第一部 ヒロシ 第一章 救いようもない自我と殺ぐ人
ヒロシは歳を重ね今までの馬鹿げた人生を後悔していた。しかし過去の自分が通ってきた時間が、取り戻せない事に苦しみを感じ、ある行動に出るのであった。
第一章 救いようもなき自我と殺ぐ人
人生の終末・・枯れ果てた自我の人生を君はどう思うだろう?
誰もが間違いをせずに上手く生きたいものだと・・。
彼はそれをこの年齢まで気付かぬふりをした。というより、彼は気付いていたが無謀に走ってしまった。
自我に走馬灯が脳を駆け巡る迄は。
年老いた彼は酷く憔悴しており、度重なる不遇や不幸を全身で味わい、心で感じとったのだった。
(結局・・生きる事は必然にコントロールされ時間がただ経過していく。)
その中での選択は、決められた人生を進むだけの必然・・だから人は苦しみ、後悔しながら生きている。最終最期に心にふと想うのは、生きた長さではなく我が人生は幸せだったか?不幸だったか?の結論だ。
この物語を生きた主人公は、自分のこの救いようもなく無駄な人生を克服する方策が、人生のある分岐点を変更できれば、自分の人生が変わると信じていたのだった。
人はこの世に生まれ、死を迎えるまでの時間・・そんなこと普通・皆は考えてないよね。
健やかに生きていたら、気にも留めないだろう。死を迎える時には、ふっと・息が止まり、脈が止まり、心臓が止まり、脳が停止する。このタイミングが終末秒だろう。
この物語は、決して戻れない筈の隙間に、偶然落ちた男と巻き込まれた少女の物語である。
その男の名前は谷ヒロシ。皆からヒロシと称されている。若い頃は音楽好きで、高校時代はロックバンドを組み、下級生の憧れの先輩だった。
更に勉学でも学年一位であり県内でも割と良い方の成績であり普通よりはちょっと秀才だった。そのロックバンドとガリ勉さのギャップ萌えが、更に下級生ファンを増殖させていた。
がしかし今は・・
うだつの上がらぬ彼の今は、侘しい一般的な会社勤めのサラリーマンであり、夜に一緒に飲む会社の同僚も、困ったとき相談できる友人も、雑談する近隣住民も、相談される人さえ彼にはおらず、ただひとり孤独に生きていた。
というよりは全てを失った今、新たな人との出会いや交流を避けていた。面倒だった。
今年、長年務めた会社を定年になり、選択をせねばならぬ年齢だが、会社からは嘱託社員の打診があった。
「谷さん!お疲れ様でした。でも今の六十はまだまだ若いですから、これからもよろしくお願いします。この書類に目を通して頂いて、署名と判子をお願いします」若い総務課長はヒロシに書類を渡し、今後の処遇について説明した。
「こんなに・・下がるのか・・もう少しなんとかなりませんか?」
ヒロシは納得がいかず、総務課長に何度も聞いたが
「最終的には取締役が決めますから、私にはこれ以上はなんとも言えません。申し訳ありません」
愕然としたヒロシだったが、彼はこの仕事しか今はできず、新たな事にチャレンジする勇気も気力も持ち合せていなかった。
給与が極端に下がるがしかし、蓄えもなく借金は多々あり生活が厳しい彼は、この提案を受けるべきかを考えたが、結局は嘱託での継続を決めるしかなかったのだ。「さゆりになんて言おう・・」
家には一つ年下の女房がいたが、彼女とは若くして結婚したものの、彼の度重なるトラブルで、間柄はすっかり冷めきっていた。
名前を谷さゆり。声が少し太く枯れ気味・・いわゆる訛声だった。普段は誰にでも話しかけられる明るい女性だ。
家のローンや偶に家に来る孫へのお小遣い等もあって、さゆりは孫や子供たちに対し一生懸命に対するのだった。
ただ二人だけの時は無論の事だが互いに寡黙だ。それでも我慢し同じ家に住み続けていた。
彼には二人の子供がいるが、二人とも既に各々独立しており、今は前出のように女房と二人暮らしだった。
だから間柄が冷めている今、話しかけようが、話かけまいが、別にいいのでは?無理して会話しなくも?・・ヒロシもさゆりもお互いにそう考えていた。
二人は二十五と二十四で結婚し、その後に子供を授かったが、子供には無頓着ではなく一般的なマイホームパパ・ママの二人だった。
子供の行事にも良く参加したし、一緒に遊んだり学んだりもし、結婚当初は夫婦として暫くは仲よく過ごしたが、いつしか・・ヒロシはギャンブルに嵌った(はまった)。学生時代に味わった蜜の味・・分かってはいたが・いや?全然分かっていなかった。悪いことに染まっていたと。
ギャンブルしては負けが込み借金・・
その度重なる借金にさゆりは嫌気がさしたが、何度も何度も一緒になって借金返済までしてくれた。そんなどうしようもない三十代だった。
その割には良く飲み会に参加したり、会社行事にも参加しており、家を顧みなくなっていった。
いつしか明るかった彼女が、ヒロシの前では笑顔さえ見せなくなっていた。
ヒロシはその時に「稼いでるのは俺だ・・」と豪語していたが今は・・「さゆりに苦労ばかり掛けて、皆んなが旅行に行ったり、食事会に行ったりしてるのに、何もしてあげれない・・人間のクズだな俺・・」そう反省している。
そして四十代で今度は浮気と裏切り・・・。
浮気相手との出会いは会社のサークルだったが、その女性に深く心頭し、幾晩も家に帰らなかった。
さゆりに多くの苦悩を与え、多くの人に多大な迷惑をかけた。だが両親の助言を受け、彼も反省し元の鞘に収まった。この事件がきっかけとなり、更に二人の心の距離が離れていった。
「好きでもなんでもなかった・・ただ彼女に没頭する事で、日々の馬鹿げた日々を埋めていた」
ヒロシは毎日の様に自分が置かれた立場を考えていた。だからダメになった。その時その時間だけしか考えていなかった。もっと先の人生、通り過ぎた過去の間違い・・それを真剣に考え是正すべきだった。
五十代では今度は家庭での深酒と暴言。
仕事の心労も加わって、些細なことで喧嘩し、さゆりに酷い暴言を吐いた。
「背広くらいは買ってくれよ。恥ずかしくて会社にも行けない!・・」そう言うヒロシだったが、さゆりは「買うお金無いよ。誰のせい!悪いけど賞与の時にね」と。ヒロシはその言葉を何年も聞いていたが、でも我慢するしかなかった。
「俺は我慢するだけか?この惨め(みじめ)な状況も。君は好きなものを食べ、家に居るだけなのに、安物の服さえ買えないと言うのか!」ヒロシは大きく吠えた。だがその後冷静になり、「さゆりも我慢していたのに・・俺のせいで、こんな人生を生きている。新しい背広買って誰に見せるんだよ・・バカバカしい」と反省をしていた。
そのような二人の心と想いのすれ違いは離婚という危機を迎えていたが、それでもヒロシは日々やりたい放題、言いたい放題であった。止まらなかった・・今更。
彼自身が完璧なナルシストであることに気付かないのだった。しかしさゆりは決して別れず離婚を拒否した。・・いわゆる世間体や沽券にかかわり、全てに蓋をして我慢していた。
ヒロシはさゆりに対して、決して許して欲しいとは思わなかった。「どうせ俺は・・どうせ俺の人生なて・・」そう拳を握るが、情けない自分にブレーキをかけていた。
五十代も中盤を過ぎヒロシは活力や、やる気が極端に減衰したことに自ら気付いた。
既にさゆりに暴言を吐く気力も、偶に笑って話せる心の豊かさも消え果てていた。
毎朝五時前には起床し、八時前には会社に出勤。
その生活が、もう三十年近く経ち、最近では朝起きるのも億劫で、重い体を興しながら満員電車に揺られ、朝早くから夜遅くまで仕事をしている。
しかしそれが決して空しいわけではなく、生活の為の仕事だから仕方がない・・と思うのであった。
彼にとって空しさを感じるのは、自らの人生をやり直せない年齢になってしまった・・ということで、還暦を迎えた彼には、全てにおいて無理が利かず、希望が持てない年齢になっていた。
若い時には、仕事が嫌なら転職もできたし、車が欲しかったら月賦を組んで新車も買えたし、何よりも好きだったバンド演奏も・・。
夢を持って生きてきた筈だった。いつかはまたバンドを組んで人前で演奏したい・・ヒロシはそう思っていたが、だがもう叶わない夢となった。
今は・・、家のローンや借金に日々の生活費で、ギリギリの生活が続いている・・
一円でも安い商品を選び購入し、会社の飲み会や社員旅行に会社行事にも、お金が都合できないと、いろいろ理由を付けては不参加だった。
「そうか・・もう飲み会も一年以上行ってないな・・仕方がないか・・」がっかりしながらそう思っていたが、「どうせ行っても誰とも会話をしないしな・・まあいいか?」そうも思った。
たが仕事だけは一生懸命で、会社の信頼は厚く、仕事が無くて困ることは皆無であった。これだけはヒロシの専売特許でもあった。
それに伴い二人の子供の学費も賄い、念願だった一軒家も手にできていた。
でもここ最近は思うように動けず、体力がついていかない事に気付き、週末には体がヘタる事が増えた。
ここ1、2年は考えこんだり、物思いに耽ったりしており心が大きく騒めいている。
自らの過去の怠慢な行動で大切な人達を傷つけ、発した言葉や言動で心が離れ、修復不可能な状況に陥り、生きてきて良かったなど到底考えられず・・ヒロシはいつしかその様に考え、全てが間違った人生だったと、今更ながら気付き、やり直せるなら過去に戻って、別の人生を生き抜きたい・・そう思うようになっていた。
自分が傷つけたさゆり・・愛し合って結婚した筈。なのに酷い仕打ちばかりしていた。本当に良い父親じゃなくて子供達にも申し訳ないと。過去に俺と出逢わなければ、さゆりの人生は違っていた筈・・俺みたいな父親じゃなければ、子供達も離れていかなかった。
そんな自分がどうしても許せなかった。だからそんな自分の過去を変えたかった。
彼は毎日のように、「過去に戻ってやり直ししたい」そう思っては電車車中や、眠る前のベッドの中で、度重なる妄想に深け(ふけ)きっていたのだが、「到底あり得ない!逆転の人生なんて・・あるならとっくに俺はタイムスリップしているよ。神様だって、こんな俺にチャンスなんて与えないよな。」そう自我に言い聞かせてはまた同じ朝を迎え、同じ行動を余儀なくされていたのだ。これこそ・・まさに必然だった。結果は結果だと思い知らされた。
ある朝・・家を出る際に「あのさ・・少しお金もらえないかな?」と、さゆりにお金の無心をした。しかし彼女は「この前あげたでしょう!もう無いの?何に使い込んでいるの?」と
そういいながら小遣を出し渋った。
ヒロシは無言のまま今日も玄関を出て、(さゆりが悪いわけじゃない自分が悪い・・過去の結果だ・・神の裁決だ・・)と呟き(つぶやき)ながら歩き出した。
歩きながら昼飯を我慢すれば今日は大丈夫か?・・
お金は小銭で間に合うかな?と下を向き駅に急いだ。
しかしこの出し渋りは、何年前からずーっと同じで日常茶飯事起きていた。本当にお金はなかった。背広も普段着も数年購入したこともなかったが、それが悲しい訳ではなく、さゆりにそう思わせた自分の問題・・そう考えていた。
今日もお金もなく、切れた鞄に、穴の開いた背広と、もう二十年は着ている薄手のコートだ。
職場は一時間程の都心だった。「今日は久しぶりのプレゼンだ。少々だが気合い入れていこう・・」
会社に着き資料を纏め綴じ、みっともない鞄に詰め込んだが、角が折れない様にそっと仕舞い込むのだった。
午後・・顧客先に着き「今日の資料です・・と渡すと、二十代と思われる顧客担当者は、
「・・あのですね。実は別の会社の提案が素晴らしいと、上司から言われて、昨日発注を決めてしまったんです」と。ヒロシは焦り懸命に資料説明をしたが、話は覆られることは無かった。
この会社とは二十年来の付き合いだった。
(もう・・時代は俺じゃないな・・)そう感じるヒロシだった。
帰り際に担当者から「谷さん!ごめんなさいね。本当はS社の担当者と専務の息子さんが同級生で・・断れなかったと・・」内緒話を聞かせてくれたが、ヒロシは「いいですよ・・私の努力が足りなったのですから」と明るく答えた。
会社に報告し、社長からは「谷さん!そんなこともあるよ・・」と慰めの言葉があったが、「申し訳ありません」と謝った。ヒロシには耐え難い一日であった。
家に帰ると女房から「お父さん!土曜日に車の洗車と、芝刈りお願い。かなり伸びてきているから・・」そう言われ、「ああ・・分かった」そう一言だけ答えた。ヒロシにはこの日の辛い出来事も、会社での仕事の事も誰にも話す機会も、チャンスも無かったのだ。でも、それで良かった。分かるはずもないからと・・。さゆりもヒロシに頼みごとがある時だけは、優しそうな小声で頼むのであった。
その夜ヒロシは珍しく、全く眠れず目を閉じも・・寝返りしても目が冴え、電気を点けてはトイレに行きまた一時間後に同じ行動を繰り返した。
ヒロシは寝ながら、不安ばかりを感じていた。「このままこの状態で俺は最期を迎えるのか?・・過去の原因はあるにせよ、このままで寂しく終わるのは、生きてる価値もないし、長生きが苦痛でしかない」そう不安しながら横たわっていたのだ。
一睡もできなかったヒロシは翌朝、シャワーを浴び、いつものように支度を整えコーヒーを飲んでいた。コーヒーを飲みながら、「・・結局、俺は何もできず終わる。このまま誰にも愛されず、頼りにされず終わる・・夕べもつまらぬ妄想ばかりしてたしな・・・」そうひとりごとを言った。
ヒロシは自分のこれまでの生き方を反省してきたが、ついに心が折れ、心が疲れきってしまっていた。どんなに努力しても、どんなに反省しても、現状の運命は変わらない・。そう悟る(さとる)のだった。
今朝は妙に胸が痛い・・そう気になり胃薬を飲みながら胸を押さえていた。
彼は数ヶ月前から、(俺・・死んだらどうだろうか?泣いてくれる人はいるだろうか?厄介者が消えて皆がすっきりするのではないか?)とも考えていた。「まあ・・後者だろうな・・」
昨夜眠れず、いつもより一時間ほど早く出掛けるヒロシは重い足取りで家を出ようとした。その瞬間に、急にさゆりが玄関先にきて「おとうさん、これ持って行って・・と瓶が入った小さな紙袋を渡された。ヒロシは「うん?ああ・・」とだけ言い、家を後にした。
財布には千円札もなく、小銭入れに小銭だけが沢山でヒロシは「・・俺は金持ちかもな・・ふー」と、そう自分に言い聞かせ、首を垂れながら駅への道をいつものプロセス通りに歩き始めた。
だが・・今日の彼は、今までに無い程の強い絶望感に包まれており、まるで生きていることが罪人のように思えて、脚に何かが巻き付いている如く重く感じた。体は壊れるくらいに減退し気力も無く、心が喋る「これからの人生もこのまま罪人扱い・・」。そんなことが心で騒がしくしていた。
生きている価値観とは?、自分に対する期待や望み、誰もその様なもの持たない。ただ毎日をダラダラと過ごし、息をするだけの人生。少ない給料を届け死ぬまで働く。死んでも誰からも悲しまれない・・
このまま進んでも先が見えてる。僅かな先の人生のゴールは、後悔だらけで終わってしまう。ヒロシの頭は生きる希望を失い、生の先にある知らない場所が自分が行き着くところだと思った。
ヒロシの思う最後の低い砦は陥落し、子供の頃からの記憶がまるでエンドロールの様に流れていた。全てにおいてとき・・既に・・遅し。
ヒロシは「あーもう駄目だ・・まったくもって全てに疲れちゃったよ・・。寂しけど悔しいけど俺・・親父やお袋のところへ行きたい・・向こうで楽しく過ごした幼かった自分に戻りたい」そう、何度も・・何度も・・ヒロシは心の中で呟いた。
ヒロシは歩みを止めると、先程さゆりが渡してくれた袋を無意識に開けた。
「う・・何だ?この錠剤は?」
袋の中には白い錠剤が三十粒ほど入った瓶があった。確か・・これは健康診断の問診した際・・先生に相談したことを思いだした。
「先生・・なんか夜眠れないんです・・」と言って処方された睡眠導入剤だった事を思い出した。
「そうか・・夕べ俺が夜眠れず、煌々(こうこう)と電気を点けていたから・・」
さゆりが渡した袋の中身が、ヒロシに処方されていた薬だと分かった。
「なにか・・凄くgoodタイミングだよな。今の俺に・・この絶望し死のうと思っていた瞬間に・・準備がいい・・全くもって」
ヒロシはその瓶を見つめながら・・「なんだ・・そう言うことか・・分かったよ」彼は薄笑いした。
そう呟いたその瞬間!だった。
ヒロシはあろうことか・・それを一気に飲み、水筒のお茶をガブ飲みした。無論、尋常な量ではなかった。
「あー終わった。今から・・行くね。父ちゃん・・母ちゃん・・やっと・・やっとこれで楽になってそっちに行けるよ」そう言いながらヒロシは道端にべったりと座り込んでしまった。
ヒロシは自らの命を断とうと、というより、さゆりから(死んで・・)と懇願されたかのように一気に薬を飲んだのだった。
ヒロシは三分も経たず意識が朦朧となり、座った体はやがて横倒しになった。だが、睡眠薬でこれほど早く倒れてしまうか?そうも思った。コーヒーを飲みんがら感じた胸の痛み・・心臓疾患か?
「・・もうこれでお終いだ。・・全て“無”だ。さらば我が堕落した人生・・俺の子供たち・・健やか(すこやか)に暮らせ・・よ。良い父親じゃなくてごめん。ありがとう、さゆり・・もう先に逝くよ」そう呟きながら完全に道に倒れ込んでしまった。
異常なまでに心拍が上がり、血圧も上昇したと思われ、彼の心臓と脳は停止寸前となった。
始発駅から電車に乗ろうとしたヒロシだったので、普段より一時間早く家を出た。
それが不運でもあった。普段から人通りが少なかったうえ朝早く、邊には誰もいなかった・・・。
ヒロシを助けようとする人も、声掛けする人も誰も。
意識が朦朧とする中、渡された紙袋に小さなメモがあった。ヒロシは走馬灯が走りそうなその僅かな時間で、メモに目をやった。メモには・・
(おとうさん。少し横になれる時には、これ飲んで休んでね。疲れているのに、気が付けなくてごめんね。ありがとうヒロシさん・・ガンバ)
ヒロシは走馬灯を見ながら、涙が零れ落ちた。
「さゆり・・何だかんだ言っても俺の事考えてくれていたんだ。ありがとう」
そう聞こえぬような小声で呟きながら、やがて呼吸が止まり、心臓の波音も消え、脳波も・・ヒロシは息絶えたのだった。
一方、さゆりは毎日の彼との心のすれ違いや、ヒロシの暗い顔に嫌気が差していた。
しかし子供たちや孫たちは自分の味方であり、生活をし続ける為にヒロシは必要だった。
だが・・ヒロシの最近の日々の一言「どうせ俺はもうすぐ死ぬのだから・・」その言葉が嫌で嫌で仕方がなかった。(死んだら・・私はどうなるの?一人で生きるの?・・どうして・・私と居るのが苦痛なの?好きで一緒になったのに・・)
そう考えるさゆり。彼女は最近、満期になった生命保険のたよりや、住宅ローンの死亡時の代替え支払い等の案内を次々と読み漁っていた。
孫と一緒に居る時が一番幸せ・・そう考えていたさゆりは、あろうことかヒロシの殺害を考えたのである。
殺害というよりは、過労による自然死を目論んだ。日頃からヒロシは深酒に煙草に夜更かしをし、健康診断も“要検査”が増えていた。更に夕べの夜更かしや心臓の弱りも重なり、体力もかなり減衰していることに気付き、今日しかないと一瞬で思ったのだった。
さゆりの計画は警察にも決して疑われない完璧なものだった。薬もヒロシが自ら入手したもので、過去のヒロシの行動や言動にさゆりが疑われる余地はほぼ無かった。(私だってこれからは自由に生きたいから・・ヒロシさん一気に逝って・・)さゆりは確信していた「絶対にこの後、あの人は・・これを一気に飲む筈・・そんな気がする」そう呟きながら、袋に入れたメモを疑われぬように態と入れたのであった。
画してヒロシは最終的には、周囲の人から憎まれ、このような形で生命を断たれた。
さゆりには分かっていた、ヒロシの健康状態も追い込まれた人生も、だから一気に薬を飲めば死に至ることも・・・。
死んだヒロシには誰も気付かず、遺体が道に横倒しのままだったが、信じられない事象が起きた。
・・突然、三色に染まった幻想的な裂け目の様な物体がヒロシの体を飲み込んだ。
彼は死んだ筈・・しかし目の前の光景が突如見え、
「何だろう?周りの景色が歪ん(ゆがん)でいる?景色ではないな?酒にまだ酔っている?第三のビールで深酒したからな・・」とその光景を猜疑心で見ていた。そして次の瞬間だった。また裂け目が現れ外が見えた。ヒロシはそこから吐き出され元の世界に戻った。「何だったのだろう・・」
ヒロシは立ち上り、周りを確認したが、「どうやら生きているらしい。薬を飲んだが、現実に戻されただけか・・」そう呟くと、「いま生きている限り、いつもの電車に乗り会社にいかないと。咄嗟に(まずい遅れる)!」そう思いながら重い足取りを少し早め、駅に向かうのであった。
「俺・・自殺した心算なのに・・どうしてだろう?」そう独り言を言いながら駅に向うが、ヒロシは、はっ!と思った。そして重い足を止め、「さゆりに感謝言わなきゃ!最後にメモであんな言葉・・嬉しかった。」
自分を殺そうとした彼女なのに、ヒロシは家に戻りさゆりに感謝を言おうと、駅に向かうのを一旦やめ、家に帰った。でも、家の玄関まで到着したが、玄関には【売家】と大きな貼紙があった。
「そんなことはない。さっきここを出てきたばかりだ。」ヒロシは不審に思い、家の鍵を取出し玄関キーの差し込み口に入れたが、鍵も回らず家の中にも誰も居ない雰囲気が・・本当に俺の家か?不思議な事象が起きたのだった。
「いったい何が起きている?さゆりはどこに?」考えても答えは出なかった。さっきのメモも消えた。
仕方がなくヒロシは、取敢えず会社に行かなくては・・何故かそう思うのだった。
死に急いだはずが、また変わらず会社に出勤しようとしている。全く滑稽だった。
町の様子も近隣周囲は変わらない情景だったが、電柱のホーロー看板や、家の高い亜鉛製の塀はどこか昭和をイメージしていた。「こんな所にこんな家あったかな?・・」
駅に着いたがどこか様相が一変していた。
駅の屋根は古寂び(さび)た瓦屋根で、切符の自動販売機も古くヴィンテージそのものに見えた。それに無くなった筈の駅売店におばちゃんが新聞を並べ、サラリーマンらしき男が「おばちゃん!ここに置いていくよ!」と言いながら、新聞を手に百円硬貨を置き、新聞の山の板に置かれた、三、四枚重ねられた十円硬貨の釣り銭を取っていった。ヒロシは唖然とその風景を眺めていた。
「嘘だろ・・あり得ない・・いつの時代の風景だよ」
恐怖心を持ちながら駅に近づき、構内をぐるりと覗いてみた。「?え・・駅員さんが切符を切っている・・?」次々と駅構内に入る人たち。
駅員が二つある通路の間に座り、リズムに合わすように切符切りを鳴らし、入場する人たちの切符を切っていたり、紙の定期券を目視しながら、掌で「どうぞ」とばかり通した。自動改札が無い・・ヒロシは幻想を見ているのかと、掛けていた眼鏡を上下させ、目をチカチカさせた。
ヒロシはその光景を見ながら、「えっ!まさに昭和?そのもの」と汗をかきながら凝視していると、隣に立っていた少女が、話しかけてきたのだった。
「ねえ・・お兄さん、その格好暑くないの?」と。
ヒロシは慌てたが、自分でも暑さを感じていたので、薄手のコートをそっと脱ぎ、背に隠した。
「お兄さん・・?って俺?」俺はもう六十過ぎのおじさんだよ・・と少し怪訝そうなヒロシだったが、先ほどの切符切りの動揺冷めやまぬまま、その学生に言った。
「まあ・・ちょっと暑いかな」そう言いながら話しかけられた方に振り返った。
ヒロシはその瞬間その学生を無遠慮に見てしまった。「うわぁ!・・聖子ちゃんカット・・」手には当時の流行りだった謎のマジソンバック・・とみんなしていた煎餅並みの薄い学生カバンだ・・。
「ぜったい昭和のど真ん中・・」そう小声に出しその子を凝視していると、
「えっ?・・(笑)お兄さん、なんかヤバイ病気とかじゃないよね・・?」と薄笑いで更に聞いてきた。
そう聞かれながらも、ヒロシはその学生は無論、周囲の他の人々の姿もじっと確認していた。
みんな女の子は聖子ちゃんカット風?や、長めのスカート丈の制服。「ミニスカートは?どこへ?」
男子高校生は長ランにドカンに、髪形はリーゼントだ。男の子も女の子も眉毛が細い・・
懐かしい・・そう思いながら、改札前の伝言板が目に入り、いろいろな伝言が書かれている光景があった。
【昨日は十円玉なくなって、途中で電話切れてごめんねえ ヤエコ】
【今日は十二時に代々木公園の入り口で オサム】
【ばか!酔ってねえよ・・】など、昔のままの伝言板で、手書きで各々書かれていた。
夢か?それとも俺はあり得ない幻を見ているのか?ヒロシは大量の汗を汗をかきながら、辺りをキョロキョロ見渡すばかりだったが、それでも先ずは会社に行かなくては思った。しかしながら・・どうやって行くのか・・・
駅員に「これで入場できる?」と恐る恐る尋ねた。「え?なんですか?・・それって銀行のキャッシュカードか?何かですか?」差し出したスイカ定期を見た駅員は、不思議な顔で覗き見した。
「えっ・・これじゃ入れない?」そうヒロシが言うと駅員は、「どちらまで行かれますか?券売機で切符購入お願いします」と言われたのだった。
仕方がなく券売機で切符を買おうと内緒で隠していた千円札を入れたが、エラーで返却された。何度か試すが同じであった。折り畳んでいたからな・・
「どうしたんですか?」と駅員が声をかけてきたので、ヒロシは券売機が千円札を受け付けない旨を伝えた。駅員はその千円札を見て笑った。
「ハハハお客さん!おもちゃの札じゃ券売機は受け付けませんよ。良く見てください。」と。
ヒロシは理解に苦しんだが、(はっ!と)思った。
「もし・・ここが昭和なら札が通用しないのは分かる・・。伊藤博文の絵だ。今のこの世界では。」
ヒロシは切符を買うのを諦め駅構外に出た。
(今日は会社休もう・・というか行ってもな・・会社の存在さえ怪しいからな、この状況からして)。
変わり果てた駅前・・ではなく遠い昔に見た駅前の風景だった。
ヒロシは外が妙に暑いと感じた。十月も後半なのに、どうしてこんなに暑いかと思うのであった。喉が渇いたヒロシは、外にあった自動販売機でコーラでも買おうと、百円玉と五十円玉を出し買うのだったが、商品と同時にチャリとお釣りが出きた。
「そうか、この時代では百円なのか・・なんか得した気分だな」と言いながら、
プルトップを持ち上げ空け一気に飲んだ。「フ~生き返った。本当、この瞬間で」と思わず声が出た。自殺しておいてこの言葉とは・・
しかし入れた百円玉の年号は(令和)だったが誰も気づかず心にも留めない、偶然の事実だった。
駅前の商店街にあった筈のスーパーも牛丼屋もない。それもそうか・・すぐに状況を理解した。昭和なら駅前には何もなかった。この薬屋以外は・・
さてどうしようかと・・ヒロシは暫く立ち竦み(たちすくみ)考えた。彼は最後はやさしく接してくれた人、さゆりが気がかりだった。捜索も考えたが、どこに居るかも分からない。
そう思い薬屋のショーウインドウに写る自分を見つめたのだった。良く見えないが、おかしい・・眼鏡の度が合わず、見えづらかったので外した。良く確認できる様になり、目を擦りあらためて凝視した。
その瞬間だった・・ヒロシは後退りしながら開いた口が塞がらなかった。というより、この世にない物を見た焦りに似た感情が湧いた。
「俺・・えっ若返っている?・・まさか?・・夢じゃないのか?」これは一体どうなっている?ヒロシはウィンドウに近づき自分の顔を撫で(なで)体じゅうを触り、初老でない自分を感じた。ついでに下のほうも触った。「元気だ。」
何本も入った横皺の額と、たるんだ頬に薄くなった髪・・電車では直ぐに眠くなり、涎が垂れそうになると慌てて啜る自分では無かった。
傾いた首も、少し曲がった腰もぴんとしている。
ヒロシにはとても信じがたい光景であり、夢か幻覚か?汗が酷く止まらなかった。
しばらくじっと見つめていたが、「以前から鏡を見るのさえ嫌になっていた顔なのに。」と呟いた。
冷静さを欠いたヒロシだったが、彼はまずは今が何年で何月何日かを知るべきだったと思い、周りを見渡し分かりそうなものを探したが何も無く益々(ますます)焦った。
だが、遠くのごみ箱に今まさに、おじさんが捨てた新聞が目に入った。おもむろにそれを拾い上げ、新聞の最上段右を見てヒロシはさらに仰天するのだった。
「あり・・得ない・・絶対に夢だ。悪夢だ・・」
「一九八二年九月三日 金曜日・・」信じられない心境だ。四十一年も前に来ている。新聞には(早稲田実業の荒木大輔・・ドラフト・・)確かに超有名な甲子園球児。ハンカチ王子のだいぶ前の出来事である。
松田聖子がデビュー三年目で、明菜がデビューした年だ。華の八十二年組みが次々とデビューした頃だ。
またこの年は昭和五十七年で、ヒロシが東京の大学を自主退学し、都内の郊外で新聞配達をしながら、別の大学への進学を模索していた、挫折感満載の年だったのだ。
昨夜彼は眠れず、少しこの年の事で悶々(もんもん)と妄想していた事は確かだった。
そうだ・・一九八二年九月三日に自分が卒業した高校を訪ね、当時の担任に推薦してもらえる大学の相談をしに行った日だった。自分の人生を決めたあの日だ。
なぜ夕べ、この日を思い出したのか・・。ヒロシには単純な理由があった。
ヒロシ自身が地方の大学に決め、合格し移り住み今のさゆりと出会い卒業後に結婚した、ある意味で最大の選択をした分岐点の日だった。
あの日・・担任からは「谷の成績は抜群だったし、生徒会の役員もしていたから、一浪でも問題ないと思うよと、地方の大学で学費の安い大学を勧めてくれた。
当時、たったひと月ばかりで猛烈に受験勉強し、やっとの思いで合格した大学をあっさりと辞めた後ろめたさがあった。
当時の彼は家に戻りたかったが、親からも近所の目もあるからと言われ、自活しながら勉強できる場所を探し、東京近郊の新聞店で住込し、お世話になる。
中学のイジメ時代から二度目の挫折と屈強であったが、当時は流れに任せるしかなかった。当時の彼はというと、十九歳で全てに追い込まれ、自信があった勉学や音楽にスポーツも全て無駄にし、再び大学に通うという、チャレンジに立ち向かう勇気がどうしても湧きあがらなかった。いわゆる自己喪失感を持った時期だった。
その新聞店には、様々な訳ありの人々が働いていた。新聞社に入社し、バリバリ働くも会社を辞め、配達員をしている人や、家族と離れ(別居し)一人孤独に過ごす人、高崎から出稼ぎにきた還暦のおじさんなど、自分が知る過去の知り合いには類似しない独特な雰囲気もありながら、少し影がある人たちだった。あれも人生の上での必然的な出会いだったのか?
春の四月末に住み込み、暑い夏を過ぎたころ、過去に新聞会社勤めをしていた西方さんが、ヒロシに言ったことを思い出した。
「谷君はいいよね。まだ夢を持てる年齢だから」西方さんがビールを飲みながら話してきた。ヒロシは「俺・・大学はもういいかなって思っていたりします。実家もそんなに裕福でも無いので」と。
ヒロシは完全に自我を喪失していたのでそう受け答えたが、西方さんは
「なぜ?そんなに早く答えを出そうとする?」「可能性はまだまだあるのに、簡単に夢やこれからの生活を諦めたら、俺みたいになるよ」と笑いながら話した。
後から別の人に聞いた話だが、西方さんは会社からリストラされたようだった。
ヒロシのように自分に自信あったが、会社都合で或る日会社に切られ、この仕事をするしかないと・・そう決心したらしかった。
その時、西方さんは笑いながら、でもなぜか寂しそうだったと後から思った。
その後、九月過ぎになり両親や新聞店の方々からも背中を押され、一九八二年に卒業した高校に向かった。それがいわゆる今日、九月三日だった。新聞配達の一日だけの休暇を貰って出身学校を訪ね、推薦してもらう大学を選定選抜する日だった。この人生の大きな分岐点の左右が決まった日だった。
ヒロシは新聞を“ぐしゃっ”と丸めながら、再びごみ箱に新聞を投げ捨て、「紛れもなく今日だった!」と荒声をあげ、「大きな分かれ道である運命の日だ!」そう身震いしたのである。これが始まりだった・・殺されたことへの反動なのか?
それとも・・何かを成し遂げるべき、やり直しの人生のチャンスを神が与えたのか?分からないヒロシだったが、この二度目の人生を歩き始めたのであった。
過去の自分が堕落していた要因に分岐点がある事に気付いたヒロシ。だが同じ間違いが起きれば元も子もない。彼の選択は正しかったのか?それとも愚策だったのか?




