酔っぱらいは夜をさまよう
日が沈み、街の灯りが騒がしくなる時間帯は、タクシー運転手にとって“嵐の前触れ”だ。
宴帰り、騒ぎ疲れ、酒の勢いに身を任せた者たち……。
この国では、月が高く昇ると酔っぱらいたちが一斉に路地へあふれ出す。
俺は深呼吸しながらハンドルを握った。
「よし……今日も波が来るな」
そう呟いた時、手を挙げる影がふらつきながら近づいてきた。
足取りは蛇行、目はとろん。
——これは完全に酔ってる。
「た、タクシーさん……のれますかぁ……」
「どうぞ。ゆっくりどうぞ、転びますよ」
乗り込んで来たのは、仕事帰りらしき女性。
俺より年上っぽい。
髪は少し乱れてるが、品の良さが残っている。
「おうち……どっちだっけ……」
「まず座って落ち着きましょう」
「すみません……ほんと……少しだけのつもりが……」
彼女は座席に沈み込み、長い息を吐いた。
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「……あの、運転手さん」
「はい」
「今日ね……部下が、言ってくれたの」
彼女は瞼を閉じたまま、ぽつりと呟く。
「“いつも助かってます”って……
なんか……胸がいっぱいになっちゃって……」
酔ってるのに、その言葉だけはやけに鮮明だ。
「わたし、強いタイプじゃないから……
こんなの、変ですよね……」
「変じゃないですよ」
「……」
「その言葉は、多分そのままの気持ちでしょう。
言われるってことは、それだけやれてるってことです」
彼女の目から、ぽろっと涙が落ちる。
「や、やだ……タクシーで泣いてる……」
「大丈夫です。
月が高い時間帯は、泣く人多いですから」
「そ、そうなんですか……?」
「酔って泣く人、眠る人、笑い続ける人……いろいろです。
今日は泣くタイプで助かります。荒れなくて」
彼女は涙を拭きながら、小さく笑った。
「……なんだか安心できますね……その声」
「よく言われます」
「えっと……調子に……?」
「もちろん乗ってます」
また、彼女は笑った。
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家の近くに着く頃には、彼女の表情はすっかり落ち着いていた。
降り際、ふと振り返る。
「……運転手さん」
「はい?」
「わたし……ちゃんとできてるかな……」
酔った人の弱音は、素直だからこそ重い。
「できてます。
——じゃなきゃ“助かってます”なんて言われません」
「……そっか」
「その一言は、嘘じゃないですよ」
彼女はほっとしたように息を吐く。
「……明日からまた頑張れそう」
「それが聞ければ十分です」
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扉が閉まり、ふらふら歩きながら家に入っていく。
数秒後、窓が少しだけ開いて、小さく手を振ってきた。
……なんか、可愛いじゃないか。
「さて、次いくか」
俺は再び街の灯りへ向かって走り出した。
酔っぱらいの笑い声、路地の喧噪、酒の残り香。
誰もが今日を終えて、誰かの明日へ戻っていく。
タクシーは、その夜道の橋渡しだ。
酔っぱらいは夜をさまよう




