風に消える前に
湖の夜は、まるで息をひそめているみたいだった。
ジンは水辺に立ち、ゆらゆらと形を揺らしていた。
灯りに照らされる輪郭は、さっきよりさらに薄い。
「……修一。
ずっと……言えなかったことがアル」
「言えよ。言わなきゃわかんねぇよ」
ジンは、かすかに震えた声で言った。
「オレ……もうすぐ“無風”になるトコロだッタ」
胸の奥が冷たくなる。
「無風って……消えるってことだろ?」
「ウン。
“誰にも思い出されず、どこにも必要とされなくなる”と……
ジンは風に戻る。
風に戻ると……もう形を持てナイ」
ジンは自分の腕を見て、小さく笑った。
その笑みがあまりに寂しすぎた。
「最後に……一度でいいから……
“誰かに見て”ほしかったノダ。
“ここにいた”って……
それだけで……十分だった」
声が、かすれる。
「だから……修一を呼んダ」
ああ――
それは“助けて”という声だったのかもしれない。
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「ジン」
修一は迷わず、ジンの前に立った。
「お前、一人で消えようとしてたのか」
ジンは悲しそうに微笑む。
「ジンは……最後まで、誰にも迷惑かけナイって……
それが、古い型の誇りダカラ」
「ふざけんなよ」
ジンが驚いたように顔を上げた。
修一は続ける。
「寂しいなら寂しいって言え。
消えたくないなら、消えたくないって言え。
誰かに頼ったっていいんだよ。
“古い型”とか関係ねぇよ」
湖の風がふっと止まる。
「俺がいる。
お前がどうなろうとしてても、俺はちゃんと見る。
お前が“ここにいた”って、俺が証明する」
ジンの体の揺らぎが、一瞬止まった。
「……修一」
「乗れよ。
風じゃなくて、“俺の走る空気”を感じろ。
まだ消える気なんか起きねぇようにしてやるから」
ジンはゆっくり手を伸ばした。
その手は、触れたら壊れそうに薄いのに、確かに温かかった。
「修一……。
オレ、まだ……残ってる?」
「あぁ。ちゃんといるよ」
「……良かった……」
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タクシーは湖畔を走った。
ジンは窓を開けて、夜風を抱きしめるみたいに腕を伸ばした。
風が体を通り抜けるたび、彼の輪郭は少し濃くなる。
「……キレイだナ」
「だろ?」
「オレ……風になっても……この景色、忘れない」
「風になるなよ」
「フフ……ガンバル」
ジンの笑顔は、少し涙を含んでいた。
修一はその横顔をちらっと見ながら、静かに走り続けた。
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元の湖へ戻ると、ジンは車から降りた。
輪郭は――
来る前より、はっきりしている。
「修一……オマエが来てくれなかったら……
今日、オレは消えてタ」
「来て良かったよ」
ジンは深くうなずいた。
「オレ、また来る。
また……“見て”ほしいカラ」
「いつでも来い。
その時はもっと長く走ってやる」
ジンは胸を押さえた。
「……アリガトウ。
オレを……見つけてくれて」
ジンの体がゆっくり風にほどける。
けれどもう、消えそうではなかった。
夜風の中に、確かな存在感だけを残して
ジンは闇へ帰っていった。
修一はしばらく湖を見つめ、
ひとつ息をついた。
「……あいつ、ちゃんと残ってるよな」
風が返事をするように揺れた。




