第13話:終焉の旋回、泥水の絆は親を超えて
平和島の風:ビル風が作る「魔の気流」
平和島競艇場は、周囲を巨大な建造物やマンションに囲まれた「都市型競艇場」です。このため、風向と風速がレースの展開を劇的に左右します。
追い風(スタンド側から第1マーク方向):
水面が安定し、1コースの「逃げ」が有利になります。しかし、からくり競艇においては、追い風がマブイの燃焼効率を高めるため、加速力が異常に跳ね上がります。ブレーキが効かなくなり、第1マークでオーバーランする危険(差し場を与える隙)が生まれます。
向かい風(第2マーク側から吹き込む風):
スリット付近でボートが抑え込まれるため、ダッシュ勢(4〜6コース)の「捲り」が決まりやすくなります。マブイ属性が**「木(風)」**のレーサーにとっては、向かい風は「味方」であり、風の抵抗を推進力に変換することが可能です。
ビル風(不規則な突風):
平和島特有の現象。ビルに当たった風が垂直に吹き降り、水面に不規則な「押し下げ」を発生させます。これにより、旋回中の機艇が突然バランスを崩し、転覆を誘発します。
第13話:終焉の旋回、泥水の絆は親を超えて
平和島優勝戦。
観客席を埋め尽くした数万人の視線の先、ピットにはかつてない禍々しいマブイが立ち込めていた。
1号艇。そこに座るのは、息子・翼さえも「道具」として切り捨てた男、黒崎 龍平。
彼は自ら開発した最新鋭機『黒死無双』に乗り、禁断の**希少属性「暗黒」**を全開にしていた。周囲の光を吸い込み、音さえも遮断するそのマブイは、平和島の静水面を漆黒の鏡へと変えていく。
「翼、健児……。そして名も無きマブイネービラよ。支配される側が、支配する側に牙を剥く愚かさを、その魂に刻み込んでやる」
龍平の声が、スピーカーを通さず、直接脳内に響く。
対する乾、ハル、翼の三人は、昨日の準優勝戦で結成したチームの絆を、マブイのラインで繋ぎ合わせていた。
「平和島優勝戦……全艇、起動!!」
スタートの瞬間、平和島をビル風が切り裂いた。強い向かい風。
だが、龍平の「暗黒」がその風さえも飲み込む。
属性変質――『絶望の領域』。
1号艇から放たれる漆黒の波動が、乾たちのスロットルレバーを物理的に固着させ、マブイ石の回転を強制停止させようとする。
「……あ、足が……機体が動かない……! パパ、なんて冷たいマブイなの……」
3号艇の翼が、恐怖で震える。かつて家庭という密室で受けた支配の記憶が、暗黒の属性を通じて彼女を縛り付ける。
「翼! 前を見ろ!!」
6号艇の乾が吠えた。17,000のマブイを、翼の機艇へと無理やり流し込む。
「あんたのパパが作ったのは『虚飾の塔』だ! だが、俺たちが今走っているのは、あんたが自分で見つけた『泥の道』だろうが!!」
乾の「斬」が、翼を縛る暗黒の鎖を物理的に断ち切った。
「……そうね。あたしはもう、パパの所有物じゃない。……あたしは、あたしの泥で、貴方を塗り潰す!!」
第1マーク。龍平の『黒死無双』が、光さえ届かない最速のターンを見せる。
暗黒属性の重力が、平和島の「マブイ吸い込み」と共鳴し、後続を文字通り「消滅」させようとする。
だが、ハルが動いた。
「おじさん、翼さん。ビル風が来るよ……『風』を僕に預けて」
ハルはマブイネービラ特有の超感覚で、高層ビルから吹き降ろす突風を捉えた。
物理演算・極――『風神の回廊』。
ハルが暗黒の重力を利用して突風を「加速装置」へと変換し、乾と翼をその背後に引き連れる。
「行くわよ、パパ! これが……泥水の真骨頂!!」
翼が放つ属性変質――『万物沈降・大渦』。
平和島の吸い込みを、龍平の暗黒よりも深く、重い「泥」で上書きし、水面を底なしの沼へと変える。龍平の機艇が、自らの重力と泥の粘性に足を取られ、コンマ一秒だけ挙動を乱した。
「……おのれ、泥ネズミどもがぁぁぁ!!」
龍平が狂ったように出力を上げる。だが、その中心には乾健児がいた。
翼が道を作り、ハルが加速を与えた。その先にあるのは、乾の17,000の熱量を一本の極小の点にまで凝縮した、真の「針」。
「黒崎! あんたの『暗黒』も、元を正せば独りぼっちの寂しいマブイだ! 全部まとめて、俺が刺し貫いてやる!!」
乾の機艇が銀色の彗星と化し、龍平の黒い影を真っ二つに切り裂いた。
金属性・神髄――『救済の刃』。
光が暗黒を貫き、平和島の空に突き抜けた。
ゴールラインをトップで駆け抜けたのは、ボロボロになりながらも三艇が重なるように並んだ、乾健児。
1位・乾。2位・翼。3位・ハル。
最下位へと沈んだ龍平の『黒死無双』は、マブイ石が粉砕され、ピットに戻ることもできず水面に浮いていた。
レース後のピット。
翼は、救助艇で運ばれてきた父・龍平の前に立った。
「パパ。貴方の世界は完璧だったかもしれない。でも、あたしたちの泥んこの世界は、もっと自由よ」
龍平は何も言わず、ただ、泥に汚れた娘の顔を呆然と見つめていた。彼の「支配」という属性は、本物の絆の前に敗れ去ったのだ。
乾は、新宿の仲間たちがスタンドで狂喜乱舞しているのを見上げ、静かにヘルメットを脱いだ。
「……終わったな、ハル」
「うん、おじさん。お腹空いた。今度は高いお寿司、奢ってくれる?」
「ああ。だがその前に、多摩川の馴染みの屋台で、源さんたちと一杯やってからだ」
平和島の夕焼けが、三人のレーサーを赤く染める。
バブルの崩壊から始まったホームレスの逆転劇は、今、伝説の序章へと変わった。
彼らの前には、どこまでも続く、広大な水上の修羅道が広がっている。
――乾健児、プロ通算V1。




