「タクシー運転手、家を買う?」
白樺亭――王都の中央通りから少し離れた場所にある、古くて温かい木の宿だ。
異世界に来てから、俺はずっとここに世話になっている。
女将さんはいつも気にかけてくれるし、娘のマリアは元気で明るくて、なにかと話し相手になってくれる。
料理は旨いし、部屋は落ち着く。
しかも「運転手さんは特別料金よ」と言われ、破格で泊めてもらっている。
ここは、もう“帰る場所”だった。
――あの夜までは。
仕事を終え、遅くに宿へ戻ると、玄関の影から不穏な声が聞こえた。
「明日までだ。耳揃えて返せよ」
「次は優しくしねぇからな……わかってんだろ?」
低く荒んだ声。借金取りだ。
女将さんが震える声で答えた。
「……は、はい……明日には……」
俺は咄嗟に柱の陰に隠れた。
黒外套の男が三人。完全に裏社会の連中だ。
(白樺亭……そんな状態だったのか)
格安で泊まり、食事まで世話になって。
恩ばかり受けて、負担をかけていたのかもしれない――。
部屋に戻っても、全く眠れなかった。
(俺が出たほうが楽になるんじゃ……?
でも、今出たところで……意味あるか……?)
そんなぐるぐるとした思考を抱えたまま朝を迎えた。
その日の仕事中も、それが頭から離れない。
だから最初の乗客につい聞いてしまった。
「この街で家買うって……どう思います?」
「北区は値段が跳ね上がるぞ。やめとけやめとけ」
次の商人客にも聞いてみる。
「不動産? 市民保有地なら安いが、工事費はかかるなあ」
(家を買う……本気で考える日が来るとはな)
でも、それは白樺亭を出るという選択でもある。
夕方、宿に戻ると、女将さんは疲れた顔ながら笑って迎えてくれた。
「お帰り。今日は少し残り物で悪いね」
「女将さん……俺、その……」
出て行った方が……
そう言おうとした瞬間。
「出て行くなんて言わないで」
女将さんの声ははっきりしていた。
「あなたが泊まってくれるだけで、うちは助かってるんだよ」
「俺が……助けに?」
「タクシー運転手さんは色んなお客を乗せるだろ?
そういう人が出入りする宿は、変な連中が近づきにくいの。
あんたがいるだけで、うちの抑止力になってるのよ」
そんなふうに思われていたなんて、知らなかった。
マリアが横から顔を出した。
「修一さんがいないと、寂しいですよ!」
胸の奥に温かいものが広がった。
「……じゃあ、家買うのはしばらくやめときます」
女将さんは朗らかに笑った。
「そうしな。ここはあんたの家でもあるんだから」
マリアも安心した顔で頷いた。
「よかったぁ……」
俺はその二人の顔を見て、気付く。
(……俺、この人たちにどれだけ助けられてきたんだろう)
恩を受けてばかりじゃいけない。
少しずつでも返していこう。
言葉にはしなかったが、心の中でそう強く思った。
その夜、久しぶりにぐっすり眠れた。
白樺亭はやっぱり俺の家で、
そして――これから少しずつ恩返ししていく場所でもある。




