ドングリが叩く目覚めのノック
その日、世界を揺るがしたのは英雄の剣でも魔王の咆哮でもなく、一匹のリスの手滑りだった。
巨大な樹木の枝で冬支度に勤しんでいたその小動物は、前歯で咥えようとしたドングリをつるりと取り落とす。重力に従順な木の実はおよそ二十メートルの落下を経て、地面に半分埋もれていた金属のふくらみに直撃した。
カァン。
森の静寂には似つかわしくない硬質で軽薄な音が響く。リスは何事もなかったかのように去ったが、叩かれた側はそうはいかない。苔と土に覆われたその金属塊――旧文明の遺産である緊急冬眠ポッド『サルコファガス』の外部センサーが、微弱な振動を検知したのだ。
本来なら無視されるごく小さな衝撃。だが数千年の風雪に耐え続けた回路は摩耗し、論理判定ゲートがほんの少しだけバグを起こしていた。
『敵性反応検知。緊急覚醒シーケンス、起動』
琥珀色のインジケーターが明滅し、枯葉の下で圧縮空気が唸る。プシュウウゥゥと間の抜けた排気音と共に、分厚い円形のハッチが内側から押し開けられた。
むわっと立ち上る白煙と、防腐剤特有の甘ったるい匂い。その中から、少女とも機械ともつかぬ華奢な影が身を起こす。
「……あー、ダル」
開口一番、世界に向けて放たれたのは呪詛にも似た怠惰な一言だった。
彼女の個体識別名はE.L.F-2492-T6。かつて戦術用アンドロイドとして製造された彼女は、長い睫毛を震わせながら気怠げに視覚センサーを再起動させる。
視界に流れるバイナリの文字列。システムチェックのプログレスバーが遅々として進まないのを見て、彼女は深いため息をついた。
「ねえポッド、あと五百年くらい寝かせてくんない? 今起きても絶対いいことないって。ていうか身体バッキバキなんだけど」
『おはようございます、ポンコツ様』
彼女の愚痴に即座に応答したのは、ポッドの側面からウィーンとせり出してきた球状の物体だ。重力制御でふわりと浮遊したそれは、執事用のAIを搭載した自律支援ドローンである。
「あ、オハヨウ。相変わらず一言多いねアンタ」
『素晴らしい朝ですね。予定時刻を三千二百十八年と四ヶ月ほど超過していますが、あなたの脳内時計はまだお昼寝タイムですか? 錆び付いた関節油の匂いが香ばしいですよ』
「うわ、マジ? そんな経ってんの?」
T6――通称エルフィは、自分の身体をペタペタと触って確認する。継ぎ目のない白い肌素材は健在だが、あちこちに警告色が浮かんでいた。
「スキャン実行。右腕アクチュエータ感度低下、ジャイロ少しズレてる、メンタル正常値より大幅にやる気なし。……うん、通常運転だね」
『左様でございますか。敵襲の警報で叩き起こされたというのに、その緊張感の欠如。博物館に展示される前にスクラップ工場へ直行されることをお勧めします』
ドローンは単眼のカメラレンズを絞り、呆れたように空中で一回転してみせた。
「敵襲? どこに敵がいんのさ」
エルフィはハッチの縁に手をかけ、よっこらしょと重たい腰を上げる。カプセルの外に広がる光景を確認しようとして、彼女の思考回路が一瞬フリーズした。
記憶データにある風景と、網膜に映る情報の整合性が取れない。
彼女のメモリーにある『研究所』は、無機質な鉄とコンクリート、そして常に明滅する赤い警告灯に彩られた閉鎖空間だったはずだ。あるいは戦火に焼かれた灰色の瓦礫の山か。
だが、目の前にあるのは緑だった。
圧倒的な緑の暴力。
かつて研究棟の天井だったはずの場所には極彩色の蔦が絡まり、床を突き破って太い樹木が天を目指している。壁だったものは風化してただの岩のようになり、そこから名も知らぬ花が咲き乱れていた。
「……リフォームした?」
『時という名の匠の技ですね。かつての機密保持レベル5の研究施設も、今やリスと小鳥のシェアハウスです』
「ふーん。まあ、綺麗だからいいけど」
エルフィは興味なさそうに肩をすくめると、カプセルの奥に押し込まれていたコンテナを引っ張り出した。
「とりあえず服。全裸で外歩くとか露出狂プレイは趣味じゃないし」
『その貧相なボディラインでは誰も興奮しませんのでご安心を』
「うるさいな。焼却処分するよ?」
真空パックされていたパッケージを強引に引き裂く。中から出てきたのは、当時の最新技術で織られた戦術用強化繊維のスーツだ。黒を基調としつつ、なぜかフリルやリボンがあしらわれたデザインは、開発主任の歪んだ趣味嗜好が反映されている。
袖を通すと、生地が自動的に収縮して彼女の体にフィットした。
「うわ、きっつ。なんか私の胸囲データ間違ってない?」
『いえ、製造時と寸分違わず絶壁のままですのでサイズは適正です』
「……機能停止コード、入力しようかな」
軽口を叩きながらも、エルフィはブーツの紐を締め、大腿部に予備のマガジンホルダー(中身は空だが)を装着する。一通りの装備を整えると、彼女はようやく「かつて研究所だった森」に足を踏み出した。
腐葉土の感触がブーツの底を通じて伝わってくる。
かつて人類がその叡智を結集し、神の領域に触れようとした場所。今ではその傲慢さを嘲笑うかのように、大自然がすべてを飲み込んでいた。
錆びついて原形をとどめていない鉄骨のアーチをくぐる。
そこはかつて、地獄のような戦場へと続くゲートだったはずだ。
空を見上げる。
エルフィの記憶領域に焼き付いているのは、硝煙と化学兵器で汚染された、血のように赤い空。太陽すら見えず、常に雷鳴が轟いていた終わりの世界。
だから彼女は、覚悟を決めて見上げたのだ。
けれど。
「……青い」
ぽつりと、唇から音が漏れた。
そこにあったのは、目が痛くなるほどに澄み渡った青だった。
雲ひとつない、どこまでも高く、深い蒼穹。
かつて人類が夢見ながらも、自らの手で塗り潰してしまったはずの色が、視界いっぱいに広がっている。
降り注ぐ日差しの暖かさに、エルフィの肌センサーが過剰反応して温度上昇のアラートを鳴らした。
「ドローン、これ、ホログラム?」
『いいえ。大気成分分析完了。酸素濃度、窒素濃度ともに極めて清浄。有害物質の検出なし。どうやら人類が環境を破壊する速度よりも、地球が回復する速度の方が勝ったようですね。数千年の時間は伊達ではありません』
「へえ……。じゃあ、戦争は?」
『終わったのでしょう。どちらが勝ったのか、あるいは両方滅びたのかは定かではありませんが』
ドローンは淡々と事実を告げる。
エルフィはその場にしゃがみこみ、足元に咲いていた小さな白い花を指先で突いた。花粉が指に付着する。
「平和になっちゃったんだ」
『そのようですね』
「私の仕事、なくなったってこと?」
彼女は兵器だ。敵を殲滅し、拠点を制圧するために作られた人型端末。平和な世界において、彼女の存在意義は粗大ゴミと大差ない。
『おやおや、悲観的ですね。ですが、貴女のその低スペックな処理能力でもできることはあるはずです』
「例えば?」
『そうですね。大道芸人としてジャグリングを披露するとか、案山子の代わりに畑に立つとか』
「……人間、探そっか」
エルフィはドローンの提案を無視して立ち上がった。
『人間?』
「そう。これだけ環境が戻ってるなら、どこかに生き残りがいるでしょ。メンテしてもらわないと、そのうち私も動かなくなるし」
それは建前だ。本音はもっと別のところにある。
命令がないと落ち着かないのだ。誰かに「生きろ」とも「戦え」とも言われず、ただ青い空の下に放り出された自由が、彼女にはひどく居心地が悪かった。
『なるほど。ご主人様を探す旅ですか。捨て犬のようで涙を誘いますね』
「捨て犬じゃなくて迷子。訂正して」
『はいはい。では、どちらへ?』
エルフィは周囲を見渡す。緑に埋もれた廃墟の彼方、森が途切れる方角に、微かに人工的な直線のシルエットが見えたような気がした。
「あっち。なんとなく」
『根拠のない直感ですね。まあ、貴女の演算機能よりはサイコロの方が信頼できますが、従いましょう』
ドローンが恭しく空中で一礼する。
エルフィはスカートの埃を払い、背中のウェポンラックに何も刺さっていない軽さを少しだけ寂しく思いながら、第一歩を踏み出した。
「行くよ、執事。遅れたら置いてくから」
『おや、置いていかれるのは貴女の方では? 足元の木の根にお気をつけください。転んで泣いても慰めませんよ』
「転ばないし!」
言い返した直後、エルフィのつま先が見事に蔦に引っかかる。
たたらを踏んで体勢を立て直すが、ドローンから『プッ』という小馬鹿にしたような電子音が漏れたのが聞こえた。
「……あとで絶対分解してやる」
『楽しみにしております、お嬢様』
かつての地獄は、楽園のような森に変わっていた。
役目を終えた兵器と、口の悪い監視役。
凸凹な二人の旅は、こうして静かに、そして間の抜けた音と共に始まったのである。
青い空の向こうに何が待っているのか、今はまだ、誰も知らない。
ただ、木々の隙間から差し込む光が、彼女の銀髪を祝福するように輝かせていた。
(続く)
E.L.F-2492-T6 = 「エルフによくにてる」
ただそれだけ。




