表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
折に触れて廻る・・間違いだらけのタイムリープ  作者: 馬場 ヒロシ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

2/10

第一部 第二章 やり直しは旋律

二度目の人生を得たヒロシ・・どんな生き方を目指すのか?

第二章  やり直しは旋律(せんりつ)


    


ヒロシは妄想止まないこの時代に戻れたうれしさと、何故ここに戻れたのか?考えていた。

これからどうする?とのいろいろな不安や疑念が彼の脳裏に渦巻いたが、少し冷静沈着にならなくてはと心を落ち着かせ考えた。

ヒロシは暫く駅前に立ち(すく)んでいた。

静岡の大学に決め安アパートに住み、極貧の生活の中で希望を膨らませたが、勉強以外には無頓着だった。そこからバイト仲間から賭け事に誘われて、堕落する道。学生時代にさゆりと会い、愛を求めて流される。結婚後も・・この様な人生。ヒロシは振り返っていた。賭け事に染まったのは、決して出会った友が悪いのではない。お金欲しさにのめり込んだ自分の責任と弱さ。さゆりと出会って好きになったのも、自分の寂しさや、好きな人が欲しかった欲求と欲望。物欲に駆られたのも、自分を大きく見せて、成功者に仕立てたかった。無駄な車や楽器集め・・と、全て自分の欲望へのコントロールが出来なかった自分のせいだった。

誰も悪くない。だから・・もう一度、このストーリーを歩き、来るであろう事象に立ち向えばいい。ヒロシはそう思うのだった。「やり直しだ」

そうしたら、さゆりにも子供達にも愛される。

ヒロシはやり直そうと確りと考えていた。

 あの日と同じアスファルトの強烈な照り返しでまだまだまだ暑い日。そんなところに見覚えのある人物が駅に向かってきた。・・あれは・・・

「あっ!・・恵美だ。」高校時代の俺へ、簡単にあの三行半(みくだりはん)を突き出した元彼女だった。

彼は気付かれぬ様に身を潜め、じっと通り過ぎるまで顔を伏せ待った。「何で俺が隠れるんだ・・」

彼女は駅前に立ち、誰かを待っていた様子だが、そこに(たくま)しい体格の男が近寄り、「待った!ごめん!」男はそう言うと、両手を顔の前で(こす)りながら謝った。

「ううん!私も今来たところだから」・・と彼女は少し笑いながら答えた。

聞きたくない声が聞こえ、過去の惨い(むごい)思い出が(よみがえ)ったヒロシだった。

そう言えば・・大学入学してすぐに高校の友達だった(まこと)君から、「恵美って結婚したらしい。知っていた?」と電話した際に聞いて絶望感を持った覚えがあった。二十歳そこそこで早々と違う男と結ばれた、痩せこけたヒロシを捨てたそんな彼女が憎かった。

彼は大学には通ったが、貧しい自分がそこでもやるせなかったし、じり貧から抜け出せない自分を恨んでいた。高校を卒業後に就職していたらどうだったか?そんなことを思った。

そんな事を思い出したが、彼女は男と手を繋いで、こよなくして電車に乗り、間もなくして消えていった。

「くそっ!」と何とも言えぬ裏切り感を覚え、彼女への復讐心も芽生えた。あんなに努力して掴んだ彼女だったのに。ヒロシは悔しさをぶつける先がなく、地団駄を踏んだ。

そこからまたしても過去の出来事を思い出していた。

中学生時代に酷いイジメを受け、教室でたった一人きりだったヒロシに、優しく声を掛けてくれたのが恵美だった。その時のヒロシは勉強出来ない、チビで痩せで、色黒な何の取り柄もない中学生だった。

イジメの原因は見た目もあったが、家が貧乏であることや、身体が弱く学校を休みがちで、みんなの格好のイジメのターゲットとなったのだった。

中学生時代の三年間は、まるで地獄絵図の様にイジメがエスカレートしていった。

家に帰っても、親にも言えず苦しかった。死のう・・本当にそうも考えた。

だが、恵美との出会いが全てを変えた。中学生三年生から猛勉強をして成績を上げていき、傍らでフォークギターを兄から貰い必死に練習した。

それは彼女と同じ高校に入学したかったからだ。恵美が音楽好きと知って、ギターもいちから練習していた。やっとの思いで彼女と同じ高校に合格し、同じ土俵に上がれた気分だった。

でも・・これだけでは彼女の心に届かないと思いまた自分を馬鹿にしてきた奴ら、自分を蔑んできた奴ら、そいつらを見返す高校生にならないと・・そう考える様にもなった。ヒロシは毎日、寝る間も惜しみ勉強した。苦手なスポーツとしてラクビー部にも入部し、掛け持ちで音楽部にも入部した。

本当に休む暇なく過ごした。一年が経過する頃には、成績は学年でトップになり、全国模試でも千番以内に入るまでになった。親は「やればできるじゃない!」と褒めてくれた。

音楽部ではギターとキーボードを兎に角やり続け、バンドを組む様になった。ラクビーだけは怪我もあり、陸上部に移籍をした。

結果は周りからの目が違っていた。自分を尊敬する目で見られる様になり、テスト前には良く人にも勉強を教えていた。

だがヒロシのこの努力には最終目的があった。

それは彼女に今の自分を見せつけた上で、最高な告白するということだった。

この二年間で自分を変えた、違うヒロシとして恵美に見て欲しかった。イジメられて沈んでいた自分ではなく、誰からも尊敬される自分になったヒロシ自身を見て欲しかった。機は熟した。そう思い一年生の終わりに告白した。だが彼女の答えは「ノー」だった。

ヒロシは訳もなく「ノー」と言った彼女に、努力が足りない・・そう感じて、更に努力して勉強にも、音楽にも向き合った。二ヶ月スパンで懲りることなく、告白し続けたが何度も振られた。

ヒロシは最終的にダメ元で、彼女を二年生時にあった九月の定期演奏会に来てくれる様に懇願した。

視聴覚室で行われた定期演奏会。ヒロシは三十人ほど来ている観衆に、彼女が居ることに気づき安堵した。「今日がダメなら諦めよう。心を込めて唄おう」そう思っていた。

ヒロシの出番となり、いつものバンド演奏ではない、アコギでのフォークソングをチョイスした。

この日の為にヒロシは人生で初めて、作詞作曲をしたのだった。どこか悲しいけど、愛しい彼女を待つ歌詞と、当時流行っていた長渕剛の曲調を参考に作曲した曲。C基調だがコードは五つだけ、聴きやすさを重視した。どちらかと言うと歌詞に時間をかけた。自分のダメな人生に一つの光が差し、気付かれないよう見ていた。いつしか彼女の優しさに触れ、愛を捧ぐ為に自分を変えていく。その愛が受け入れられず、何故?と苦悩しているさまを表現した。

歌い終わると、遠目だった彼女に涙を感じ取って、ヒロシは満足だった。これでダメでも、自分は良かったと思い、自分を珍しく褒めた。

次の日に恵美からメモが届いた。そこには「仕方がないから、付き合ってあげる」と一行だけ書かれていた。隣の彼女がいる教室をそっと覗くと、恵美は少し赤くなり、手を軽く振った。今でも決して忘れられない瞬間であった。しかし付き合い始めて三ヶ月後に恵美から「別れよう。もう好きじゃない」そう言われてあっさりと終わった。三年の努力が僅か三ヶ月で終了した瞬間だった。

ヒロシにとってこれがトラウマになり、本当の愛や信頼できるパートナーなど存在しない・・という考え方になっていった要因である。

その事がまるでその後の人生を変えてしまったかの様に、女性関係は本気に愛すものではなく、共に過ごすだけの世界に変わってしまった。

ヒロシはそんな過去を鑑みながら「もう同じ人生は嫌だ。またアイツに振られ自分の人生をダメにするなんて。堕落の要因にサヨナラしなくちゃいけない」そう感情的になるのであった。

次の瞬間、ヒロシは愚かなる考えを(おこ)した。

駅前の薬屋のガラスに映る姿は、まさに今が十九歳の若返った姿だ。

だとすれば、これはタイムスリップだ。いや・・タイムリープかもしれない?

と、息苦しい程の気が()きあがってきた。

タイムリープをしたのなら大きな理由がここにある・・筈だといい腕を組み考え始めた。

理由・・訳・・そう何度も頭の中かを巡らせ、ある新しいストーリーが考え浮かんだ。

あってはならない、とても危険なストーリーであり、決してあり得ないこと。考えてはいけないことを。

「いま俺が六十歳の初老でなく、若い時の俺なら、この時代にもう一人の俺はいない筈」そう実感した。自分が還暦の記憶を持ったまま、この時代に戻ったと確信した。それからヒロシは行きたい場所に行く為に二時間ほど歩いた。

歩き続けると自分の家の近く(実家)まで来ていた。ここが最初の目的地で何にもない田園風景で、今も昔も同じだった。

家の近くのその畑では九月とはいえ、かなり暑い中で父親と母親は野菜の苗を植えていた。両親は農家をしており、この時期は路地に野菜の根付けをしていた時期でもあった。少しだけ遠くに見える実家の畑で、野菜の苗を植える両親が見えた。・・もう何年も前に他界したはずの両親。

もう会える筈もなく、この異常な事態が引き起こした偶像だったが、声をかけずじっとその風景を見ていた彼は思い出した。

この両親が死ぬような苦労したおかげで大学まで行かせてもらって・・だが簡単に辞め二回も入学までして。そう心で感じ、自分の行動を大いに恥じた。

これもみんな俺が彼女を好きになったのせいだ!と自らの行動に思わず反省をした。でも・・そのお陰で自分を変えれた・・それも事実だった。

死ぬまで親も貧しかったから、きっと両親もかなり悔しかったに違いない。悔しくて悔しくて・・

今の俺のように、人生の流れを止められず・・。

そう思い声をかけようと(親父!)と喉まで出かかったが、決して掛けてはいけないと、単細胞ながらヒロシの心が待ったを掛けた。

ただ両親の姿をまた見られて良かったそれだけで涙が落ちた。それでここに来た甲斐があったし、草の香りや堀の濁った水の匂い、子供の頃の一番好きだった時代に戻った気分を少しだけ味わえた。

ドジョウやザリガニやゲンゴロウ・・。

ヒロシは惜しみながら、足早に実家を後にして一時間以上歩いた。ヒロシはふと誰かに後をつけられている気がしたが「うん?気のせいか?」この次元に来てから、誰かに見られている?気がした。

向かった先はあの卒業した高校だ。二度目の十九歳のヒロシが、この場に足を運んだのには大きな理由があった。どのみち、ここには来る予定だから行くが、当時の脳と今の脳は違うし、この先の杜撰(ずさん)な道も経験した六十歳の脳で行く。同じ判断をしない為に・・ヒロシの頭の中のストーリーは出来上がっていた。(確か・・ここに来るのは午後二時過ぎだった筈)。「今の時間は午後一時過ぎ」ヒロシはそう確認しながら少し時間が早いので、高校脇の万屋(よろずや)でアイスを買って食べたのだった。

ここには良く昼食の弁当が足りなかった時にパンを買った思い出がある店だった。

店のおばちゃんが「おや・・谷君かい?」そう話しかけてきた。・・あのおばちゃんだ。よくサービスだと言ってキャラメルをくれた。

「はい。お久しぶりです。」そう答えるとアイスをがぶりと齧った(かじった)。

「卒業した以来だね。今は大学生?どこの大学だっけ?」おばちゃんには辞めたとは言えずに、「まあ・・」とだけ答え話を誤魔化した(ごまかした)。

ヒロシは焦って店の外に出て「おばちゃん・・またね。」と手を振り木陰に座った。

この場所で彼女に告白して、あっさり振られた。校舎を見るたび蘇ってきたのだ。

ヒロシは時刻が迫った為、校舎に向かい始めたが、また何故か後ろに人影を感じた。

感じながらも校門を通ろうとした時、いきなり「死んで!」と、どこか聞き覚えのある声がし後ろを振り向くや否や尖った何かでヒロシは腹部を刺された。

「う・・ん・・ん」とヒロシは悶絶(もんぜつ)した。

痛みに耐えながらヒロシはその人物の胸座(むなぐら)を掴み、「誰ですか・・何故こんなことを」そう痛みに耐えながら言ったが気を失ってしまった。刺した人物はキャップを深く被り直し、足早に逃げて行った。

五分ほどして目が覚めたが、刺された腹部が痛んだ。しかしヒロシは持っていたタオルで傷口を塞ぎ、校舎の中に急いだ。もう二時だ。遅れてしまう・・

犯人が逃げる際に持っていたと思われるものを手で握っていたが、スーツのポケットに入れ隠した。この事件の証拠品かもしれないが・・

トイレに向かい血だらけの手を洗い、タオルで刺された部分をふき取り、その部分を隠すように薄手のコートを巻いて隠した。

ヒロシは激痛が(はし)っていたが、このチャンスを逃さずにいられなかったので、顔も洗い少し青ざめた顔で「ここで倒れてたまるか・・」そう狂気に似た独り言をいいながら頬を両手で叩いた。時刻が二時になり、ヒロシは高校時代の担任だった木村先生を訪ねていった、それも六十歳の記憶を持つヒロシであり、刺されたままの状態で。

ここまでする、ここに来た理由は人生の再チャンスを神様がくれた!のでは?と、

ヒロシは解釈し、ここで絶命しても(絶対にやり切る)しか方法が無かった。

木村先生は開口一番、「よう!ヒロシ!久しぶりだな」そういつもの大声でヒロシの肩をたたいた。その瞬間傷口が痛んだ。「んっ・・どうした?顔色悪いぞ」先生はそう心配そうに言ったがヒロシは「いいえ!何でもありません。先生の声が余りにも大きいのでビックリして戸惑いました」そう言った。

「ヒロシ!大学辞めたんだって」「まあ!人生はいろいろあるからな・・」「しかし・・その背広はかなり地味だなあ」と言いながら、触ろうとしたが彼は、

「東京ではこういうのが今流行っているんです。レトロ風?というもの?」とヒロシは話しをはぐらかし笑って見せた。怪我が分かってしまう・・それだけだった。ヒロシは巻いた薄手のコートをぎゅっと縛り直すと、激痛が体中に(はし)る中、大学を辞めた理由や、現在は新聞配達をしながら別の大学を目指している事を告げた。

木村先生は「一浪でもヒロシなら推薦できる大学があるよ」「浪人すると、勉学の質が落ちるから受験が益々難しくなってくるし」と過去の先生がしていた話しと全く同じだと彼は頷き思った。

ヒロシは関東・北関東で実家からも通え、万が一に衣食住には困らない場所などと、大学の条件を出し、推薦して貰える学校を聞いた。「・・ん、あるよ」木村先生はそう言いながら、大学のパンフレットをヒロシに渡した。(そう!例の大学だった。自分が十九歳で選択した大学)ヒロシはこの分かれ道を後から大きく嘆い(なげい)ていた。単純すぎたと・・。

静岡の田舎大学で、一万数千円程度の一間のアパートに住み、勉強だけを頑張り、将来の夢を計画していたが・・末路は・・・。

ヒロシはおもむろに、「先生!この大学じゃなく関東圏の大学は無い?」そう確認した。木村先生は「・・この大学なら授業料も安いし、住むところの家賃相場も安価だと思うし、かなりオススメだと思うが」と。

「それに、ヒロシがやり直せる恰好(かっこう)な場所だと思うのだが・・」

先生はヒロシの現状の苦慮ややりきれない気持を汲み(くみ)、最善な提案をした。

「・・やっぱり顔色悪いなヒロシ!大丈夫か?」木村先生も気づき始めた。

ヒロシはズボンを通して血が床に落ちないか?心配しながら、話を続けたのだった。

「俺もそう思うけど、近場なら家から通えるし親の負担が少ないと思う」そう懇願したのだった。先生は「そうか・・だとするとこの大学かな?」と心配そうにしながらもう一つのパンフを出した。まさしくあの時と同じだった。あの時は見もしなかったパンフだ。当時はそれを見もせず、無試験と言うことだけで良く考えもせずに第一希望を即決してしまった。

先生は「でも、ここは国立(こくりつ)だし小論文や小テストがあるから、合格の確率が下がる、それでもいいか?」「面接もあるしな・・」と少し心配そうな表情で言った。それでもヒロシは「テストや面接までにはまだ少し時間があるから、俺頑張ってみたいから、先生!この大学に推薦状を書いてほしい」そうせがむのだった。

ヒロシは先生との約束を(しっか)り取り付け、結局第一の人生で選択した大学を蹴り、魔の選択を決行したのだった。学校を去る彼の心には、やってしまった心と、何が何でもやり直す・・そう決意した自我を褒め(たた)えるよう心がけた。

学校を出ると遂に刺された出血は太ももから膝を通り、靴まで辿り着いていた。

学校のバス待合所で、ゆっくりと巻いたコートを緩め解いた。コートには血が付き捨てるしかなかった。

ヒロシはしばし考えたが、この時代で自分の身分証明ができる場所は自宅にしかないと思い、僅かな金銭でバスに乗り、実家がある近隣まで乗車した。

夕方になり温度も下がり、先程までの暑さは無くなっていた。ヒロシは近所の神社の境内に座り、考えていたが「このまま・・家には帰れない。帰ったら両親が心配し、警察沙汰になりかねない・・そう考えた。」

そこでヒロシは高校時代の親友である真に連絡をし、会社帰りに迎えに来てもらうことにした。何故そう考えが至ったか?それは真の親の職業だった。

彼の親は小さいが診療所をしていたのだ。そこに転がり込む!それしかない!そう思った。三十分くらい経ち、真が車で迎えに来てくれた。

「ヨッ!ヒロシ!久しぶり。東京の大学はどうだ・・」いきなり聞かれた。

そう言えば真君に久しぶりに電話連絡をしたのは、来年の事だったことに気付いた。

だから今の自分に会うのが不思議だったかもしれないが、これも分岐点が変わったことで起きているのでは?と考えるのであった。

「悪い・・真君・・ここから引っ張り上げてもらえないか?」ヒロシは既に輸血が必要なほど出血していた。その血を見た真は「おいヒロシ大丈夫か?しっかりしろ!」と慌てて抱き上げ車に乗せ、自宅の診療所に直行した。

「親父!親父!居るか?大至急にこっちに来て」そう叫んだ真に、「どうした?」と真の父親が慌ててやってきた。既にヒロシはぐったりし顔は青ざめから、少しどす黒く変色していた。

「おい!ヒロシじゃなか?どうしたんだ?」父親は尋常でないヒロシの様子を見て話をしたが「・・・」と言葉にならなかった。

真の父親はすぐにヒロシを診療台に乗せ、腹部の傷口をみて驚いた。「・・これは」

ヒロシの腹部は刺された跡が大きく開き、そこから血が流れ出ていた。

「これじゃ駄目だ。すぐに輸血と止血をしないと、死んでしまう・・」

真の親父はそういいながら輸血と止血をしながら、麻酔をヒロシに施した。真の父親は「直ぐにヒロシの家に電話しろ。来るように・・」遠のく意識の中で聞こえた。恐らく三十分程度で傷口は塞がれ、輸血も十分(じゅうぶん)にされ血行が戻ってきた。

「先生・・ありがとう」ヒロシの母の声がしたが、麻酔が切れきっていなかった。「しまった・・」そう思うヒロシだった。

目が覚め傷口が痛んだが「親父、お袋ごめん。心配掛けて・・」そう言うのだった。

両親には決して黙っていたかったが、この状況では仕方がなかった。

ヒロシは一体だれが自分を刺したのか?検討が付かなかった。ただ・・やるべきことは今日できた。それに安心をしたのだった。

「谷さん・・自分で刺したわけないだろう?誰かにやられただろう?」警察の事情聴取だったがヒロシは黙秘した。ただ分からないが誰かに刺された・・という事実だけが調書として残った。本当のことを言っても、どうせ犯人はわからない・・そう考えた。この事件に関わっている時間が無駄だと。

深夜になりヒロシは病室のベッドに横たわりながら今日の出来事を模索していた。。

「いったい誰が・・目的は・・単なる通り魔・・いやいや声に聞き覚えがある・・」何度も考えていたが、自分を刺す犯人の動機も、理由や目的が分からなかった。犯人は黒のパーカーと黒色のキャップを深く被っていた。でも・・背は低かった。女性・・かもしれない。ヒロシはその状況を思い出したが、人の特定ができなかった。

「でも・・過去を変えようとした反動か?それに対する神の逆襲なのか?だとしてももう俺は止まらないし、止めたくはない・・」そう思うヒロシだった。

翌朝早くヒロシは目覚めた。傷口は少々痛むも歩くことができたので、母親が用意した服に着替え、診療所を後にした。

置き手紙に「先生ありがとう。傷口は塞がって痛みも取れましたので退院します。仕事先の病院に行くのでご心配なさらないように・・」「親父、お袋・・心配掛けてごめんね。このご恩は絶対に返すから、待っていてください。もう体は大丈夫だし、専売所の近くに病院もあるからそこに通院するよ。大丈夫だから・・」

ヒロシはそう置き手紙をベッドに置くと、血が付いてしまった鞄を抱え、両親が置いていったお金をもって診療所を勝手に出たのだった。

不思議だった。昨日刺された筈なのに傷口は既に塞がり、痛みも徐々に消えていた。

刺されたのはこの時代の自分だから・・生身だ。

でもこの状態はいったいどうしたことか?不死身ではあるまいし・・

それからヒロシは電車に乗り東京郊外の自分が下宿していた新聞店まで帰った。

駅に到着したヒロシは無性に感動した。

「変わっていない・・何もかも・・」そう!あの当時のままの駅と人々と坂道だ。

駅から徒歩で十分弱のところに新聞専売所があり、平成の時代に一度だけ懐かしさのあまり、ここにきて皆と会いたいと思ったことがあった。でもその時にはもう建屋自体が無くなっており、皆もどこに行ってしまったかも分からずじまいだった。

だから・・恋焦(こいこ)がれていた、この場所や人に。でも今まさしく、自分の目の前にある。

こよなくして専売所に着き、いつものチラシや新聞の紙の匂いがしてきた。

「ああ!これだったな・・この匂いが弱った俺を立て直してくれた。」ヒロシは自然に・・涙が込み上げてきた。自分の分岐点に戻れたことと、恋焦がれた場所にもう一度戻れたことに。そう思いながら作業場に入って行くと、当時いた湯浅のおっさん、西方さんに前島さん、バイトのおばちゃんや世話をしてくれた佐藤主任の奥さん・・皆懐かしい。そう考えしばしヒロシは棒立ちとなっていた。

(変わっていない・・当時のままだし、匂いまで当時のままだ・・)心に染みた。

「谷君!どうだった?大学の件」そう佐藤主任が話しかけてきた。

何もかも懐かしいこの声・・「はい!上手く行きました。これから猛勉強ですが、仕事も勉強も頑張りたいと思います!。」そうハキハキと受け答えしたら、皆は目を丸くして驚いた。「谷君!・・何かいいことあったんか?今日は妙に元気だね!良かったよかった」と皆が声を掛けてきた。

それもそのはず、第一の人生での彼は、心が沈み、全てに自信がなく暗い青年だったからで、みんなが心配するほど暗かった。だが二回目の今日は、六十歳の経験値が、勝手に口から良い言葉をチョイスし、色よい言葉を放った。

それからいつものように、新聞用のチラシを折りながら「あの当時はこの仕事が嫌だったかもしれないな。でも今日は全く嫌でも無く辛くない・・」と呟きながら指サックをして、手を素早く動かすのであった。・・

この日、思いもよらぬ別の人生が動き出した、まさに決定的な日となったのだ。

しかし皆はヒロシが刺されたことも、診療所で手当てを受けここに来たことも、誰も言わなかったし、話題にも上がらなかった。何故だ・・不可思議だった。それに真の父親や両親も何も連絡がなかった・・そんな筈ある?不可解だった。

次の日からヒロシは生まれ変わったように、新聞配達の仕事も勉強も前向きに(ぜろ)から向き合った。雨の日も台風の日も朝から新聞を配達し、たまに新規顧客開拓も。

勉強はできるだけ効率よく隙間時間を活用した。大学入試の対策本を購入して入念に研究も欠かさなかった。腹部の傷は何故か・・塞がっていた。

最初の人生では考えられない日々だった。

それまでは・・朝寝坊して西方さんに怒鳴られたり、配達が遅くて主任が心配したり。しかも夕飯では、湯浅さんが酔って主任の奥さんと馬鹿話を繰り返しており、当時はそんな自分の意に沿わない日々が嫌で仕方がなかったが、今では嘘のように時間にきっかり起き、自転車での配達もテキパキと、夜の馬鹿話にも参加して楽しくなった。

夏の暑い日・・近くの公園でビールを飲みながら、(もう少しだヒロシ・・俺を変えていける日。・・ここまできたのだから、これからは悔いなくやっていこう)何度も繰り返し自分に発破をかけた。二度目の十九の夏だった。

ただ・・自分を刺した犯人がどこかで見ているようで不安もあった。思い出すと傷口が少し痛んだ。

当時、初めての給料で初代ウォークマンを買って、良く長渕剛のカセットテープを聞いていた。二度目の人生では同じ行動はしなかった。高価なウォークマンや、無駄な雑貨など買わず貯金をし、大学生活への足しにと考えていた。

そう言えば当時、主任の娘さんが高校二年生だった。同じ食卓で夕食を食べていた。可愛らしかったが見ぬふりした覚えがある。無視されるのが怖かった。

でも今では、その娘とも仲良く話せていた。年齢も近かったし勉強する共通項もあったので、少しだけ勉強も教えた。でも・・その娘とはそれ以上は親密にしなかった。自分が好きになればここから去るのが心残りになるから・・決して近づき過ぎぬようにしていた。ただ遠ざけはしなかったから、少しの好意は互いにあったかもしれないが・・と思うヒロシだった。

それから三か月が経ち、いよいよ推薦入学試験日になった。胸躍る瞬間で、まるであの当時と同じだった。

本来は木村先生が推薦してくれた第一の人生で行くことになっていた大学は、無試験で推薦状だけで合格できた。しかし今回は初めて東京の大学受験をしたあの第一の人生での入試以来の真剣勝負だった。

緊張感を持ちながら試験会場に着き、小論文と小テスト・・小論文も小テストも過去問題を入念に勉強したこともあり、かなり自分自身での感触が良かった。

午後から面接だった。面接ではなぜ前の大学を辞めたか?の理由を聞かれたが、こちらは絶対に聞かれると思い、回答は織り込み済みだった。

最後までやりきり、悔いを残さず・・そう感じながら結果を待った。

“楽”を選んだ第一の人生では、結果がおもわしくなかった。暗く生き、少ないお金も欲しい物を考えもせず手にして満足し、煙草も酒もこの時に覚えた。

第一の人生での大きな間違えは、自分に起きた不幸をどこかに転換しようとして、「自分は悪くない・・周囲が悪い、世の中が悪い、運が悪いのだ」と決めつけていた。これが大きな勘違いだと、彼はこの二度目の十九歳で確りと感じ取っていた。

そして二週間が過ぎたある日。郵便物がヒロシに届いた。胸踊る瞬間だった。大学からの通知・・恐る恐る開くと・・「合格」の文字がはっきり見えた。

ヒロシは「やった!・・やっと変えられたぞ」そう心の底で叫んで涙線崩壊(ほうかい)だった。

画してヒロシは分岐点を右から左に変え第二の人生を歩き始めたのだった。

自我を無くして死んでしまった過去の自分には、決して意に沿わない第二の人生。

冬が過ぎ三月某日。専売所の人たちと食事会があった。ヒロシの送別会も兼ねていた。彼は楽しそうに談笑する人たちを見て、決して忘れぬ様に目に焼き付けた。平成のあの日。借金や浮気でボロボロになって挫折した自分が、勇気が欲しくて訪れたこの場所。消滅してはいたけど・・この二回目の送別会を新たな心持ちで自心に刻むことにした。第一の人生での送別会は実は二月に行われた。ヒロシは早く実家に戻りたかった。この仕事が恥ずかしかった事と、自分がどん底に居ることが、彼のプライドを傷つけ許せなかったからだ。今思えば滑稽だった。この二度目の人生では大事な記念であったり、誇りある記憶として刻んだのだから。きっと平成時代にここに来るのではなく、もっと前に挨拶にくるだろうと思った。いや、来ないかもしれない・・そうも思え、確りと心の内に締まった。二度目の十九歳で。無論だが・・みんなには将来消滅する話はしなかったし、自分が二度目の経験とも話しは決してせずその夜を楽しんだ。

しかし・・心の奥底で、あの刺された事件が彼の心で騒いだままだった。痛い・・。


大学に入学し同級生達とは一つ違いの兄さん的存在でスタートした。

新たな大学ではバイトが忙しかったが、勉強もかなり頑張った。講義は百パーセント受講した。

それは第一の人生でも同じだったが、心の豊かさは違っていた。友達が欲しかった過去?の学生時代は、無い見栄を張って見せて、相手の心を掴もうと必死だった思いがあった。

だけど今は違う。自分の経験値や普段の性格が前向きであることから、自然に周りから友が寄ってきた。

過去の失敗や言動の大切さ、すぐに心頭してしまう悪い癖、全て見つめ直した。共通な話題は、音楽と仕事バイトへの取り組み方や、人との関わり方だった。六十歳の脳は(仕事は、注意される前にやっておくこと。思い出したら忘れずやっておくこと)だと過去の先輩に教わってきた経験値がここで役立った。ベテラン的でなく若い時の記憶としてだが。

音楽はとにかく二十歳頃に流行っていた・・というか現在だが、ギターでの弾き方のポイント。スリーフィンガーの上達法や、プリングオン/オフ、カッティングなどの基本的な弾き方を教えた。またキーボードでの速弾きの仕方や、抑揚(よくよう)の出し方等・・威張(いば)らずに説明していたのが、それが功を奏し自然と同じ境遇の友ができた。

実家からの通学は辛かったが、毎日同じ列車で通い、決して居眠りはせず、電車内では大学の課題に積極的に取り組み、提出物は遅れず教授に出せていた。そのお陰もあって、ヒロシの一学年の成績はトップクラスで、特待生候補にもなった。ただ最終選考では駄目だったが親も喜び、ヒロシの将来に期待していた。

第一の人生で高校時代、勉学に(はげ)み学年トップ、全国でもある程度上位だった時に、親父が喜んだ顔をしていた事を思い出した。最初の人生では、その後はなかなか親を喜ばせることは無かった。だから第二の人生でのヒロシは、ダラダラせず・気を緩めず兎に角まっしぐらに進んだ。

天狗になった瞬間に堕落した過去・・。第一の人生では勉強を武器に、友達に勉強のコツやテスト範囲など教え、その対価を生活の足しにしていた。教える代わりに昼の弁当代や学食代に、夜は風呂まで借りていた。まさに勉学の天狗だった。悪いとは思わなかったが、そのぶん本当の友は居なかった。

それに比べ今は自活し、人を頼らない生き方を目指し、決して天狗とならず、前を向き続けたヒロシは、最初の人生から比較にならない程の大きな変化があった。女性との付き合いもある程度の距離を置き、決して自らの行動起こさぬよう欲望を抑えた。過去の経験から女は魔だと・・。男として女性が好きなのは、欲求があるので避けられない。だがのめり込んだ結果が、将来の自分の意に沿わぬ結果を生んだと。異性からの愛が欲しい自らの欲求に、負けそうになっても耐えた。

一生懸命に生きるようになって、何時頃からか刺された事件の事は、気に留めなくなり、忘れていったのであった。傷口も痛まなくなっていた。


 大学二年生になり彼にある転機が少しだけ訪れた。

友人からバンドの誘いがあり、最初は頑なに断っていた。ヒロシには活動する時間が限られていたが、昔から好きだった音楽を是が非でも実行したくなり、結果的には誘いを受けバンドを組むようになった。楽しみと苦しみを交互にすることで生きる為の(かて)としたかった。楽だけでは同じ結果だが・・苦だけも息苦しくなる。そう考え、自分の生き方に“楽”もプラスでつけた。

学生時代のバンド・・周囲はあまり良い印象を持たない。しかしヒロシは、そんな偏見の目で見る人々に、音楽はとても楽しいもので、人々の心を豊かにするもの・・そう伝えたかった。

バンドでのヒロシの歌は、決して上手くはなかったが、さほど下手でもなかった。高校時代から歌は誰かに任せていたが、今のバンド仲間はボーカルを誰もやりたがらず、楽器演奏好きの集まりだった。仕方がなくヒロシがやるしかなかった。「ハ~あ、これからは発声練習もか・・」と思いながらも、バンド活動に最終目的は無く、バンド仲間に誘われるままに定期演奏会で演奏や歌の披露をしていた。

家にあったギターと当時のキーボードを押し入れから出し、暇をみては練習するようになった。ヒロシはエレキギターとキーボードに少しだけ()けていたが、感を取り戻すには少々時間を要したのだった。

当時のバンドではオリジナル曲を披露することなく、有名バンドのコピーを演奏しており、良し悪しもなく自己満足の世界だったが、定期演奏会の少ない客席から笑顔と拍手を貰うと、心なしか音楽している実感があった。高校時代を思い出した。

バンド活動は久しぶりだったため、楽譜の書き方も一応は復習するようにしていた。これが後になって功を奏すことになるとは考えもしなかったが。

そんな大学二年生の春過ぎのある日、第二の人生を大きく左右する前振りがあった。

ここまでの二年半・・ヒロシの二回目の学生生活は、完全に百八十度変えられた証であり、自らが目指してきた、自分の生き方そのものであった。

だが・・ある事象がキッカケで、自分の人生が、過去の自分に戻ろうとする。それはどんなに気を付けていても、心の奥底にある堕落していた経験や、感じ取った人肌だったり、女性への欲求だったり、どうしてもブレーキがかからない事も存在する。運命を左右する人との出会いはやはり、必然なのだろうか。

それは突然やってきた。あろうことか一学年後輩の女性がこのバンドに加わりたいと懇願(こんがん)してきたのだった。

背が低く見た目は高校生のようで、さほど美人でもなかったし、音楽をしたい感や取分け目立ちたい感も皆無だった。だから何故バンドに加入したいという理由が、まったく理解できず分からなかった。

しかしヒロシは何故か彼女に密かに()かれた。その時は理由分からなかったが、この出会いが人生を左右する場合もあるので心内では気をつけた。

当時はギター、ベース、ドラム、サイドギターとパートごとの担当はきっちり決まっており、特に演奏での不便も感じてはいなかった。その()は熱心に、しかも猛烈に自己アピールをしてきたのだった。

ピアノが得意だとの事だったので、ヒロシが持参していたキーボードで演奏を聞いてみたが・・他のバンドメンバーが薄笑いをした。

「ねえ!・・それってクラッシック?それともクラッシック(ふう)?」バンド仲間のユウジが徐に聞いた。「ねえ君!どうやってこのバンドに参加するの?連打は?イコライザー弄りは?したことあるの?」と、ユウジは続けた。

彼女の演奏はどう考えてみても、ロックバンドでの演奏は今はまだ無理だと思われ、皆がそっぽを向き(帰りな・・状態)となった。

その娘は頬を赤くし、駄目か・・と諦めた雰囲気を醸し(かもし)出していた。でもその娘は(お願いだから・・)と言わんばかりヒロシをじっと見つめていた。その瞳に見つめられると何故か、心が吸い込まれるように感じた。

ヒロシはつい「練習すればいいと思うよ!頑張れば俺らの良いキーボード奏者になるかも?よ」「それに鍵盤はロックバンドに必須でしょ」と。

ヒロシだけが彼女の熱心さを認めた。彼女に何故か惹かれ、見つめられた事で(俺のバンドに入れなきゃ)と思ってしまった。

だがバンド仲間のユウジだけは最後まで抵抗した。

ヒロシは説得し続け、やっとの思いではあったが合意してくれた。彼女は晴れてヒロシ達のバンドメンバーに加わることになった。

ユウジは(鍵盤ならヒロシができるだろうし、お前の方がうまいだろ)と言い合いをしていた。というのもヒロシは高校時代に音楽部の先輩からいちからキーボードを習っていた。だから鍵盤ならその娘よりヒロシの方が上手だと思っていたのだった。それは明らかではあったが、しかしヒロシの心は・・(女性の友達も欲しい)そう感じていた。過去の出会いとは違い、決して心が深入りしない女友達のバンドメンバー。それがヒロシの考えだった。

その娘の名は風間朱音(あかね)といった。気まじめだが、一瞬鍵盤を叩く雰囲気が自分にどこか似ていた。

「先輩!ありがとうございます。頑張ります私!」彼女は嬉しそうに微笑んだ。

その後ヒロシはバイトや勉強に長い通学の暇をみては、朱音にロックのリズムの取り方や、キーボードでの音の強弱の出し方等を(いち)から教えた。またイコライザーのツマミの位置や、一般的な音色の調整も伝授した。ピアノを中学生まで習っていたということで、基礎はヒロシより確りとしていたが、ロック独特の変調もないダラっとした曲調での楽器の各々の役割や、キーボードの速弾きの重要性など彼女にとって課題だった。だが彼女も慣れないキーボード操作に、無我夢中・我武者羅に練習についていくのであった。

練習のたびにヒロシは「違う・・その流れの連打で弾くと、いずれワンテンポ遅れがでる。最初からもう一回!。」朱音は顔を赤らめ「はい!」と答え、また次のパートでは「ストップ!ストップ!・・そこのフレーズだけど、CじゃなくC#でしょ」と頭を掻きながら言うと、「はい・・」と朱音は涙目で歯を食いしばって頑張った。等々・・ヒロシは朱音に付きっきりで教えていた。ユウジ達は「はあ〜」と二人の様子をみては、絶望感に満ちた様子であった。

それでも朱音は弱音を吐かず、ヒロシが思うような演奏レベルに達するまで頑張って練習を重ねていた。

第一の人生でヒロシ自身も、高校に入ってからキーボードやベースがまともに弾けず、かなり厳しい練習をした。そのおかげでなんとなく、それなりに弾けるようになった。そんな過去の努力をした経験があり、鍵盤だって最初はなぁ・・と。

 だがそんなある日、彼女が「先輩・・私、やっぱりロックバンドは無理ですか?」そう尋ねられた。「どうしてもリズムを掴むのがうまくいかず、演奏が遅れ気味ですよね。ダメですよね・・」

彼女の話はある意味で間違ってはいなかった。バンド演奏でのリズム遅れは、ロックバンドとして命取りだった。特にキーボードの見せ場では。

「わたし・・ほんとセンスが無いかもです・・阿保だと思います。先輩に毎日レクチャーされてるに、同じ間違いばかりで・・」そう彼女は諦め顔で、バンドを去る勢いだったが、朱音は俯いた顔を突如あげ、「でも・・先輩。私、先輩と一緒に音楽セッションしたいです。これからも・・ずっと」そう言う彼女の目は、またしてもヒロシをじっと見つめ、彼を吸い込もうとしていた。

少し考えたがヒロシは、「あのね、俺も高校時代にバンド始めた時に、当時の先輩に(たず)ねたことがある。今の君みたいに。

演奏が旨くいかないとき、先輩にどこが駄目な部分かを聞いた覚えがあって、俺も音楽向いてないのかも。と同じこと言ったよ(笑)。でもね、その先輩は、(ヒロシは自分の音で(かな)でればいいんだよ。無理にリズムを合わせようとするから、音忘れやブレスが無かったりで見せ場がつまらない演奏になるのさ。一曲の中で考えれば、合わせどころが分かり、やっているうちにどこかで曲に合致する)そう教えてくれたよ。だから君も今は自分の音を奏でればいいんじゃないかな。リズムが合うか否かはそれからだよ。」そう(さと)したのだった。

彼女は少し微笑み「はい!」と気持ちよく返事をした。ヒロシは(良かった)と心から思い、「まだまだ頑張ってね」そう励ました。朱音も頷いた。

バンド活動もあったが、ヒロシは多くの時間を居酒屋でのバイトにあてていた。

食いぶちだけは稼がないと・・と日々躍起になり、家を朝七時に出かけ、夜の十二時に帰宅・・そんな日々が続いたが、それがかえってやり甲斐になっていた。

大学三年になりゼミを()るようになり、やっと隙間時間が少しづつ増えた。

第一の人生ではここで、あろうことか賭け事を覚え最初の堕落人生が覚醒してしまった。バイト仲間の同級生に偶然パチンコに誘われ、それ以来パチンコにすっかり嵌り、馬鹿みたいに通った。しかもそれだけでは済まず、社会人になっても同様な生活を繰り返し、ギャンブル依存性となり、あっという間にどん底に落ちたのだった。

この人生でヒロシは不真面目な学生というより、自分の進むべき道に削ぐわない学生とは全く付き合わず、彼の意のまま真っ直ぐな路線を貫いた。そのような誘いには決してのらず、「バイトあるから・・」等言い訳?というより笑って誤魔化しをしていた。甘い誘い・・それは一瞬は楽しいし、同じギャンブル友達だけど、共通な趣味みたいで愉快だった。だが・・代償があまりにも大き過ぎ、単なる快楽にすぎなかった。

そんなヒロシだったが無論、好きなバンド活動だけは積極的に続けた。朱音もすっかり演奏が上達し、演奏中に笑みも(こぼ)れるほど、余裕が出るまでに演奏が上達・成長した。

「最近さ、朱音のヤツ、妙に上達したよな?」あれだけ(けな)していたユウジが珍しく褒めていたが、彼女は「先輩たちのおかげです!」と謙虚にしていた。

この光景が求めていたバンドだと思うヒロシだった。

同じ趣味の仲間たちと笑い喜び、苦楽を共にする・・こんなことが前の人生では無かった・・それが悔しいとさえ思った。(こんな出会いがあの時にあったら・・・変わっていたかも)と。

定期演奏会も無事に終え、ヒロシたちにとっては最終ゴールがあっという間に近づいてきた。

大学三年が最後の学園祭での演奏となり、ヒロシ達は就職活動に入る。学園祭に向け五人となったバンドは、心通じあった仲間として、その最終ステージを前に猛練習をしていた。ある日ヒロシはみんなを集めて、最後の学園祭への意気込みを告げた。

「これが最後だから悔いなく終わろう」そうヒロシは話した。みんなの表情を見て話を続けて「それで・・みんな!これは俺のオリジナル曲・・」と言いながら、メンバーに一曲のオリジナル曲の楽譜を渡した。ヒロシがずっと温めてきた曲だった。生み出すまで一年かかった。「はい朱音ちゃんも・・」その楽曲はテンポが異様に取りづらく、コード変化が多いが何故か、演奏が合致したらバンドの終りにふさわしい・・そう思えた曲でみんな乗り気だった。

「・・うん!いいよ、ヒロシ・・この曲」皆が認めてくれたが、でもこれ演奏できるか?自信ないな・・不安がメンバーに見えた。コピーものならさぞかしだが、オリジナルはそうは簡単にはいかない。

ヒロシは「それならアレンジも俺がつけるからさ、みんな、なんとか練習してみようよ・・頼むよ」そう言うのだった。

朱音は「先輩?・・どんな曲調なのか、一回先輩が歌を入れて演奏して貰っていいですか?・・」急な無茶ぶりだったが、こんな曲だと分かってもらうためにヒロシはキーボードの前に立ち弾き始めた。彼が作ったのは、こんな曲だった。

(ヒロシ先輩・・キーボード上手(うま)!)朱音は心の中で言っていた。

   

Melody


行き交う 僕と君 未来が見えたら

すれ違い・・音で気づくだろう 

ざわめく君の声(音)で

ズレた過去のMelody

落ちた雫 二人を 包み込む水音

鳴らすノイズ リズムが教えた 

君の笑い声を ノイズのざわめきが

外すイヤホン 騒がしいと

落ちていく音と 拾い上げる音

カタカタ動き出す旋律 

手を振る君の声(音)が はるか遠くの星に響く

触れた指で押されたclavier

高い音色(ねいろ)に僕は優しく触れ

薄らぐ記憶を取り戻す 今ここに・・


「まあ・・こんな曲だけど」

「いい・・すごくいいです先輩!この曲!、歌詞もとっても素敵です。詩人みたいで・・」と何故か涙目の朱音がそう言った。

ただ・・ドラムのユウジが「でもさ、俺たちは何とかなるとして、彼女は?できる?この演奏?このリズムやテンポかなりハードル高いぜ。特にここの後半の鍵盤の連打・・お前が弾いたら?」

しかし朱音は楽譜をじっと見ながら、指を動かし演奏イメージを作っていた。

「はい!大丈夫です!」と張り切って言い放った。

みんなは心なし朱音には無理かも・・と考えていたので、ヒロシは密かに彼女の特訓と曲のイメージを刷り込んでいった。

「あのね、朱音ちゃん・・ここの(外すイヤホン・・)のところだけど、この(シ)を出した後に、♭を重ねてくれない・・。そうするとチャチャン・・てこうなる。」とヒロシは鍵盤を鳴らしてみた。

「ほんとだ。先輩やっぱり凄いですね!簡単そうにやっちゃうなんて驚きです!」

「いいや・・俺は凄いことないよ。自分の作った音楽には歌詞にも意味があって、ここでオリジナルでのうまみがある・・って作った本人だから言えるだけ。前にも言ったけど、君自身の音を奏でれば、この曲がきっともっといい楽曲になるからさ」

「じゃあ先輩・・ここのclavier・・のところ例えば、Dの次に半音下げて、こうジャン!と弾くとかでもいいの?」ヒロシは笑いながら「おお、自分で音作った、朱音ちゃん?」と話が盛り上がったが、そんな楽しい日々も終わろうとしていた。

学園祭当日・・あっと言う間に最後の曲になり、始めてオリジナル曲を披露することになったヒロシバンドだった。「いつの間にかこのバンド名だったか?」とヒロシは思ったが、五十人程度の人が聴いていたかどうか・・いつもと何も変わらない雰囲気だとヒロシは感じ、自分の下手な歌を聴いてくれる観客に感謝をしていた。

「みなさん、ありがとう!」ユウジが挨拶し、「最後の曲を聴いてください。(Melody・・・)」

その曲をヒロシのエレキが爪弾きはじめ、ドラムが共管しスネアを四分の一小節で加わり、高い位置からのベース音のソースが加わり、キーボードが優麗(ゆうれい)に鍵盤を重ねたのだった。

その繊細なロック調であり、ニューミュージック系楽曲はこれまで過ごした第二の人生のヒロシそのもので、神が自身にくれた最高なステージだった。

誰かを想い作った曲だったが、あえて歌詞の続きは書かない・・

ヒロシは歌いながらこの四年間を思い出していた。

零から新しい人生をやり直し、絶対に堕落を解消して、ダメな生き方から自分らしい生き方に変えていく。これがこの人生の出発点であり、これからが人生の本番だから何もかも躊躇せず、兎に角前を向いて歩き続けよう・・そう改めて決意した。

演奏後にヒロシは少し照れながら、客席にお辞儀をしてメンバーと共にステージ袖に帰っていった。客席から少ない人数でも結構な拍手があり、聞いてくれた観衆をみて、“買えるものではない宝”だと思うヒロシたちだった。

彼はメンバーたちに「自分で言うのもちょっと変だけど、この曲・・結構いい曲だった?・・かもね」

と少なからず自画自賛したのだった。一から楽譜の書き方等勉強した甲斐があった。

最後はメンバーと抱き合って最後の学園祭のステージを終わったのだった。

第一の人生ではとてもあり得ない・・この時間だだった。こんな最高な時間を、バンド仲間と過ごした青春・・。当時、自分で捨てた時間を自らが拾った気がした。

前世では、この頃はグタグタな生き方で、どこへも方向性を持たず、ただ貧乏で孤独な自分を揶揄(やゆ)していた。それこそ滑稽そのものだった。

ただ今の自分に欠けていたのは恋愛経験だったが、バイトでの仕事でも大学の仲間との将来の語らいも、そしてバンド仲間・・それが信じられないほど有意義で完璧な学生生活だった。恋をする暇もなかった。

そんな皆からのご加護もあり成績は落ちず、毎日が忙しく過ぎ、充実した残りの学生生活を送った。

 この様にしてヒロシは、人間性が壊れた過去を少しずつ真面(まとも)な人間性へと変換させるのであった。ヒロシはいつの間にか二回目の二十二歳になり、心の奥底では普通に恋愛もしたいし、偶には楽な生活もしたいと思っていたが、第一の人生でこれを発端として堕落した自分を経験していたので、第二の人生では決して「女」「快楽」を凶と思い、真っ直ぐな道を外さなかった。

 大学四年になったある日のことだったが、学園祭半年後にかなり衝撃なことをユウジから相談された。

「俺さ・・なんか朱音を好きなのかもしれない。最初はイジメにも似た対応していたけど、バンドで一緒にやっていたら、なんか・・そんなことになって。ご法度(はっと)なのは分かっている。バンド活動の(なか)じゃ。でも・・なんか彼女の顔が忘れられなくて・・ごめんよヒロシ!彼女の事気になっているだろう。」

ヒロシはユウジが朱音を好きなことを何となく気付いていた。演奏中も朱音をチラ見し、あまり見せない微笑みを(かも)し出しながら楽しんでいた。練習休みの日も、図書館で一緒に居る所や、演奏練習中も「ここC♯からD♯mだから・・」と教えていたり。朱音も嬉しそうに笑っていた。二人の距離が自然に近づいていることが分かっていた。

「うん!いいと思うよ・・彼女も彼氏いないみたいだし。それに俺なんかに、何も気を使う必要無いから。彼女に親切にしていたのは、バンド仲間ということだけだから。心配しないで!」

本当は最初から好きだ!朱音ちゃんが・・そう言いたい。だけど・・ヒロシはここで前のように自分を全面に出し、女性に貪欲にのめり込むと、過去の自分にあっという間に逆戻ってしまう・・そう思考回路が判断した。ヒロシは「ユウジ!二人のこと良く分かったから・・俺さ、陰ながら応援するよ!」そう告げた。

ただ、その後ユウジと朱音がどのようになったかは、分からなかったし、無理に分かろうともしなかった。結果を知りたくなかった。それだけ・・だった。

大学四年になり徐々に就職活動が忙しくなってきた。ユウジと朱音の関係も気にはなっていたが、(わざ)と気に留めないふりをしていた。

就職・・以前はこれで二度目の失敗をした。就職先の安易な決定でまたしても勝手に挫折し、バイトしていた居酒屋に舞い戻り食いつないだ。さゆりと結婚して僅かだった。彼女の両親や、義理の兄弟たちにも多くの迷惑をかけたが、そんな時にもヒロシは賭けごとにのめり込み、堕落し借金を増やしたのだった。

その結果、周りからの信頼関係は喪失した。さゆりの親戚も最初は親切にしてくれたが、ヒロシには何故か偽善に写り、益々人間関係を信じなくなっていった。

その引き金となったギャンブル依存症や、仕事への劣等感はその後も続き、やがて子供たちも離れて行った。だから今度は絶対に間違いのないように就職先を入念に調査した。だが・・ヒロシが選んだ就職先は、第一の人生で三十七年後に嘱託社員になったメーカーへの就職先だった。

なぜか?ヒロシはその会社に中途入社だったからで、しかもさゆりの親戚のコネ入社だった。その先は全く過去の栄光もなく、一度も花咲かずで、賭けごとや借金に浮気と散々な人生だった。その繰り返しをリセットできるのはこの会社にコネ無しで、自分の力で新規入社することしかない!そう考えたのだった。

 そんな折に・・突然、朱音が尋ねてきた。

「先輩・・お願いがあるんですけど・・」朱音は何か言いづらそうにモジモジしていたが、気持ちを整える様に言った。「先輩!卒業の記念に先輩のキーボード譲ってください・・・えっと・・なんなら?買い取ってもいいですけど・・ダメ?・・ですか?」

ヒロシは少し驚き「え・・あの古いキーボードが欲しいの?新品を買ったら?それにある意味・・俺の宝でもあるし・・譲るのは・・ちょっとなあ・・」そう少し答えを渋った。

朱音は丸い目をさらに大きく開け「やっぱり・・私、先輩にそう言われると思って、朱音は作戦を立ててきました!譲れないのなら、せめて私にキーボード貸してください。無料(タダ)で・・ダメですか?」

突拍子ない言葉にヒロシは唖然(あぜん)としたが「よく分からないけど、いいよ!君に譲るよ・・まあ大切にしてやって俺の兄弟を・・」

そう言ったが朱音は首を横に振り「それでは私の作戦の意味が無くなっちゃう。是非わたしに貸してください!二年間だけ・・そうしたら二年後に先輩の面前で返します!」そう言ってきた。

ヒロシは髪を少し()きながら「朱音の作戦って?なに?」そう切り返した。

「えっと・・何でもないです!私だけの作戦にしますので。では卒業式から借りますので」と言って急ぎ足で去って行った。ヒロシは「不思議な子・・」と思うのであった。(しまった・・ユウジの件、聞くのを忘れた。まあいいか・・)そう呟いた。

 話を戻すと、ヒロシにはその会社に入りたい理由が他にもあった。

当時の同僚たちとスタートラインを共にしたいことも確かにあり、中途入社がやはり何処かで馬鹿にされている様で、スタートラインが同じなら上手くいく。そう思って会社を選択した。


大学でも成績は良く、内申書的にも高かったので就職試験にも無事に受かり、理想的社会人としてのスタートとなった。同僚には“あいつ”も、“こいつ”も居た。想定通りのストーリーだが嬉しく思った。

入社して半年間の研修中に感じた。「みんなレベル高!」ヒロシは大きな器で仕事したことが無かったので、全国の学生から選抜された同僚たちに少し引け目を感じた。多少の挫折感はあったものの、研修中も学生時代同様に猛勉強。研修が終わるといよいよ配属先の決定だった。

しかしここでヒロシに少々の誤算が生じた。ヒロシの配属先はあの静岡のあの地だったからだ。「ここまで避けてきたのに何故だろう・・」そう思った。神は俺を試すのか?そうとも考えたが、必ず通る道ならこれも試練と思い(おもむ)いた。

配属先近隣の借上げアパートまでは兄が車で荷物と共に送ってくれた。

「あの忌々しい(いまいましい)土地だ。忌々しくは無い。ただ自分が選択し、勝手に堕落したそんな場所だ。でも分岐点の選択違いが始まった土地というのは間違いではない」

そう心が騒いだが、今の自分には妙に自信もあった。やり直すことが叶う人生なら、必ず道が開ける・・そう信じているからこそ、ここでも変わらず頑張れる筈だと。

赴任先の支店の人員は少なかったので、初日から日々、忙しく仕事をするうちに、ヒロシは忌々しい過去の記憶が少しづつだが薄らいだ。

ただ、あの場所には行かず近寄らなかった。・・第一の人生でさゆりに初めて出会った場所で、避暑地だがそこだけは記憶が薄らいでも避けていた。たが単に避けていたのではなく、避暑地に行く機会がなかっただけで不思議であり、同僚に誘われてもなぜか?毎度仕事に見舞われた。

赴任後一年半が経過してヒロシは支店に通える、神奈川県のちょっと遠めの古いマンションに引っ越しをする。借上げ社宅のアパート生活だったので、寝ている間だけでも自分の時間を過ごしたかった。神奈川のだいぶ西に位置した土地で、それでも少し通勤に時間を要したが。休みには好きなギターを自由に弾けるのが嬉しかった。借上げ社宅といえアパート住まいだったので、壁も薄く隣のテレビの音が聞こえるほど・・ギターを弾くなどもってのほかだ。

実家の両親には半年に一回の割合で誕生日と称して、プレゼントを贈り、長年のお礼や罪滅ぼしのつもりでもあった。自分にできることを・・それぐらいだったが、畑で働く両親を思い出しては、贈り物を考えた。


そんなある夏の暑い日、支店に一本の電話があった。電話してきたのはあのバンド後輩の彼女だった。大学時代にバンドで苦楽をともにした朱音である。

大学卒業の日に「先輩!またバンドやりたいです。きっと実現しましょう!」と言っていた彼女。その後、ユウジとどうなったかも聞けず卒業し、すっかり彼女の存在を忘れかけていた。キーボードの話も気になったが・・。

電話の話を()い摘むと、彼女もヒロシと同じ会社になぜか入社したらしく、現在研修中でもう少しで研修が終わるとの事だった。「同じ会社か・・」と思いながら、あまりの懐かしさと当時の音楽の話がしたくなり彼女からの誘いで横浜で会う約束をした。

前述通り彼女はさほど美人でもなく(でも目が大きく可愛らしかった)、背は低く細身の方で兎に(とにかく)まじめで、バカが付くほど正直、だが少しいい意味ではあるが鈍臭さい部分もあった。ヒロシはスレンダーで胸が大きく、顔が小さい・・美人な恵美の様な女性が好みだったが、・・彼女の眼差しが・・大きな瞳が素敵で、彼女に本気に見つめられると、スーッとなぜか吸いこまれるような感覚になった。

そんなこと思い出しながら、彼女との電話での会話は懐かしかった。

朱音からの電話がまるで懐かしい音のように心に響いた。でも・・当時は例のユウジからの話を聞いていて、彼女の事は気がかりだったが、ヒロシは計算通りに身を引き、少し悔しかったし惜しかった。

だが女は・・凶である。そう。しかし、その後、彼女とユウジはどうなったかはこの時点でも知るはずもなく、電話口でも聞くことはしなかった。

週末の金曜日に横浜の居酒屋で会うことにしたが、考えたら女性と食事するには少し賑やかかな?とヒロシにはそう思えた。女性経験が少ないヒロシは、気朔(きさく)に話せるかな?と、都合よくそう思い、少し賑やかな居酒屋をチョイスしたのだった。

ヒロシは夕方仕事が押し、待合せの夕方六時に少し遅れてしまった。五分程度だったが・・

店に到着したら彼女は先に到着しており、笑顔で手を振りヒロシを座るように手招きした。しかしヒロシは少しがっかりしてしまった。原因は・・隣の席にユウジが座っていたからだ。(えっ!そうか・・そう言う事か)と。でも・・何故か朱音を一目見て、何故だろう・・若干だがまた煌きめいてしまった。

学生時代にはそのように思ったことがなかった。というより余り気にしないようにしていたかもしれない。彼女のその少しだけ大人びた容姿と笑みに。

服装なのか?少しだけした化粧なのか?はたまた澄んだ瞳なのか?それとも・・そんな彼女に自分が煌めく・・とは。

「・・いや久し振りユウジに朱音ちゃん」そうヒロシは切り出した。「先輩!私の朱音ちゃんって呼んでくれて嬉しい!何だか感動!です!先輩ビールでいいですか?」そう朱音は微笑んだ。やっぱり彼女は笑顔が似合う・・そう思った所に、ユウジは「ヒロシ!一流企業はどう?やっぱり美人ばっかり」相も変わらず、すべてに於いてズケズケしていた。

「朱音ちゃんも同じ会社で・・さては・・」とユウジが少し勘ぐってきた。「まあ・・ヒロシはボインな子が好きだからな・・違うか?ハハッ」と続けると、朱音はユウジを睨んでだ。

ヒロシは「ボインな子が好きと言うわけでもないよ。まったく・・でも何故ユウジが一緒なの?・・そうか?俺と二人だと気不味(まず)いよね」そう一応は言ったのだった。彼女は笑いながら「違うんですよ。ユウジ先輩と偶々(たまたま)さっき駅で会って・・これからヒロシ先輩と飲み会!と言ったら勝手についてきたんです。」「そう!・・俺は彼女の付添人で~す」とユウジも頬に手をあて馬鹿した様に笑って続けた。

ヒロシは(そうか・・やっぱり二人は付き合っているんだ)そう感じたてしまった。その彼女の笑い声がなぜか懐かしい音のように心を騒がしたが、残念無念か。第二の人生で初めての敗北の心持ちだった。

だがヒロシはその雰囲気を全く表に出さず、「朱音ちゃん、研修、大変でしょう!もう少しだから頑張りな!」そうヒロシは自分も経験した一連の研修中の話をし、それから一時間ほど昔のバンドでの話や同僚の事など話しながら飲んだと思われた。(まあ・・楽しいからいいやとヒロシは思っていた)その時・・

「そう言えばヒロシよ!」とユウジが(にわ)かに悔しそうに言った「俺さ・・大学時代にこいつに振られて・・というか告白したら秒で断られた。もう二年も前だけどね・・」ユウジは嘘泣き風に急に言った。

ヒロシは「あゝそう・・駄目だったんだ。残念だね・・でもユウジ!女性は星の数ほどいるから大丈夫さ」ヒロシは少し笑みを浮かべ言ったのであった。

「星・・?数?違う、違うよ・・あのね俺、先月結婚したんだよ。会社の女の子と。」ユウジはそう続け

「実はなんかさ・・子供できちゃって・・俺も男だし、彼女もいい子だから、そう言うことになった。籍も入れたし・・」ヒロシと朱音は「えっ~!!」とかなり大声で叫んだ。二人は驚きを隠せなかったが、周りの客からかなり睨まれ、周囲に平謝りした。

その後ユウジは今の奥さんの事や、学生時代の朱音からの無茶ぶりをマジマジ話した。

「ここ居る朱音は俺を簡単に振ったくせに(笑)、合宿の時(ユウジ先輩・・)って甘い声で、両手を絡めて声をかけてきてよ!お前が作った曲の楽譜に音の強弱ポイントを書いてって言うんだよ。そこから一緒に楽譜に強弱の印を付けて練習したんだ。まったく面倒だったよ。勘違いしたし・・」そうなのか・・ヒロシはまったく知らなかった。

朱音のキーボードが上達したのは、自分が教えただけではなかったと。おそらくこの時に、ユウジが彼女を意識したんだな・・そうも考えた。

ユウジは「俺さ、遅く帰れないから先に出るよ。彼女のお腹大きいし・・はい三千円」そう言って、お金をヒロシに渡し席を立った。

帰り際にユウジは「ヒロシ・・あの曲だけど・・本当は誰の為に作った歌だった・・」とニヤっと笑い、なごり惜しそうに何度も二人に手を振り帰って行った。

当時、誰にも教えない・・豪語していたヒロシ。ユウジは何故か知っている様な素振りだった。

ユウジが帰った後、二人になり話が途切れた。女性と二人きりでこの様な場面はこの人生では初だった。彼はビールを開けながら少し無言が続きまずいと感じ、

話を繋ごうと「そう言えば、朱音ちゃん。二年生の時の合宿の時のこと、どう?覚えている?さっきの続きで申し訳ないけど・・・」

「う〜んもちろんです。きつかったな・・あの合宿。先輩達、容赦(ようしゃ)無かったですよね。一日十五時間以上鍵盤触っていましたよ。わたしオニギリ食べながら・・必死でした」

そう笑いながら朱音は、当時の事を懐かしそうに笑って話した。

「あの時さ・・あまりの眠さで、朱音ちゃん、食卓か何かのテーブルの椅子でコクコク・・していたよね。というか居眠り?・・」ヒロシは懐かしそうに当時の話をした。「なんかあ・・意地悪ですよね、先輩!あの時、最後の最後まで、自分の音がどうも気に食わないと、私が付き合わせられたこと忘れました?」朱音は頬を膨らませて言った。

ヒロシは慌てて「そうだった。そうだよね・・ごめん。・・でもね、その時の朱音ちゃん見ていたら、何故か幸せそうに見えて、みんなでバンドやっていて良かった・・そう感じた。正直そう感じたんだ。」

朱音は少し上を見ながら「・・そう言えば、先輩の例のオリジナル曲はいつ書いたんですか? さっきユウジ先輩も合宿中だと言っていましたけど・・」

「それは・・ピミル・・内緒です。」とヒロシは話を()らし口も噤ん(つぐん)み、焼酎を一気飲みした。

「そろそろお開きとする?もう二時間以上だし。」ヒロシは少し名残惜しそうに言った。「そうでね・・」と朱音も残念そうに頷いて応えた。

「先輩、駅まで一緒に歩きましょうよ。もう少し話したいから・・」

そう言われ二人は店を出て歩き始めた。

「そう言えば先輩の家ってここから遠いんですよね。電車まだあります?」「まあそうだけど、終電まではまだ時間あるよ。うん大丈夫かな。」

朱音は「だったら私の家にきます?もう少しだけ飲みましょう!明日は休みだし・・」どうしてそのような展開になるか?ヒロシは「そういうのは、彼氏ができたら言いな。」と宥め(なだめ)たつもりだった。

「う〜ん?まあ・・先輩は・・まだ私の彼氏じゃないけど・・いずれは・・」と言いかけた朱音の話を断ち切り「そういうのはよそう!・・君は俺の事が良く分かっていない。どんな(みにく)い人間で駄目な男なのかが・・君と釣り合う人間じゃない」とヒロシは心を動揺させ駅に急ぎ歩き始めた。

だが彼は頭がふらふらになり、道端に座り込んでしまった。どうしたんだ・・俺は?そして尻もちをついてしまった。最悪だ・・「先輩!大丈夫ですか・・!」朱音はヒロシに寄り添うと腕を抱きかかえた。ヒロシは大丈夫・・ 大丈夫と朱音を制した。

ヒロシは久しぶりに気分が良く、適量を超すアルコール摂取で、ふらついたのだった。「うん・・大丈夫・・」ヒロシは立ち上がろうとしたが、気が遠くなってしまった。悪酔い?それとも悪魔の囁き・・そして気を失ったヒロシだった。第二の人生で最大の失態だった。遠い夢の中で朱音が一生懸命に声を掛けてくれていた。


ヒロシは数時間後に自然と目が覚めた。

「ここはどこだ?俺は確か・・酔って・・彼女と・・居酒屋から出て・・」彼は少し記憶が飛んでいた。

寝ている部屋らしき周りをぐるりと見まわした。部屋は、狭いが清潔感のある部屋だ。

誰かの部屋だ。・・どうみても女の子ぽい?部屋・・そう感じた。ヒロシはもしや?と思い。起き上がったが・・(嗚呼!頭いた)と二日酔いだった。それでも立ち上がると、隣のベッドに誰か人が寝ているのを感じた。

その時「先輩~い。起きたんですか?大変だったんですよ、ここまで連れてくるの。私のマンションがすぐ近くて良かったです。あ〜ふー」

何とヒロシは朱音の部屋に泊ってしまったのである。やってしまった・・とヒロシは反省した。いくら酔った勢いとはいえ女性の部屋にくるとは・・。

ヒロシにとっては生まれて初めてだった。朱音は「先輩、ゆっくりしてください。そこに二日酔いの薬置いておきましたから。」そう彼女は話すと、起き上がり着替えに隣の部屋に向かった。

ヒロシは水を片手に、薬を飲み鏡で自分の顔を睨み「馬鹿か!お前は」と独り言を呟いた。「頭痛っ!」

コップを置いた先の部屋の片隅にふと目がいき、タオルがかかったローランドのキーボードが偶然にも目に入ってきた。「おー懐かしいなあ。当時、彼女が使っていたものかな?」懐かしさのあまりヒロシはアンプにコードを繋げ、アンプのボリュームを下げ電源を入れた。「おっ!音出るね。コードC♯ってこれだったよね。う~ん、なんか渋くていい音だ」

ヒロシは各イコライザを弄って(いじって)、いろんな音を試し出していた。そんな時に朱音が着替えから戻ってきて、大きな目を更に丸くしていた。彼女は顔を洗いながらこちらを見ていた。睨んでる?・・

ヒロシは「あのさ、朱音ちゃん。これって当時の朱音ちゃんのキーボードだよね!」とヒロシは部屋の隅に置かれた鍵盤を弾きながら言った。

「先輩!私のキーボード弾いていたんですか?」ヒロシは「ああ・・ごめん・・勝手に触っちゃった」朱音は笑いながら「その格好で・・ですか?」

ヒロシは自分の姿を感じた。(いつの間にジャージ姿・・?)恥ずかしさのあまり久しぶりに赤くなった。「でも・・自分じゃ着替えたという覚えはないけど・・」そう言うと「・・悪いと思いましたけど、私やりました・・」ヒロシは更に赤くなって、「そう・・そうなんだ。でも・・ありがとう。」「先輩、そうですよ。あの時の私が使っていたキーボードです。先輩が安いけど、この機種は好きな音が出るんだって、勧めてくれたものです。というか・元々先輩の鍵盤ですよね。まさに先輩からの貸し出し中のものです」と朱音が言った。

ヒロシが高校時代に、先輩のキーボードの神!神山さんに譲り受けたものだった。

朱音は「酔っているかと思ったら、目ざといですね先輩。タオル掛けておいていたのに発見するなんて。ああ!目ざとい!」

彼女はラフな格好に着替えていた。朱音のジャージ姿は何年振りだろう・・ヒロシは照れながら思った。・・そうか二年生の学園祭の練習で合宿した時以来だ。その容姿が懐かしいと思いだしていた。朱音は「わたし・・鍵盤・・今でも当時の事思って弾いたりしているんです。あの時が一番、楽しかったから・・」

ヒロシはバンド活動で上手く弾けなかった引け目が、彼女にはあったかもしれないと思っていたので、良かったな・・そう感じた。

「なんか懐かしいよ。今でも俺たちのバンドのこと思っていてくれて、ありがとう」ヒロシは正直に伝えた。そう言いながら朱音に「ああ!・・あっち向いてて」と言うとヒロシは自分の服に着替え顔を洗った。「先輩!そこのタオル使って下さい・・」「うん・・ありがとう。」ヒロシは自分の顔を見て「何で・・だろう・・」そう呟き部屋に戻った。

朱音は「先輩・・この曲を覚えています?」と彼女はヒロシが作った曲を久しぶりに弾いてみせた。「うん!覚えているよ。Melody・・当然・・。」

朱音は「実は・・この曲聞くと、ど〜うしても、先輩が私の事好きなのかなあ?って、勝手に思っちゃって。忘れたくても忘れられない曲です。」朱音はそう言って少し赤くなった。何事も彼女はストレートな性格だった。そんなこと言われるのは初恋?・・以来・・ヒロシはタジタジとなったが、「そう・・良かった嫌いじゃなくて」そう言うのであった。

その後、一緒に鍵盤で演奏し、小さな声で歌ったりした。久しぶりに楽しかった。ヒロシにとっては何とも楽しい時間だったが「そろそろ帰るね・・」と、

ヒロシは鍵盤を弾きながら朱音に言った。(今日は土曜日で良かった、出勤日だったら・・恐ろしい・・)そう思うヒロシだった。

朱音は隣で暫くヒロシを見つめながら・・小声で「先輩・・先輩は私なんかよりずっと鍵盤が上手いし(うえ)だった。でも下手な私をバンドに入れてくれた。どうして?」(朱音のその瞳に飲まれた。ヒロシは化粧しない方がかわいい・・そう思った)

朱音は自分が足手まといになっていた時を回顧(かいこ)していた。ヒロシは「だって俺が鳴らすより君に鳴らして欲しかった・・それだけ」

「俺にはギターと鍵盤の両使いは無理だったからね」と話を続けた。

それを聞きながら隣の朱音はヒロシの瞳にぴたっとピントを合わせ、腕を取ると・・・

「先輩、私・・以前からずっと・・先輩の事・・」朱音の潤んだ瞳が恋しく思えた。しかしすぐさまヒロシは話しを断ち切るように小声で伝えた。

「朱音ちゃん。ごめんね・・俺は人を幸せにする資格なんて無いんだ。俺はただ一生懸命に今を生きるしかないんだ。それが神様との約束なんだ。本当・・ごめんね・・」そう告げた。「先輩は!私が美人じゃないから嫌ですか?それとも、こんなスポーツウェア姿の私より、着飾った都会の人が好みですか?だから・・」そう朱音は聞いた。

「違う・・俺は君の音が好きだ。でもね・・それだけ。女性としては好きじゃないかもしれない!俺は元々がこういう人間だ!」ヒロシはそういうと朱音を床に倒し、上着を上げ朱音の乳房を掴んだ。「やめて!先輩!」朱音は抵抗し、ヒロシに平手打ちをした。朱音は涙を流し「こんな先輩は嫌いです」と言った。ヒロシは「そうだろう・・俺はこんな人間なんだ!だから・・醜いんだ。俺の存在そのものが・・分かった?君は俺を好きになってはいけない・・決して。俺自体が欲情に飢えた淫行な男だ。元々・・そういう男だよ。じゃあ・・」そいいい朱音の腕を解きドアの外に出て行った。

自分でもどうしようもなく(むな)しく、本当は・・彼女の心を受け入れるべきだったとも思ったが、でも過去のトラウマが蘇り、彼女を同じ目に合わせるのではないか・・それが先走り怖く不安が(よぎ)った。

もう!不遇や不幸を誰にも与えたくない。このように愛らしい気持ちを受入れ、優しさを感じたことから、第一の人生では悪夢は始まった。まだ・・受け入れるべきではない・・そう直感した。

朱音はただ、ただ、涙が出た。それを知りながらヒロシは帰って行った。

第二の人生では自らが責任がとれ、確実にお互いを思いやれる女性との出会いと、パートナーでなければ・・そう考えていた。しかしながら部屋を出たヒロシは朱音の涙がどうしても忘れられなかった。(ごめん・・朱音ちゃん。本当は)そう呟いた。

彼は悔いながら家路に急ぎ、心の整理をしていた。今日の出来事は不幸への弾き金かもしれない。恐らくそうだと思われる・・・

自分はそれで良かったのではないか?彼女が本当は責任を持てる貴人(きひと)ではなかったのではないか?いやいや違う。一時的な心の迷いだ。自分の判断や、心の迷いが引き金だ。そう考え直すのであった。

翌日、ヒロシは迷いに迷い・・あの場所に行く決意をし、会社の同僚と避暑地と呼ばれるその場所に向かった。それはヒロシの昨夜考えた迷いが、第一の人生の流れと同じなのか?それとも違っているか?を。自分の心が騒いでいる理由(わけ)、感情が蠢い(うごめい)ている理由を確かめたかった。

そこは秋の風が心地よく、行楽シーズンでその場所は混雑していた。同僚の女性先輩は、「谷君!何度かここ来たことあるの?何だか妙に詳しいからびっくり!」少し落ち着いた表情で、(詳しいですよ・・過去に何度もきましたから・・)

ヒロシは「ええ!ずっと昔に来ました。ずっとずっと遥か昔に・・」

その女性同僚はクスッと笑い「二十代なのに昔って・・子供の頃?」・・答えはしなかった。説明がつかないし、話す理由も無かった。

ふと・・聞こえる周囲の木々の(こす)れる音も、牧草を刈り取った匂いや、少し雪が残る山並みも、確かに過去のそれと同じだった。

ヒロシは少し目を瞑り(つむり)、その時の事を感じ思い出していた。学生時代に共に誘れて来たこの土地・・なぜ俺はさゆりと付き合い、最終的に結婚したのか?を。

当時の記憶が(うごめ)いているのを感じ取った。

そして逆に昨日の事も・・。

(違う・・あの時の気持ちや感情とは・・全く違う。女に飢え、ナルシストな日々の過去と、今を生きている朱音への想いとは違う・・)そう感じとった。昨日の俺と過去の俺・・想いが違う・・確かに。

やはりこの場所が鍵だった。ここに来ることは予定されていた。迷いを生じた場合の為に。

ただこの場面は神が準備していたんだ。自分に分からせようと。愛とは何か?一緒に生きる事について。

そう思うと(失敗したな・・昨日・・)そう思うのであった。強引過ぎた。ごめん・・朱音ちゃん。

同僚たちは不思議そうに見ていたが、「ご飯食べて帰ろう!道が混んじゃうから」ヒロシも笑みを浮かべ頷いた。

ヒロシの心の迷いは消えたが、乱暴なことをしてしまった彼女に連絡ができなかった。謝り、自分の落ち度を反省すべきだったが、仕方ないと諦めるしかなかった。これも・・この次元での選択だった。


それから朱音からの連絡はやはり無かった。

仕方がないとも思ったが少し・・いや・・かなり残念だった。既に二十五歳を過ぎたヒロシには彼女一人すら居なかった。でも気がつかぬまま女性をいつも遠ざけていたのは確かだった。

会社の同僚や先輩にも魅力的な女性は居たが、憧れ・・それだけで心にブレーキをかけていた。これはヒロシの過去にある不遇が大きく関係していた。

高校生の時に非常に好きな人がいたのだった。やっとの思いで彼女と付き合い嬉しかった。しかしながら最終的に裏切られ「ヒロシ君はタイプじゃない」そう言われ振られた。そこから自分には自信を持てなかった。察しの通り、この第二の人生で最初に駅前で見かけた彼女だ。その後大学時代に今の女房に出会い、「好きか?とか、愛はあるか?・・」と執拗(しつよう)に確かめ、答えを得られぬまま流され結婚した。だから当時から、俺を本当に好きだと言ってくれる人は存在しないと思っていた。どうせ俺は・・魅力が無い男!そんな心持が続いた。第一の人生では結局は勉学に逃れ、孤独感もあり、いつかこいつらを見返す!そう彼女も!そのことだけで生きてきた。でも・・運命に流された・・必然だというばかりに。そして堕落していった。愛だの、恋など嘘ばっかりだと・・心に刷り込んでいった。浮気の際にも胡乱(うろん)の愛に振り回されたし。

もうこりごりだった。女性は信用できないと。どこまでもナルシストだった。


あの事件というか?出来事からあっと言う間に・・半年後。

本社で新製品の発表会があり、ヒロシは本社に呼ばれた。上司は「君の声は通るから是非、今回のプレゼンをお願いしたい」そう言われたのだった。

普段は無口だが、仕事では喋りも上手く、上司からの信頼も厚かった。仕方がなくプレゼンをする羽目になった。販売会社や代理店など多くのお客様が来ており少々緊張はしたが、会場の隅に目をやった瞬間!少しだけ心を留めた。

あの朱音の姿が少しだけ・・見え隠れしていたかだ。

ヒロシは、「そうか・・本社勤務か・・良かったね」そう思った。

説明に二十分ほど喋り、休憩時間・・緊張のあまり汗が止まらなかった。そこに急にスタッフが寄ってきた。まさに朱音がきたのであった。

「先輩!・・お久しぶりです。プレゼン完璧です!」小さなガッツポーズ姿でそう言うとペットボトルを差し出した。あの日を感じさないくらいに明るかった。

「うん・・まあまあかな」「お水ありがとう」そう照れながら答えた。その明るい朱音の笑顔に疲れが飛んだ。と言うより、またあの懐かしい音を感じた。彼女はどんな気持ちで、俺に声掛けてきたんだろう・・そう考えた。あの日の朱音の涙が蘇ってきて、申し訳なさや、自分勝手に心を痛め(うつむ)いた。

「私、販促チームの配属なんです。先輩社員の方が先輩に水を持って行くように言われて。・・なんか?ややこしいですね。」・・

ヒロシは何だ・・期待して損をしたと上を向き、心は少し残念がった。

その後、商品のコンセプトや解説等して二時間程度の発表会は無事終了した。

各営業マンはお得意先の接待等で忙しく動きざわざわしていたが、ヒロシは自分の仕事は終わったので上司に挨拶して直帰しようとしていた。

そのタイミングで上司から本社の販促スタッフの紹介を受け、飲み会と称した懇親会の誘いを受けた。(面倒くさいな・・)そう心で思ったが、断り切れず飲み会に参加したヒロシだった。心では「早く帰りたい・・」そう正直思っていたが、とても言いだせなかった。いつもの()かしがこの場で利かなかった。

しばらくは同年入社の同僚と話が盛り上がった。ヒロシも笑みがでた。

しかし会が経過したところで、販促課長から新入社員の紹介と言うことで後片付け後の数人が合流してきた。その中にまさしく彼女がいた・・。

そういう流れ・・頭を抱えそうで顔が引き()ったのだ。(ここで朱音ちゃん・・登場かよ)まあ仕方がないかと、逃げたい感情を抑えたのだった。

上司との会話中でも、ヒロシの目はどうしても彼女をチラチラ見てしまっていた。

朱音は少し黙って少量のビールを口に含み周囲の同僚と会話をしていた。

なんだか少し俺にはよそよそしく・・何故かそう感じたが、偶にでる笑顔にヒロシはなんだか安心した。(会社でも明るく仕事しているんだな・・そう思った)

終盤に差し掛かった時に我が上司は言わなくてもいい事をしゃべりだした。

「えーと!と、そう言えば、谷君と風間さんは同じ大学なんだってね」と。

朱音は少しハッと思った様子だったが、「あ、はい。実はそうなんです・・私が一学年後輩です」そう答えるとビールをぐっと飲み干した。

その上司は「かわいい後輩がいて谷君はラッキーだね。仲よくしてやって!」

またしても余計なことを。それを聞いて朱音はまたしても頬を赤くしながら、隣に置かれたコップの焼酎をぐっと一気に飲み干す。(どうした?・・)ヒロシは心で叫んだ。(もう辞めな・・酔っ払いは嫌いだ!・・と言うか、課長お開きにしてください!)

そう思った瞬間!

朱音は「でも・・ですね!・・課長!知っています。先輩は私なんか目に入らないんです。簡単にそっぽ向きます。昔から・・女性が苦手とか・・女性を不幸にする・・とか、神様がどうのこうのと言って・・私を全然・・相手にもしてくれないんですが、私のオッパイは揉むんです・・全く!私に冷淡なんです。どう思います!?こういう人!」

上司は「・・えっ?」

朱音の発言に皆が口を開けっぱなしなのは当然だった。

「・・もしかして・・君たち・・以前何かトラブルあったとか?・・」上司は思わず口にした。「あの!・・朱音ちゃん・・みんなが誤解するからやめよう!胸が・・どうのこうのって勘違いするでしょ」

ヒロシは焦って訂正をするため口を開いた。「違うんです。彼女とは大学時代に同じロックバンド仲間だったです。それだけです。深い意味はありません。」「そう・・なの?でも・・揉むとか・・。」と上司は怪訝そうにヒロシを見たのだった。

「でも、彼女は可愛いでしょ?だから好きな人がいて、僕なんか対象外だったんですよ。だから俺が個人的に仲良くはしておらず・・」とヒロシは話を続け、

焦って言い訳したが、皆はやはり怪訝そうにしていた。朱音は少し赤くなり「そうです!好きな人いますよ。それはっ・・あ」ヒロシは更に焦って、朱音の口を手で塞いだ。「あはは」ヒロシは誤魔化した。

(どうみても・・好きな人がいたというのは、谷君の事だよね・・)

そんなドタバタを最後に懇親会はお開きになり、ヒロシは上司命令で酔った朱音を送り届けることになってしまった。

同僚たちは「あっ!お持ち帰り~!頑張って!」ヒロシは「やめてください。そんなんじゃないから。」そう照れながらその場を離れた。

ヒロシは前回の反省もあり飲むのを抑えていたが、朱音はかなり飲んでいる様子だったので、タクシーに乗せ自宅の前まで送り届けることにした。

「まったく・・いつに間にこんなに酔うまで飲んでいたんだ・・(寝顔が可愛い・・けど)」

タクシーを降り、少しベンチに座らせたが、おもむろに朱音は喋り始めた。

「先輩!三ヵ月前に私は最後まで、先輩に告白できませんでした!胸まで揉まれたのに!酷い!」あゝ、やっぱりその話題か・・しかも酔っているし、そうヒロシは焦った。とにかく部屋の前まで送ろう・・そう思い彼女を抱きかかえ歩きだしたが、朱音は突然、ヒロシの腕をパシッとはじき、

「先輩!・・いいえ!ヒロシ!・・」と何だか朱音が(くだ)を巻いてきた。

「分かったから少し落ち着こう・・」と諭しながら、彼女を再度抱きかかえマンションの入り口まで辿り着いた。申し訳ないが気持ちがあって、まともに彼女の顔を見れなかったヒロシだった。「ふう・・やっと着いた」ヒロシはエレベータのボタンを押そうと、そっと彼女の顔を覗きこむと、目を閉じ朱音は黙っていた。

可愛いらしく感じて、その顔がとても愛おしかったが、しかし突然!朱音は目を開け思い出した様に喋り出した。

「先輩!先輩は・・私が嫌いですか?どうなんですか?それで私のオッパイ小さかったですか?・・あゝやっぱり・・私は先輩の音に憧れ同じ会社にも就職しました。私が先輩と同じ音鳴らすのは絶対にイヤですか?ずっと同じ音・・こいつバカだと思います?」

「音か・・」ヒロシは少し笑みを浮かべ(うつむ)いた。(嫌いな訳ないだろう。朱音ちゃん)心がはっきりと呟いてた。

彼女には学生時代に、自分自身の鍵盤の音を鳴らすように確りと教えてきた。

バンドが良いフィーリングになるのは、そのバラツキのある演奏が、自分の音として存在し、自らの音色通しが、重なり合い一体感が生まれた時に、聞く人の心を(つか)む・・と。(そうだったな・・そう言ったな)ヒロシもその頃を思い出していた。

朱音は「私は・・先輩が・・大好き!ずっと学生時代から・・定期演奏会で先輩の歌を聞いた時に一瞬で、あっという間に、私・・心掴まれた・・。でも当時は私自身も絶対に認めたくなくて。というか気づきたくなかった。凄く怖かった・・でも、最初からずっと好きだったんだと、そう後から思いました。きっと先輩と私はこうなるって導かれた気がしてた」

「それがいけないことですか?ダメですか?・・」

酔っぱらっているとはいえ、相変わらずストレートな彼女の告白であった。

ヒロシは少し目をそらし、先日のあの場所で感じた彼女への想いを廻らせ、ゆっくりと優しく言葉を切り出した。既にヒロシには我慢する限界がきていた。

「朱音ちゃん・・俺、君を好きになってはいけないと思っていたんだ。過去の俺がダメだと言っている気がして・・それに君を好きじゃないって言ったかもしれない・・君にはもっといい人と一緒になって欲しいと。そう思っていた。でも・・嘘・・だった。」

ヒロシは朱音を目を確りと見つめ直して、自分の額を彼女の額に近づけ小声で話しを続けた。

「だから・・俺、君に嘘ついてごめんね・・。朱音ちゃんの笑い声を初めて聞いた時に、これって自分の人生の騒めきだと思った。響いている鍵盤の音が君と俺の人生みたいで、ずっと聞いていたかった。バンド活動を通して君の騒めきが全て自分への旋律だったんだ。俺も気付かなかったけど、キーボード叩く君も、笑って騒いでいる君も一色端(いっしょくたん)で、自分でも君への想いが僥倖(ぎょうこう)に巡りあっているようで、俺の試練なのか?はたまた恋なのか?それとも悪辣(あくらつ)なことなのか?境目が無くなって・・変だよね、今更・・」

ヒロシは心の内を正直に吐露した。第二の人生で初めての告白だった。

朱音は少し潤んだ目で「先輩!言葉が難しくて分かりづらい・・でも、だいたい分かった・・私も・・先輩への想いが単に尊敬なのか?はたまた純愛なのか?それとも危険であやうい道なのか?全部が一緒になっていって、先輩を思うと心が真っ白になっちゃうんです。私も変です・・」ヒロシはそっと朱音を抱き寄せ、髪を()でて言った。

「じゃ・・俺達に境界線は無いんだ・・同じ旋律を奏てる・・今も昔も同じようにね」

「先輩と私の境界線・・」

「うん・・」「あの曲ね・・実は言いずらいけど、朱音ちゃんを想って書いたんだ。君が言うみたいに。絶対に内緒だけど・・

合宿の時、練習に疲れて宿舎の椅子で眠っている朱音ちゃんを見ていたら、急にばかばかしい歌詞が湧いてきた。自分の想いをキーワードにして、訳も分からず、あんな楽曲できた。内緒だったけど・・これも、ごめんね。教えてあげなくて。」

朱音はやっぱりそうなんだ・・と思った。

「やっぱり・・あの曲を聞くと何だか・・先輩が私の事好きなのかなって何度も思って。そうしたらまた真っ白になって・・また好きになって」

「朱音ちゃん、この間はごめん。俺ダメなんだ。本当に肝が据わって無いのかも。実は女性にこんなにはっきりと好きだと言われたこと無かったんだ。」

そう言いながらヒロシは優しく朱音の髪に手をあて、唇に自分の唇を重ねた。「ごめん急に・・」

朱音は(只、只、この幸せな時間が終わらないように・・。永遠が前日の嘘にならないように・・・)と願っていた。「でも・・先輩!揉むだけ揉んで、去って行くのは今度はイヤですから・・」顔を赤くして朱音は言った。

ヒロシは正直に告げた。「朱音ちゃん・・俺、君を幸せにできるか?今も不安だし、不幸にしてしまう可能性もある。この先が全く分からないけど、君と一生涯一緒に居たい。この事だけは確かで、君にずっと傍に居て欲しいと思うんだ。」髪を撫でながらそう小声で告げた。「この前は嫌われる為だった。ごめん・・」

朱音も「私も、先輩とずっと一緒ならいい。今は先が分からなくても、先輩がいてくれたら何も要らない。だから今一瞬のこの時が同じ気持ちならずっと同じ音を鳴らせると思う。だって、私は先輩の(かたく)なな程の気持ちを崩した女だからね・・」そう涙し、笑みを浮かべながら答えた。二人はエレベーターの中で寄り添い見つめ合った。

 朱音の部屋にいくとあのヒロシのキーボードがテーブルに置かれていた。

「先輩・・今日は何の日か分かりますか?」そう朱音が訊ねてきた。ヒロシには誕生日でもないし皆目(かいもく)見当がつかなかった。「うんん・・分からない・・何?」ヒロシは理解できず聞いた。

朱音はそっとヒロシに抱きつき「今日は・・二年が経過した日です。このキーボードを先輩から借りうけて今日で丁度二年です。これが・・私の作戦です・・分かりましたか?私だけの愛の作戦です。」

ヒロシはやっと気付いた。確かに二年前の今日・・卒業式の日に朱音に貸したこのキーボード。二年間だけ貸せという朱音の作戦は、こういう意味だったのかと。やっと気づいたのだった。しかし・・ピッタリ二年間・・まるで用意されたストーリーだ。

「全く・・君には負けたよ・・こんな長い計画を立てるなんて。無謀な計画だね。もし他に俺に恋人ができていたら、どうするつもりだった」とヒロシは言った。朱音は「あり得ない!先輩は奥手だから」と言って少し怒ったようだったが・・

「でも先輩!綿密な計画でしょう・・こう見えて私は策士なのですよ。先輩ならきっと私の心の音に気付いてくれる・・そう思ったんです。だから・・わっ!」そう朱音が話を続けようとしたが、ヒロシが彼女の口をキスで(ふさ)いだ。優しく急いで・・

「ああ・・綿密だったよ。すっかり君の(とりこ)にされたからね。全面的に俺の負けだ。」と微笑んだ。

朱音はやった!と両手を上げ喜んだ。

その後彼女は急に神妙な顔に変わり、恥ずかしそうに、「先輩・・今日だけは泊っていってくださいね。いいえ、ここに泊って欲しい。私・・今日は先輩と二人でいたい。だって・・目を覚まして、この事が夢だったら・・考えたくない」

そう言いながら上着を脱ぎ抱きついた。

ヒロシはかなり焦ったが、この人が貴人なら、この娘が人生のパートナーだと確信した。

「・・でも朱音ちゃん、俺・・今日は前みたいにソファーは嫌だよ。酔っ払い扱いなしね!・・なんと言うか?・・今日は朱音ちゃんの横で寝たいな・・」そう言いながらヒロシも上着を脱ぎネクタイを外した。

ヒロシがそう言うと朱音は赤くなり「もう・・そう言うところだけストレートですね先輩は全く、侮れない・・相変わらず。また私のオッパイ触ります?」と赤くなりスカートを脱いだ。ヒロシはワイシャツのボタンを外すと、朱音をそっと抱きかかえベッドに寝かせ、ヒロシも横にそっと寝そべった。

「先輩・・何で好きって言われたいんですか?言わなくても気持ちは伝わりますよ」

「うん・・そうは思うけど、言われないと過去の自分の記憶がそう風を受けて不安義の気を持っているんだ。愛を鍵盤でドレミ・・って奏でてくれる。そう言うのがいいだ。包んでずっと(くるま)っていたいって気持ちがいい」

「また出た!先輩の詩人の様な言葉が出ましたね。でもそう言うところ私は好きです・・あっ!言っちゃった。好きって。私の先輩への心の口癖です・・」

朱音はそう言うとヒロシにキスし抱きしめ離さなかった。ヒロシも強く朱音を抱きしめた。ブラを外し、今夜は優しく手で包んだ。朱音はヒロシの顔を手でなぞりながら、「いいです・・」そう言って、ショーツも脱いだ。ヒロシは首筋を優しく愛撫し、手を背中から太腿まで伸ばした。「いいの?朱音ちゃん。俺で・・」ヒロシは電気スタンドの明かりを消し言った。「大好きだから、全部・・先輩にあげます。学生時代からこの日が来ることが分かっていました。だから・・私を抱いて下さい。」ヒロシは裸になり、朱音を優しく抱くのだった。

二人はそのまま愛し合いその夜を過ごした。

次の朝・・ヒロシは目を覚まし天井を見ていた。「これで良かったんだよな・・。持ち帰りされたのは俺の方だったか・・」

そう独り言をいうのであったが、隣で寝ている筈の朱音が「・・これで良かったんです。先輩はもう苦しまなくて、幸せになればいいんです。私が幸せにするから・・持ち帰りました。誰にも取られたくない。」

朱音は何も(まと)わないままの体でヒロシをギュッと抱きしめ、「いいんです。良かったんです。」そう言ってヒロシの迷いを消すのであった。

画して、ヒロシは第二の人生で最愛の彼女と結ばれたのであった。

しかし・・ヒロシの第二の人生はまた、この事象が廻る人生波乱の発端となるよもしれず、先々は全く誰にも分からない。そんな二人のスタートであった。しかも・・第一の人生では、ここからが悲劇だった。度重なる借金と、浮気や多趣味による浪費。それがヒロシを(むしば)み、最終的に最悪な初老人生になっていた。繰り返さないため彼は考えた。ここから同じことになれば、朱音を昔のさゆりと同じ目に遭わせてしまうから、何が・・前の人生でそうさせたかを。かなりの時間を要した。

しかし答えは簡単だった。優雅な生活や金持ちへの憧れとナルシストな自分が原因だった。この第二の人生で毎度考えていたことだった。

生まれた時から貧乏で贅沢もしたことがなく、ただただ辛くって金持ちになりたい。そして自分を馬鹿にしてきた奴らに復讐し、満足の境地におりたい。その自分勝手な想いや、調子に乗り天狗になる事を殺せばやり直せる・・そう感じ彼女の協力も得ながら、人生の是正を講じることにした。

ヒロシが二十六の冬だった。人生は面白い物だ。女性には関わりたくなく、第二の人生では女なんて・・と、全く考えもしなかったけど、結果的にはまた、違う人と出会い違う人生だけど、最愛の彼女と身を寄せ合う気持ちが成立した。そしてそれは結婚の形で表現された。

ヒロシは二十六歳で朱音二十四歳で結婚した。


でも結婚してだいぶ考えた。・・子供はどうなのか?第一の人生では二人の子供が存在した。そう言えば・・勝手にこの時代に来たけど・・。もう子供たちにも会えないな・・そう思いふけった。だが分岐点が変わったことで、さゆりも厄介者である俺の事は他人だ・・別の互いの人生になったから。子供たちも俺より数倍良い父親に出会い、幸せになるだろう。確信していた。でもこの第二の人生ではどうなのか?ヒロシは考えていた。朱音も子供が好きだったので自然に任せた。だが・・結果的には二人は子宝に恵まれる幸運はなかった。

朱音には責任はなかった。何度も病院にも行ってみたが、彼女が妊娠することは無かった。(ごめん・・朱音・・君は子供欲しいよね・・)そう朱音をみて思った。でも・・それが結果的に二人を守った。子供には恵まれなくとも、五年経っても、十年経っても二人の愛は深まりそうだった。こんな人生もあるのか?そう感じるヒロシと朱音だった。今まで以上に互いを愛し、この上ない幸せが続いたのだった。

ある日のこと・・「ねえ!ヒロシ君。私、今がとっても幸せだよ。こんな幸せ罰があたるくらいだよね。なんて突然だけど・・」と。

ヒロシは「急にどうした?・・朱音ちゃんは、俺との人生に自信がなかった?そこまで俺ってダメ男かな・・?今も・・」ヒロシは疑心ありの表情で答えた。

そうすると朱音は「いいえ。私、昔・・あなたがいったいいつ私に気付いてくれるか?ずーと悶々(もんもん)としていた。でも、あなたが私の音に気付いてくれたから、今がとっても幸せ。壊れかけた私の音にあなたが気づいてくれたから、それで不安だった日々がまるで嘘のように過ぎ去ったんだ」ヒロシは暫く黙った。結局は誰かの愛に気づき、誰かを愛し、誰かと過ごす・・それは必然だと。

今が幸せなのは神様が俺に二度目の人生を与えてくれお陰だ。些か(いささか)滑稽だがこの上ない幸せだった。


そんな結婚して四年目を迎える日・・

ヒロシは不思議であり、想い出したくない夢を見た。

高校二年生だった十二月某日・・

「ヒロシ君・・私たちお別れしよう。ねえ!」

「どうして?!俺は君が好きだし、これからもずっと一緒にいたいよ。」

「良く私、考えたの・・今の自分の気持ち。そうしたら別れて、別々の人生が一番だって思ったわ。」

「俺・・恵美だけだよ。君が居ない人生なんて意味ないよ・・俺は別れたくない!絶対に!」

「あのね・・ヒロシ君・・好きじゃない。私はあなたを好きじゃないし、タイプじゃないの!じゃ・・」

「待ってくれ!恵美・・恵美・・・え」

ハッと思い目が覚めたヒロシだったが、夢かと思って少し気が動転していた。(夢だけど、何かはっきりし過ぎていた。まるでその時に戻った様で悲しい)

ヒロシは大粒の涙を流していた。(今頃・・どう生きているんだろう・・恵美)

朱音には悪いと思いながら、彼女を思い出し耽った。

朱音はうっすらと目を開けており、ヒロシの状況を見ていたのだった。

次の瞬間だった。「あゝ遅刻!遅れちゃう!」朱音はそう言いベッドから飛び出た。

いつものように、出勤の為に朝からバタバタしていた。「今日は少しだけ残業だけど朱音ちゃんは・・?」

「私は今日、夕方から打合せの予定・・」

二人は朝に互いの予定を確認した。さっと朝ご飯を済ませて、歯磨きに髪のセットや化粧をして、出かけるのであった。ヒロシも本社勤務になった。

「ヒロシ君・・鍵かけた?」「うん!大丈夫」

「少し出るの遅くなったね。急ごう!」朱音がそう言うと、二人は早歩きで駅に向かった。「ああ・・遅刻!」「大丈夫だよ・・急ごうよ」

ヒロシは澄んだ空を見ながら、「いい天気だ。今日も良い一日でしょう!」

そう言いながら笑みを浮かべ、朱音の手をひいて更に急いだ。特にいつものことだったが、今の幸せを噛みしめるのであった。

そんな瞬間だった。

駅前の最近建ったアパートが見えたが、なぜかふわふわと揺れていた。

「朱音ちゃん・・あれ見える?」「うん・・なんだろう?」二人は速足(はやあし)を停め、その光景をしばし眺めた。

ヒロシは・・「あっ!」と声を出した。・・あの十一年前の光景だと気付いた。ヒロシは朱音の手をひきながら速足で「朱音ちゃん!今日はこの道・・避けよう!」「どうしたの?あの光景がどうかした?」朱音は怪訝そうにヒロシに確認した。

ヒロシは心の中で(これは駄目だ。神が迎えに来たんだ。今の俺を連れに・・この時代での幕ひき・・戻される・・)そう感じていた。

「そこの路地に入って、裏から駅に向かおう!」ヒロシはそう言いい朱音を連れ、路地裏から駅への別ルートを進んだ。

「どうしたの!・・どうしたの!ヒロシ君!」そう言いながら朱音はヒロシの手を切り言ったのであった。「あの、ゆらゆらが、気になるの?どうして?」

ヒロシは説得するように「なんか?あれ(くぐ)ったらいけないと思って。だって安全に越したことないと思って。今は・・俺を信じて・・」本当の話は無論、朱音には説明しなかった。というよりできなかった。自分が遠い未来からきた未来人とは・・。

「仕方がないな・・まったく・・」朱音はそう言いながら、また手を繋いだ。

「理由は分からないけど、ヒロシ君が嫌なら、こっちから行こう」朱音もそうするのであった。

しかし次の瞬間・・ヒロシは腹を襲う痛みに突然倒れ、それに苦しみだした。

「・・ヒロシ君!ヒロシ君!大丈夫!」朱音は倒れたヒロシを心配しながら抱きかかえたが、「俺から・・離れて・・」ヒロシはある程度悟った。

(この廻る人生を止められない。朱音をなんとかしないと・・)

「どうしたの!ヒロシ君!私は絶対離れない。突き飛ばされても・・絶対!」朱音はヒロシを抱きしめ、自分が持っていたショルダーバックの肩紐で、ヒロシと自分の腕に巻きつけそれをギュッと縛った。

ヒロシは遠のく記憶の中で「朱音ちゃんはここに残って・・幸せになって・」

そう告げた。朱音は「絶対にイヤ!私はあなたを絶対に離さない!」

涙ながらに決して離れることは無かったが、突然、朱音はセカンドバックから刃物を出しヒロシの腹部を刺した。「えっ!朱音ちゃん・・・どうして・・」一瞬悶絶しながら聞いた。朱音は涙をぬぐうと、

「私・・待っていたこの瞬間を・・この日の事を・・ヒロシ君・・ここ暫く恵美さんがあなたの心に居たよね?心の奥底で恵美さんを感じていたよね・・だから待っていた・・この日、この瞬間」

「どうして(・・・・)・・」ヒロシは気を失いそうになりながら朱音に訊ねた。

「ヒロシ君が十九歳の時、高校の校門で刺したのは私・・・私があなたを殺そうとしたの。訳分かんないでしょ?でもこれからはっきりするからお互い行きましょう、次のステージへ・・。答えはそこにあるから・・きっと私はいい方向にならない・・でも、あなたを信じて向かう・・迷うかもしれない・・といいヒロシを強く抱きしめた。

そこに・・・あの揺らいだ流れの中の裂け目が二人に流れてきた。朱音は刃物を自分に向け、胸を一刺した。ヒロシは「・・・」もう言葉が出なかった。朱音は目を瞑ると「・・この人を連れて行くなら、私も連れてって!私・・やることがある・・」大量の血が吹き出し朱音も息絶えた

揺らいだ次元は二人をあっという間に飲込んでしまった。僅かな瞬間だった。



 


予測不明な出来事・・更に混乱するヒロシ

続きは第三章で・・

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ