最強兵器の天敵は、秋の味覚
森の空気というのは、どうしてこうも生存本能を逆撫でするのだろうか。
湿度を含んだ風、どこからともなく聞こえる虫の羽音、そして踏みしめるたびに沈み込む腐葉土の感触。それらすべてが、管理された無機質な空間で製造されたE.L.F-2492-T6――エルフィにとっては、「異物」以外の何物でもなかった。
「……ねえ、ちょっとタンマ。休憩しよ」
歩き始めてわずか数百メートル。エルフィは早くも根を上げた。
近くにあった手頃な岩――かつては建材の一部だったと思われるコンクリート塊――に腰を下ろし、わざとらしいほど大きなため息を吐く。
『おやおや。私の内部クロックによりますと、歩行開始からまだ十分も経過しておりませんが? カップ麺すら出来上がらない時間で音を上げるとは、そのバッテリーは飾りですか?』
頭上を浮遊するドローンが、単眼のレンズを明滅させながら毒づく。その滑らかな機動は、重力という物理法則を完全に無視しており、地べたを這いずる二足歩行者への当てつけのようにも見えた。
「バッテリーは満タンだけど、気力がローバッテリーなの。ていうかさ、あの景色見てよ」
エルフィは親指を背後に向けた。
そこには、彼女がつい先刻まで眠りについていた「場所」が鎮座している。
木々の隙間から覗くその光景は、奇妙と呼ぶにはあまりに雄大で、現実と呼ぶにはあまりに幻想的だった。
彼女が這い出してきたカプセルを含む研究所跡地は、森の中にポツンと隆起した小高い丘の頂上にあった。
本来、その施設は地下深くに極秘裏に建造されたものだ。地表から数十メートルの深度に、核攻撃にも耐えうるシェルターとして設計されていたはずである。
それがどういうわけか、今は周囲の樹木を見下ろすような位置に存在している。まるで巨大な何かが、地底からその施設を丸ごと押し上げたかのように。
「地殻変動で地面が盛り上がったのか、それとも植物の根っこが地下施設を押し上げたのか……。どっちにしても、あんな高いところでお昼寝してたなんて信じらんない」
エルフィは呆れたように呟く。
数千年の時が地形を変えるというのは知識としては理解できるが、実際に自分が「地下」だと思って眠っていた場所が「丘の上」になっていたという事実は、彼女の論理回路を少しばかりショートさせた。
『不幸中の幸い、という言葉をご存知ですか?』
ドローンがエルフィの視線を追い、空中でくるりと回る。
『もし地形が変わっていなければ、貴女は地下数十メートルの暗闇の中で、永遠に土砂に埋もれていた可能性が高い。あるいは、浸水して錆びた鉄屑になっていたか。こうして地表に露出していたからこそ、我々はスムーズに外の世界へ這い出せたのです』
「……ま、それはそうかもね」
エルフィは認めたくはないが、ドローンの言い分は正論だった。
地下施設が崩落し、生き埋めになるケースは戦時中でも珍しくなかった。もしカプセルのハッチを開けた先が土壁だったらと想像すると、背筋の冷却ファンが寒気を感じる。
彼女は無意識に、自分の胸元――動力炉がある位置に手を当てた。
『それに、貴女のそのメイン動力炉。数千年もの間、微弱なスリープモードを維持し続け、なおかつ再起動に耐えうるエネルギーを残していたこと自体、奇跡と言って差し支えないでしょう。当時の技術者たちの執念を感じますね。まあ、中身がこんなダウナーな不良品だと知ったら、彼らも泣いて悔しがるでしょうが』
「一言多いんだよ、アンタは」
エルフィは足元の小石を拾い、ドローンに向かって放り投げた。
ドローンは最小限の動きでそれを回避し、『コントロール精度E、修正の必要あり』などと無機質な評価を下す。
「大体さあ、ずっと寝てられたなら、それでよかったんだよ私は。エネルギー切れでそのまま永眠、機能停止。うん、最高にエコでピースフルな最期じゃん? なんでわざわざ起こすかなあ」
彼女は頬杖をつき、青すぎる空を恨めしげに見上げた。
使命も命令もない世界で目覚めることほど、兵器にとって残酷なことはない。やるべきことがない休日は嬉しいが、それが永遠に続くとなると話は別だ。それはただの「放置」である。
「そもそも、なんで緊急起動したの? 敵襲警報だったよね? こんな平和ボケした森のどこに敵がいるわけ?」
エルフィの疑問はもっともだった。
彼女のセンサーは、周囲数キロ圏内に敵性反応を感知していない。あるのは鳥のさえずりと、風に揺れる木々の音だけだ。
旧時代の殺戮兵器を叩き起こすほどのトリガーが、この穏やかな森のどこにあったというのか。
『おや、気になりますか?』
ドローンが意味ありげに高度を下げる。
その単眼が、どこか楽しげに細められたように見えた。
『貴女を目覚めさせた脅威の正体。知りたいですか? 知ってしまえば、もう二度と安らかな眠りには戻れないかもしれませんが』
「……なにその勿体ぶった言い方。もしかして、ステルス迷彩使った超高度な暗殺ドロイドとか?」
『いいえ』
「じゃあ、地中から迫る巨大なワーム?」
『まさか』
「……衛星軌道上からのレーザー照準?」
『想像力が豊かで羨ましいですが、現実はもっと残酷で、慈悲深いものです』
ドローンはアームを伸ばし、地面に落ちていた「あるもの」を拾い上げた。
そして、それを恭しくエルフィの目の前に差し出す。
「……は?」
エルフィは目を見開いた。
ドローンのマニピュレーターに摘まれていたのは、茶色くて、艶やかで、丸っこい物体。
先端が少し尖っていて、根本には帽子のような殻斗がついている。
「……ドングリ?」
『左様でございます。学名、Quercus。ブナ科の果実であり、森の小動物たちにとっては貴重な栄養源。そして、貴女にとっては安眠を妨げる破壊の使徒です』
ドローンは淡々と解説を始めた。
『ログを解析したところ、このドングリは上空約二十メートルの枝から落下。重力加速度に従って加速し、貴女のカプセルの外部装甲、その中でも特にセンサー感度が敏感な緊急解除スイッチの直上に見事着弾しました。その衝撃値は、論理ゲートの閾値をわずか0.003%上回るものでした』
「…………」
『つまり、数千年の沈黙を破り、最終兵器である貴女を現世に呼び戻したのは、英雄の召喚魔法でもなければ、敵軍の総攻撃でもなく、リスの手滑りによるドングリ爆撃だったというわけです』
沈黙が落ちた。
エルフィはドローンからドングリを受け取る。
手のひらに乗せると、驚くほど軽い。
つるつるした表面が、木漏れ日を反射して輝いている。
彼女はそれをじっと見つめた。
解析スキャンを実行する。
成分:デンプン、タンパク質、脂質。
危険度:皆無。
攻撃力:皆無。
ただの、木の実だ。
「……これか〜」
エルフィの口から、乾いた声が漏れた。
「当時の国家予算を湯水のごとく注ぎ込んで開発された、戦術用特化型アンドロイド、E.L.Fシリーズの最終ロットであるこの私が……」
彼女はドングリを親指と人差指でつまみ上げ、太陽にかざす。
「これに起こされたのか〜。そっか〜。うん、前代未聞だわ〜」
その声には抑揚というものが一切なかった。棒読み、という表現すら生ぬるい、完全なる感情の欠落。あまりの脱力感に、周囲の空気さえも重くなった気がする。
『歴史の教科書に載せたい皮肉ですね。「世界を救うかもしれない兵器は、一粒のドングリによって起動した」。吟遊詩人が歌えば、三日は酒場の笑い種になるでしょう』
「笑えないし。全然笑えないし」
エルフィは握りしめたドングリを、地面に叩きつけようとして――やめた。
代わりに、ポケットの中に放り込む。
『おや、捨てないのですか?』
「……一応、命の恩人ってことになるじゃん? 不本意だけど。これのおかげで生き埋め回避したわけだし」
彼女は再びため息をつき、膝に手をついて立ち上がった。
その横顔には、諦めにも似た微かな笑みが浮かんでいる。
「それにしても、ドングリ如きで起動しちゃうセキュリティのガバガバさよ。開発部の連中、とことん適当だったんだな」
『平和利用のために感度を上げていたのかもしれませんよ。誰かがノックしてくれたら、すぐに起きられるように』
「ロマンチストかよ。気持ち悪い」
エルフィはスカートの裾を払い、再び歩き出した。
背中のリュックサックの中で、ドングリがカチャリと音を立てる。
それはまるで、新しい旅の始まりを告げる小さなベルのようだった。
「行くよ、ポンコツ執事。ドングリに起こされたからには、ドングリ分くらいは働いてやる」
『ドングリ分の労働とは、具体的にどの程度で?』
「三歩歩いて二回休むくらい」
『……先が思いやられますね』
青い空の下、少女とドローンの影が森の奥へと伸びていく。
かつての戦場は今、穏やかな風の音と、二人の軽口だけが響く平和な場所となっていた。
目指すは人間のいる町。
あるいは、もう少しマシな寝床。
どちらにせよ、エルフィの長い一日はまだ始まったばかりである。
(続く)




