第14話:戸田の狭間、静かなる暗殺者
登場人物紹介:乾 健児
現状: 平和島での劇的な初優勝を経て、登録番号3000番台の期待の新星として注目され始めている。しかし、中身は変わらず、新宿の仲間を大切にする「義理と人情の元ホームレス」。
マブイ状況: 17,000の出力を「針」から「面」へと広げる制御を特訓中。属性は金(斬)。
悩み: 優勝賞金の多くを、お世話になった炊き出し団体への寄付と、大破した機艇の修理代に充てたため、相変わらず私生活は質素(というか貧乏)。
第14話:戸田の狭間、静かなる暗殺者
平和島競艇場、夜のピット裏。
黒崎龍平は、泥にまみれ、機能を停止した自らの愛機『黒死無双』を冷たく見下ろしていた。背後から歩み寄るSPたちの影が、照明に引き延ばされて不気味に揺れる。
「……龍平様、お車のご用意ができております。本校の理事会には、機材トラブルによる不慮の事故として報告を……」
「黙れ」
龍平の声は、属性「暗黒」そのもののように低く、周囲の温度を奪った。彼は震える手で、乾たちが駆け抜けた水面の残像を睨みつける。
「乾、ハル、そして翼……。泥水にまみれた絆が、この私を、マブイ金融の頂点を否定したというのか。……くそ、覚えていろ。次は負けん。貴様らのその薄汚いマブイごと、次は世界の果てまで握り潰してやる」
龍平はそう吐き捨てると、一度も娘の方を振り返ることなく、漆黒のベンツに乗り込み平和島を去った。その去り際の風には、復讐という名の、より深く黒いマブイの残り香が混じっていた。
平和島から3ヶ月。
季節は梅雨を飛び越し、アスファルトを溶かすような盛夏へと突入していた。
埼玉県、戸田競艇場。
ここは荒川の河川敷を利用した、全国で最も「コース幅が狭い」ことで知られる水面だ。
「……狭い。狭すぎるな、ここは」
乾健児は、ピットの縁で、自分の機艇『鉄屑・ニードル』のプロペラを叩いていた。
戸田のコース幅は、第1マーク付近でわずか37メートル。からくり競艇の巨大なマブイ出力がぶつかり合うには、あまりに窮屈な「一騎打ちの回廊」だ。
「おじさん、またプロペラいじってるの? 暑いからアイス食べなよ」
いつの間に現れたのか、ハルがガリガリとソーダ味のアイスを齧りながら乾の隣に座り込む。
「ハル……。お前、一般戦にもついてきたのか。自分のレースはどうした」
「僕の支部は多摩川だけど、戸田は近いからね。翼さんは、パパの会社との縁を切るために、今は沖縄の『マブイ石工房』に修行に行ってるよ」
翼が去り、平和島の三位一体チームは一時解散。乾は再び、一人の勝負師としてこの「魔の回廊」に立っていた。
戸田競艇場の最大の特徴は、その**「狭さ」**にある。
他の競艇場なら余裕を持って回れるターンも、戸田では壁が迫り、少しのミスが命取りになる。さらに、からくり競艇においては以下の特殊現象が発生する。
マブイの反射壁: 狭い護岸がマブイの波動を跳ね返し、水面上に「見えない波」を作り出す。高出力のマブイ(乾の17,000など)を出すと、自分の放ったエネルギーが壁に反射し、自機を直撃する危険がある。
差し場のない旋回: 幅が狭いため、強引な「捲り」は外壁に激突するリスクが高く、針の穴を通すような精密な「差し」の技術が要求される。
「今日の一般戦、変な奴がいるんだ」
ハルが、ピットの奥に停泊している、真っ黒な塗装の旧式ボートを指差した。
「名前は**『無名の権三』**。マブイサインが、まるでないんだよ。僕みたいにネービラ(0)じゃなくて、出しているのに『消えている』んだ」
第12レース。乾は1号艇。
「逃げ」が圧倒的に有利な戸田の1コースだが、乾の背中には奇妙な悪寒が走っていた。
2号艇。そこに座るのが、ハルの言っていた「権三」だ。
ボロ布のようなスーツを纏い、顔はヘルメットで隠れて見えない。
「全艇、起動!!」
スタートの瞬間、乾は17,000のマブイを絞り、一気に加速した。
(戸田の壁に反射させないよう、マブイを垂直に刺す……!)
乾の**「マブイ・ニードル」**が、水面を切り裂き、第1マークを先頭で捉える。
完璧なターン。はずだった。
「……なっ!?」
ターンマークの僅かな隙間。乾の機艇とブイの間に、影のような黒いボートが滑り込んでいた。
音もない。飛沫もない。
権三の属性は、土の変質――『影』。
彼は自らのマブイを周囲の景色と同調させ、敵の意識から「存在を消す」ことで、物理的な隙間ではなく、精神的な隙間を突く。
「……消えた……!? センサーにも映らねえ!」
乾が焦り、ハンドルを切り直した瞬間、真横から「影」が実体化した。
権三のボートが乾の右舷をかすめる。それは「斬」のような攻撃ではなく、まるで「冷たい霧」が通り過ぎるような、不気味な感触だった。
結果は、権三が1位、乾が2位。
平和島王者の乾が、無名の一般戦レーサーに敗北した事実は、ピットに衝撃を与えた。
「……あいつ、何者だ」
乾がピットに戻り、権三のボートを探したが、そこにはもう誰の姿もなかった。
ただ、乾の機艇のエンジンカウルに、小さな「黒い汚れ」が付着していた。それは汚れではなく、黒崎家(マブイ金融)の裏の紋章を模した、マブイの刻印だった。
「おじさん……あいつ、龍平さんが放った『暗殺者』だよ」
ハルのアイスが、ポタリと地面に落ちた。
「平和島で表の力(獅子王や昴)が負けたから、今度は裏の力……『影属性』のプロを送り込んできたんだ」
乾は右拳を強く握りしめた。
戸田の狭い水路。逃げ場のない回廊。
龍平の復讐は、夏の熱気と共に、より陰湿に、より確実に、乾健児の喉元を狙い始めていた。
「……面白い。影だろうが幽霊だろうが、俺の『斬』で光の下に引きずり出してやるよ」
乾の瞳に、宿敵への再戦の火が灯る。
戸田の一般戦は、新たな血の雨を予感させて幕を閉じた。




