた。
「おじさん、それ……もう『蒸気肺』も始まってるね」
背後から声がした。ハルだ。彼はいつものアイスではなく、どこからか手に入れてきた薬草の湿布と、古びた吸入器を持っていた。
「……ハル、お前……」
「僕にはマブイがないから、その痛みは分からない。でも、おじさんの肺の音が、壊れかけたボイラーみたいに聞こえるよ。大村の決勝までは、これを使って」
乾は黙って吸入器を受け取り、深く吸い込んだ。喉を焼くような苦味の後に、わずかな清涼感が肺に広がった。
2. 暗躍する龍平、最後の賭け
同じ頃、大村湾を見下ろす豪華客船のスイートルーム。
黒崎龍平は、モニターに映し出される乾の「バイタルデータ」を冷酷に眺めていた。権三の機艇に仕込んだ「追跡マブイ」が、乾の肉体の崩壊を刻一刻と知らせていた。
「フフフ……乾健児。17,000の熱量に、貴様の矮小な肉体が耐えられるはずがない。もってあと数戦。大村の決勝が、貴様の葬送式となるだろう」
龍平は傍らに控える秘書に命じた。
「例の『禁断の属性』を準備しろ。私が自ら、あのクズの魂を介錯してやる」
龍平が手に取ったのは、漆黒に輝く巨大なマブイ石。それは、数千人の「絶望」を凝縮して作られた、人工マブイ石の極致だった。
3. 3日目の試練:猛暑の旋回
大村3日目。気温は35度を超え、大村湾からは熱風が吹き付けていた。
この過酷な状況下で、乾の「蒸気肺」は悪化の一途を辿っていた。呼吸をするたびに胸の奥が灼熱し、視界が白く霞む。
「健児! 無理よ、今日のレースは欠場して!」
ピットで翼が叫ぶ。彼もまた、乾の異変に気づいていた。
「バカ言え……。新宿の連中が、全財産を俺の単勝に賭けてやがるんだ。……止まれるかよ」
乾は、震える右腕をガムテープで強引にハンドルに固定した。
第10レース。乾は4号艇。
対戦相手は、龍平の息がかかった「異常振動」を意図的に引き起こす攪乱工作のプロたちだった。
「全艇、起動!!」
スタートと同時に、周囲の艇から高周波のマブイが放たれる。
乾の耳の奥で、金属耳鳴りが爆音となって弾けた。平衡感覚が狂い、水面が二重に見える。
「ぐ、ああああああっ!!」
肺から熱い血の味がこみ上げる。蒸気肺の症状で、マブイの変換効率が落ち、機艇が失速する。
そこへ、ハルの2号艇が影のように寄り添った。
「おじさん、僕の計算に乗って! 振動を打ち消す(アンチ・フェーズ)よ!」
ハルが、マブイを持たない自機の「物理振動」を乾の機艇にぶつけ、共振によって敵の攻撃を無効化する。その刹那、乾の視界が一点に定まった。
4. 決死の貫通
「ハル……助かるぜ。……翼! 先に行け!!」
乾は、肺に残る最後の空気を吐き出し、17,000のマブイを自らの「心臓」に逆流させた。
肉体を削り、魂を燃料に変える禁じ手。
金属性・究極奥義――『命懸けの一閃』!!
乾の機艇から放たれた銀色の閃光は、猛暑の陽炎さえも切り裂き、先行する3艇を一瞬で抜き去った。
第1マーク。異常振動で狂ったハンドルを、乾は気合だけでねじ伏せ、針の穴を通すような旋回でトップに躍り出た。
ゴールライン。
1位、乾健児。
だが、チェッカーフラッグを潜り抜けた瞬間、乾はハンドルを握ったまま崩れ落ち、機艇は力なく慣性で旋回場へと流されていった。
5. 終章:黄昏の誓い
夕暮れの大村ピット。
救急搬送は拒否し、ハルの肩を借りて立ち上がる乾の姿があった。
肺からは「ヒュー、ヒュー」という、物悲しい蒸気音が漏れている。
「……健児。もう、十分よ」
翼が、乾の震える右手をそっと包み込んだ。
「いや、まだだ。……龍平が、最後に出てくる。あいつを叩き潰すまでは、この腕が腐り落ちようが、俺は降りねえ」
乾の瞳には、病魔を焼き尽くすほどの、凄まじい「生」の執念が宿っていた。
その執念は、17,000という数値を超え、もはや測定不能な領域に達しようとしていた。
大村の空に、不吉な赤い月が昇る。
明日は、ついに大村最終戦。
満身創痍の乾健児と、闇に堕ちた黒崎龍平。
宿命の親子、そして宿敵。すべてを飲み込む「聖地の最期」が始まろうとしていた。




