第1話:多摩川の泥水は苦い
第一話:多摩川の泥水は苦い
1992年、秋。
東京の空は、重苦しい湿気と排気ガスに覆われていた。つい数年前まで、この街には実体のない黄金が雪のように降り積もっていた。誰もが「永遠に続く狂乱」を信じ、シャンパングラスに映る自分の顔を神だと錯覚していた時代。
しかし、宴は終わった。
バブルという巨大な幻影が弾け飛んだ後、街に残されたのは、返済不能な借用書と、プライドという名の粗大ゴミ、そして「マブイ」を枯らした抜け殻のような人間たちだった。
新宿歌舞伎町。欲望の吹き溜まり。
ネオンサインは、まるで腐りかけた果実のように毒々しくピンクや紫の光を放っている。その光が届かない高架下の暗がりに、段ボールを幾重にも重ねた「城」が並んでいた。
その一角で、**乾 健児**は泥のついたワンカップを煽っていた。
「……ケッ、不味いな。安酒は喉を焼く」
半年前、彼は「不動産の若き獅子」と呼ばれ、港区のタワーマンションの最上階から夜景を見下ろしていた。イタリア製のフルオーダーのスーツに身を包み、一晩で数百万円のシャンパンを開け、銀座の女たちに「健児様」と跪かせていた。所有していた40フィートのクルーザー、愛していたはずの妻、そして右肩上がりの株券。
そのすべてが、一晩の悪夢のように霧散した。
借金取りに追われ、最後に残ったのは、着古して汚れたトレンチコートと、胸の奥でひっそりと、しかし執拗に脈打つ「コアマブイ」だけだった。
乾は自らの左胸、心臓のすぐ傍らに手を当てた。
この世界において、人間には「マブイ」と呼ばれる魂の動力源が備わっている。
コアマブイ。それは生まれ持ったエンジンの排気量だ。成人時にその数値は固定され、神に与えられた「格」として一生付きまとう。
乾の数値は5,000。
日本のプロ機艇レーサーの平均値であり、世間一般から見れば「エリート」の端くれと言える数値だ。不動産王として成り上がれたのも、この5,000という出力がもたらす決断力とオーラがあったからこそだ。
だが、今の彼にはその火を灯す気力すらない。
「腹が、減ったな……」
乾はふらつく足取りで立ち上がった。多摩川の河川敷で、宗教団体か何かが無料の炊き出しを行っているという噂を聞いた。今の彼にとって、魂の尊厳よりも一杯の豚汁の方が価値があった。
多摩川競艇場。
そこは、人生のすべてを失った男たちが、最後の一銭を握りしめて「逆転」という名の麻薬を買いに来る場所だ。
乾が炊き出しの列に並んでいると、突如、空を裂くような高周波の金属音が鼓膜を震わせた。
――キィィィィィィィィィン!
空気が爆ぜる音。通常のモーターボートの「ブォォォン」という重低音ではない。もっと鋭く、もっと生物的な、神経を逆なでするような叫び。
「機艇」だ。
選手のコアマブイを物理的な推進力へと変換し、水面を滑る狂気の鉄塊。
乾は吸い寄せられるように、炊き出しの列を離れ、金網越しに水面を覗き込んだ。
「第12レース、優勝戦だ! くるぞ!」
周囲の浮浪者たちが、充血した目で叫ぶ。
水面上では、6隻の機艇が時速150キロを超える速度で水面を跳ねていた。
その光景は、乾が知っている「ボートレース」とは一線を画していた。
第1ターンマーク。全速旋回に入る瞬間、先頭を走る赤の1号艇から、凄まじい「マブイサイン」が放出された。
ボートの周囲に燃え盛るような赤いオーラが噴き出し、それが水面を物理的に削り取る。本来なら遠心力で外側に弾き飛ばされるはずの質量が、マブイの引力によって強引に内側へ吸い寄せられ、鋭角すぎるターンを描く。
「……速い」
乾の乾ききった瞳に、一瞬だけ、かつての勝負師の光が宿った。
1号艇のレーサーは、おそらくコアマブイ8,000オーバーの超エリートだろう。その天賦の才が、最新鋭のカーボン機体とシンクロし、水面に深紅の爪痕を残していく。
だが、乾が目を奪われたのは、その勝者の輝きではなかった。
最後尾。転覆寸前の衝撃を受けながら、黒い煙を吹き、今にも分解しそうなほどガタガタと震えている6号艇だ。
その艇のレーサーからは、1号艇のような美しいオーラは出ていない。
代わりに、ドブ川の泥を煮詰めたような、暗く、重く、粘り気のある「黒い何か」が、艇の後方から尾を引いていた。
「なんだ、あれは……?」
それは才能の輝きではない。
生への執着、敗北への恐怖、そして世界への呪詛。
それが物理的な質量を持って、機艇のタービンを無理やり回しているように見えた。
結局、6号艇は追い上げることなく最下位でゴールした。しかし、乾はその艇から放たれる「異様な重圧」に、呼吸を忘れていた。
レースが終わり、夕闇が競艇場を包む。
負けた男たちの罵声と、ハズレ舟券が雪のように舞う中、乾は場内の隅にある広報エリアへ迷い込んだ。
そこには、華やかな最新モデルの展示に混じって、場違いな古びたテントが設営されていた。
「大宮機艇教習所・新規訓練生募集」
テントの前には、一体のからくり機艇が置かれていた。
最新式の流線型ではない。全身が継ぎ接ぎのボルトで止められ、剥き出しのギアが油を吹いている。まるで、戦時中のスクラップを無理やり繋ぎ合わせたような骨董品だ。
「……こいつ、泣いてやがるな」
乾が思わず呟いた。
その機体からは、先ほどの6号艇と同じ、饐えた鉄の匂いがした。
「ほう。アンタ、見えるのか?」
テントの影から、真っ黒な油にまみれたツナギを着た老人が現れた。
顔中に刻まれた深いシワは、幾多の修羅場を潜り抜けてきた証だろう。教官の**鉄**だ。
「見えねえよ。ただ、俺と同じ匂いがしただけだ。捨てられたゴミの匂いがな」
乾が吐き捨てると、鉄はニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
「ゴミかどうかは、マブイの数値が決める。ここは教習所の募集窓口だ。測ってみるか? 浮浪者さんよ」
鉄は、年季の入った真鍮製の測定器を差し出した。
乾は迷った。今の自分に、測定器を握る資格などあるのか。だが、空腹で意識が朦朧とする中、何か一つでも「自分を証明するもの」が欲しかった。
乾は黙って、冷たい金属のグリップを握りしめた。
――ピィィィィィィィィィン!
耳をつんざくような警告音が鳴り響く。
測定器の指針が、激しく左右に振れ、火花を散らす。
「……おいおい、壊れてるのか?」
鉄がメーターを覗き込み、その直後、目を見開いた。
【コアマブイ:5,000】
「……コアは5,000。平均点だ。プロを目指すなら最低ライン。だが……」
鉄の指が、激しく震え始めた。
「……なんだこれは。この『外付け』の数値は、一体どうなってやがる!?」
【外付けマブイ:12,000】
「……12,000!? バカな、ありえん! 物理的な限界を超えている!」
鉄が叫ぶのも無理はなかった。
外付けマブイとは、後天的な努力や執念によって増設される「心の燃料タンク」だ。
厳しい訓練を積み、死線を越えたベテランレーサーですら、3,000を積み増すのが限界と言われている。凡人が天才に抗うための、唯一の、そしてあまりに細い希望の糸。
それが、目の前の浮浪者には、一流選手の4倍以上も「憑いている」。
「外付け……? ああ、それか」
乾は自嘲気味に、自分の心臓を拳で叩いた。
「失ったものの重さだよ。会社、部下、家族、プライド、そして信じていた明日。全部ゴミ箱に捨てて、手元に何も残らなくなった時、この胸の底に澱みたいに溜まったんだ。……ただの、汚ねえ執念だよ」
12,000の数値。
それは、彼がバブルの絶頂から奈落へと突き落とされる過程で、どれほどの地獄を舐め、どれほどの憎悪を噛み締めてきたかを示す、呪いの記録だった。
「アンタ……その合計17,000ものマブイを抱えて、何をするつもりだ?」
鉄の声から、先ほどまでの余裕が消えていた。
17,000。それは、この国のトップレーサー、賞金王ですら到達し得ない絶対的な出力値だ。しかし、それは同時に「死」を意味する。
人間の精神が、それほど巨大な出力に耐えられるはずがない。機艇と直結した瞬間、脳が焼き切れるのがオチだ。
だが、乾は答えなかった。
彼は引き寄せられるように、展示されていた旧式機艇のハンドルを掴んだ。
その瞬間――。
眠っていた「鉄の塊」が、獲物を見つけた猛獣のように震え出した。
乾のマブイが、接続端子を通さずとも、空気の振動となって機体へと流れ込む。
「……熱いな」
乾の瞳から、浮浪者の濁りが急速に消えていく。
代わりに宿ったのは、かつて銀座の夜を、地上げの戦場を支配した、冷徹で狂暴な捕食者の光。
青白い火花が機体の隙間から溢れ出し、錆びた外装を焼き切り、黄金の火花へと変えていく。
「取り戻すんじゃない。全部、ぶっ壊すんだ」
乾はハンドルを握り込み、鉄を睨み据えた。
「俺を笑った奴らも、このバブルを踊らせて、飽きたら使い捨てたこの時代も。この多摩川の泥水の中から、全部引きずり下ろしてやる。俺が味わった屈辱を、同じ温度で味あわせてやるんだ」
17,000のマブイ出力。
それは、小さな競艇ボートに、戦艦のエンジンを無理やり押し込むような自殺行為だ。機体は悲鳴を上げ、乾の血管は浮き上がり、鼻からは一筋の血が流れる。
だが、乾は笑っていた。
この過負荷こそが、今の自分に相応しい。
「大宮機艇教習所……そこへ行けば、こいつに乗れるんだな?」
鉄はしばらく沈黙した後、ポケットからクシャクシャになった煙草に火をつけた。
「……ああ。だが、そこはただの学校じゃねえ。全国から集まった『持たざる者』が、エリートたちのマブイを食らってのし上がろうとする地獄の釜底だ。アンタのような『落ちこぼれ』を見れば、奴らは喜んでマブイごと握りつぶしに来るぞ」
「望むところだ。地獄なら、もう住み飽きた」
乾 健児。32歳。
住所不定、無職。
所持金、12円。
マブイ総量、17,000。
バブルの徒花が、血と油の混じる多摩川の水面で、再び咲こうとしていた。
それは、華やかな再生の物語ではない。
すべてを失った男が、魂のすべてを燃料にして駆け抜ける、凄惨な復讐劇の幕開けだった。
「お前の17,000、ここで枯らしてやるよ」
乾を待ち受けるのは、特権階級のジュニアレーサーたち。
魂の格差社会で、乾の「執念」は通用するのか!?




