第5話 のめり込む
彼の顔を見た直後、一瞬で列車から見える景色は鬱蒼とした木々に変わった。
ひしめき合って生える木々のせいで太陽の光もあまり届かず、私はゆっくりと前を向いた。
前方には運転士、そして乗客は私のみ。
運転席は遠くてハッキリとは見えないが、運転士は私がまだ残っていることを確認し、どこかと連絡を取ったり、操縦席を操作したりと必死な様子が見てとれた。
私もこの状況が緊急事態と頭では分かっている反面、このままでいいんだと、これで間違っていないと、どこかで自分を説得し始めている自分もいた。
(…いつ衝突するのかな…)
トロッコ列車ではありえない速度で、列車はぐんぐんとゆるい坂道を登っていく。
「三ノ宮さん!!!」
突然、背後から名前を呼ばれ、驚いて後ろを振り返る私の視界に入ったのは、2席後ろに座る彼だった。
「…え…なんで……」
「降りましょう!!」
真っ直ぐに差し出される手に、思わず私は体を引いてしまう。
「どうやって…どうして戻ったんですか…!」
「三ノ宮さんが降りないのを見て、必死に走って列車の最後尾に掴まったんです。一緒にいると約束したのに、さっきは1人にしてすみませんでした。だから、今度は、僕と一緒に降りましょう…!」
「…でもっ…私は……」
「……お願いします…!」
さっき老夫婦と転がったときだろうか、その整った顔には土汚れがついており、綺麗にセットされていた髪の毛も乱れ、肩で息をしている。
そして、私を真っ直ぐに見つめるその真剣な目つきに、私は無意識にゆっくりと手を伸ばしていた。
「捕まえました」
ニコッと笑う彼の顔は、人懐っこくて思わず安心してしまい、私は胸がギュッと締め付けられる。
「僕がそちらにこれから移動しますので、三ノ宮さんは動かないでくださいね」
彼は列車の揺れに慎重に立ち上がり、長い足を伸ばしながら席を越え、私の隣にストンと座った。
「…ふう。やっと元の席に戻ってこれました」
そう言うと、歯を見せて私に笑顔を見せる彼。
私を落ち着かせようと笑顔見せて気を遣ってくれているのは、伝わっていた。
「…あの……私……」
「…うん」
「……ごめんなさい…」
「…謝る必要はないですよ」
「…本当に……ごめんなさい……私…」
そのとき、ふと彼の太ももの上にのっている手が視界に入った。さっき手を掴んだときには、まさか彼がいるとは思わず気が動転していて付かなかったが、彼の手は転がった時にできたのだろう、幾つもの切り傷があり血が出ていた。
「…西園寺さん…手が…!」
「ああ、これ、ね、僕もさっき気付いた。なんか迫力増したでしょ」
手を開いたり閉じたりして、手は問題ないよと笑う彼を見ているうちに、私は段々と目に涙が溢れる。
「…西園寺さん、ごめんなさい……」
「三ノ宮さん……。…こういう状況なので、隠さずに聞きますね。さっきは、三ノ宮さんが降りられなかったのではなく、自分の意思で降りなかったように僕には見えたのですが…」
「……そうです……この列車で事故にあって怪我をすれば、入院して夫と離れられるかもと…そう考えたら、このまま乗っていた方がいいなって…ごめんなさい……」
「…列車の事故に巻き込まれれば、ただの怪我ではすまないと、…分かっていてもですか?」
「分かってます…それでも、夫と離れられるなら、私は降りたくなかったんです…」
涙が頰を伝うが私は拭うことをせず、膝の上の自分の手を見つめていた。
「……僕が今一緒に降りようと言っても、やはりまだ降りたくないですか?」
「……」
私は俯いたまま、太ももの上の自分の手をじっと見つめる。
「……ごめんなさい…」
「いいんですよ。僕は、三ノ宮さんから取り繕った答えが欲しいわけではありませんから。…ああ、そうだ、僕のささやかな願いを…聞いてくれますか?実は僕、三ノ宮さんと行ってみたいなと、思った場所があるんです」
「…え…?私と行ってみたい場所…ですか…?」
「はい、先ほどの駅の近くに、美味しそうなアイス屋さんがあったんですよ。1人で入るのは勇気がいるので、今日の打合せが終わったら三ノ宮さんを誘って入ろうかなと、駅で三ノ宮さんを待っている間に考えていたんです」
「…アイス…ですか…?」
「子どもっぽくてすみません」
はにかむ彼に、私は一瞬、気持ちがほぐれる。
そして、緑の木々でいっぱいだった景色は急にパッと開け、陽の光が眩しく目に入る。そして、少し先には畑や田んぼが広がっているのが見えてきて、そのチャンスに彼も気付いたようだった。
「——三ノ宮さん…、僕の願いを一緒に叶えてくれませんか…?」
「…私…は……」
「…アイスを食べたら、その後のことは一緒に考えるのはどうですか…?家に帰りたくないのであれば、今日の宿泊場所を僕も一緒に探しますから。無理して帰ろうとするから辛いんです。今日だけでも、離れてみるのはどうですか」
「でも…私は結婚してるし、家に帰らないなんて…」
「…どっちみち、今日は列車の事故で帰らないつもりだった、でもその予定は変わり、今日は精神的に怖い思いをして疲れたので、近くの宿泊所に泊まる、…というのはどうですか…ね」
「……そうしても…いいのかな…?」
「いいです…!僕が責任をもちます…!…三ノ宮さん、逃げるチャンスは、他にもあります。ここであなたが身を潰す必要はない!」
涙が溢れ顔をクシャクシャにする私を彼は強く抱き締めて、そのまま横に飛び出した。
私はただただ彼の体に身を任せるだけで、私は宙に浮かんでいる間に目を開けると、彼の肩越しに列車が猛スピードで走り去っていくのがぼんやりと見えた。
ドロドロとした田んぼに飛び込んだ私と彼は、2人とも服も顔にも泥だらけで、目が合うと微笑み合った。
「三ノ宮さん、怪我はないですか?」
「私は大丈夫です、西園寺さんの方こそ、お怪我は…」
「僕も大丈夫です。無理やり一緒に飛び出したので、きっと怖かったですよね…すみません」
「いえ…そんな、私の方こそ私のせいで西園寺さんを危険な目——」
ドーーーーン!!
耳をつんざくような爆発するような音が鳴り響き、驚いて視線を音の聞こえた方にやると、白い煙のような粉塵が黙々と上がっていた。
「…列車がどこかに追突したか脱線したか…。どちらにしても、ここで降りなければ僕らは危なかったですね」
「そうですね…あっ、運転士の方はどうしたんでしょう…!?」
「あそこに、向こうに飛び降りています」
私と彼のいる場から数メートル離れた先の畑に膝立ちしている運転士が、同じように粉塵の上がった方を見ていた。
「良かった…無事で…」
「…こんな三ノ宮さんも切羽詰まった状況で、自分より運転士の心配できるとは…本当に優しい方ですね、三ノ宮さんは」
「それなら、西園寺さんだって…私を助けに来てくださって…!」
「僕は、私的な気持ちもあったから動けただけです。三ノ宮さんが助かって、本当に…良かった」
「…西園寺さん…」
「…三ノ宮さん、その、…少しだけ抱きしめてもいいですか…?」
「は…はい…」
彼は私を優しく抱き寄せると、その広い胸と長い腕で私の体を優しく包み込む。
「正直話すと、三ノ宮さんがまだ1人列車に乗っているのを見たとき…僕は心臓を鷲掴みされたような、最悪な気分でした。僕は大きな判断ミスをしたと、咄嗟に分かりました…。それに、助けられなかった妹の最後の姿も頭をよぎって、本当に……。でも、間に合った…良かった…」
「…西園寺さん…」
(そっか…私を助けてくれたのは妹さんと重なったから…)
私は胸がギュッと締め付けられ、苦しくなる。
「三ノ宮さん、ただ僕は——」
「…こんな服装じゃあ、行けないですね」
「え?」
「今日の病院との打ち合わせです、西園寺さん病院に連絡しないと…」
「あ…ああ…。…そうですね。とりあえず、今病院に連絡しますので、場所が悪いですが、三ノ宮さんはここから動かず待っていてください」
そう言うと彼は立ち上がり、スマホを取り出し電話を始め、仕事モードの真剣な彼の顔を私は無言で下から見上げていた。
ぬかるんだ田んぼの泥が、ドロドロと手を下に下にと深くめり込ませていくのを感じながら。




