あは
──2027.11.28 ロンドン郊外──
夜のロンドン郊外、薄暗く湿った路地は、静寂が支配していた。
古びた石畳の道には、時折、足音や馬車のひび割れる音が反響するものの、夜の冷気に包まれたその一帯は、まるで時が止まったかのように感じられた。
月明かりがかすかに差し込む中、ひときわ目を引くのは、木製の古い馬車だった。
車輪が古び、錆びついており、その全体に薄い霧が絡みついている。
馬車の布地はすでに色あせ、風に揺れながらも、少しの音も立てずに停まっている。
──コツン、コツン
数歩、闇の中から足音が近づく。
重い革靴が冷たい石畳を踏みしめ、その音が微かに響く。
しかし、進行方向は不自然で、あたりを警戒するようにじっくりと観察しているかのようだ。
足音が途切れると、しばらくの沈黙が続く。
次に響いたのは、馬車の扉が音を立てて開かれる音だ。
それは、ゆっくりと、確実に開かれていく。扉の隙間から漏れ出す薄暗い光が、周囲の闇をさらに深めていく。
その瞬間、足音が再び動き出す。
手が扉の内側に伸び、しっかりと握られる。まるで慣れた手つきであるかのように、力強く、そして冷徹に。
扉が完全に開かれると、中にいた者は馬車から引きずり出される。
馬車に閉じ込められた者は、両手を縛られたアジア系の女性だった。
派手なピンク色の髪を肩まで伸ばし、口には飴玉のようなものが咥えられている。
その背後では、木の扉が音を立てて閉じられる音が響き、すぐにまた静寂が戻る。
冷たい空気に吸い込まれるように、重い鉄の扉が開く音が聞こえた。
扉の向こう、中には5人ほどの男がそれを監視しており、一人一人が鋭い目つきで警戒し、無言のままその女性を睨んでいた。
そこは地下深く、無数の通路が複雑に絡み合う迷宮のような構造だ。
彼女が強引に引き寄せられ、長い廊下を通り抜ける間、金属の扉が次々と開き、また閉じられる。
その冷徹な仕組みが、一切の音を吸収してしまうような不気味さを放っている。
足元には古い石が敷き詰められ、何度も踏みしめられてきたであろう痕跡が見えるが、そこに新たに足を踏み入れる者が、またひとり増えたことを示しているかのようだ。
進む先には、最も広い部屋が待っていた。
その壁は石で覆われ、薄汚れたいくつかのランプの灯りが、淡く灯るだけの不気味な空間だ。
目の前には、黒いスーツを着た男が座り、冷徹な表情を浮かべていた。
「もういい、ここまでだ」
その男が低い声で告げると、足元に引きずられてきた者を強く押し出すようにして中央の床に立たせた。
周囲の空気がさらに重く、緊張感が漂う。
男たちは息を潜め、じっと見守るだけだ。
「報告を受けた。話してもらおうか、貴様がなぜ我々のマーケットに紛れ込んでいたか」
その男は英語でそう話すと、無表情で手を組み、周囲の者たちに視線を送る。
だが、その目はすでに冷徹で、いかなる情けも感じさせない。
これからどうなるのかは、すべてが彼の手の中にあることを、誰もが理解していた。
──たったひとり、攫われたその女を除いて。
暗闇の中で、まるで影が集まるように、数人の男たちがゆっくりと歩み寄り、その者を取り囲む。
目を閉じ、ただ黙ってその動きを見つめる男たちの視線が、冷徹なものに変わる瞬間。
彼女が何を思っているのか、何を感じているのか、すべてが無意味であるかのように。
すべてが、暗い空間の中で音を立てずに進行している。
何もかもが、ただ、不可避のように感じられた。
「あはっ。ねえね、黒スーツくんもしかして今あたしのこと殺そうとしてる? いや〜ん、せっかく色々話してあげようと思ってたのに〜ん」
恐怖で気が狂ってしまったのか、軽薄そうな声で、そう英語で話す彼女は、上目遣いで目の前のスーツの男を見つめる。
スーツの男の表情は、ぴくりとも動かない。
まるで冷たい氷の岩のように静まったその表情に、周囲で立つ男たちは警戒の表情を浮かべる。
「必要ない」
「うっそーん。でも、あんたらロシアの《幽拝会》でしょ? こんなとこにこんな辛気臭い隠れ家まで作って、大丈夫なの?」
「ここを出る部外者は誰も口を割らない」
「それってもしかしてえっちな賄賂とか?」
「死人に口なし、と言うだろう
「いやぁ〜ん♡」
腰をくねらせながらそんな声を出す彼女は、顔を背けながら腕時計を流し見する。
額から冷や汗が伝うのを感じる。
余裕があるわけではない。
というより、自分ひとりではどうにもならないのだ。
だから助けを待つ必要があるのだが──。
「もしかしてあたしってば、絶対絶命?」
思わず日本語でそう呟く。
それにスーツの男は口元を緩ませ、彼女の両頬を顎から鷲掴みにする。
「日本語……ずいぶん上手な英語だったがやはりお前は──」
「ちょ、ま、まって! あと、1分! あと1分でいいからっ!」
「所属を言え。とはいえお前の所属は────」
その瞬間、スーツの男の言葉を遮るように石造りの天井が轟音を立てて崩れていく。
「っな、なんだ!?」
その場にいた6名は顔を見合わせ、すぐに慌てて天井を見上げる。
──破壊ッ!
埃っぽい瓦礫が崩れ落ちる音が石の壁に反響して響き渡り、同時に上からまた別の女性が2人、降ってくる。
ひとりはウェーブしたブロンドのロングヘアを携えた褐色の女性、もうひとりは茶髪の三つ編みを後ろで束ねた緑色の服装に身を包んだ女性。
「サリー! クララ!」
後ろで両手を縛られた彼女は2人の名前を叫びながら後ろを向いて、縛られた両手をクイっと上げてジェスチャーする。
「『ドスケベ日向ぽんと愉快な仲間たち 〜イギリス編〜 第1話 芽衣ちゃん絶対絶命!? 囚われの美女を助ける王子様は誰!?』 が初手打ち切りにならなくてよかった〜! ねえね、この両手縛ってるやつ外して!」
図々しく頼み込む芽衣と名乗るピンク髪の女性。
「めんどくさいからいちいち説明しないけど毎月死にかけるのいい加減やめてくれる? 大ピンチのサブスクでも入ってるワケ? もう今日あんた家着くまで両手そのまんまにしとくから」
「え〜んサリーちゃん冷た〜い! ねえクララ! ……今月の王子様にならない?」
「はぁ……生徒会の頃と変わらないですね。とりあえずそのまま反省しててください」
「あは」
両手縛られたまま何故か笑顔の芽衣を尻目に、サリーとクララは芽衣をさらった彼らを睨みつける。
「あーしってば気ぃ短いから今絶賛イライラMAXなんだけど──────」
周囲の空気を一瞬で変わり、サリーは力を集中させた。
眼光は鋭く光り、まるで内に秘めたエネルギーが彼女の体を包み込むかのようだった。
彼女の手が前に伸び、指先からは微細な光の粒子が放たれ、周囲の空気を震わせる。
「ここから出る前にあんたらに仲間を襲ってくれた御礼をしないと──」
とここで、クララが両手でサリーの右手を押さえて下げさせながら遮る。
「ちょっと待ったですよサリー。相手は幽拝会です。LOVERSと幽拝会は停戦協定中なので手を出すのは──」
「先に協定を破ったのはどっちだったかしら?」
「それでも、です! サリー、私の目を見つめて、己の中にある己自身とよく対話してください。大丈夫です、目的は達成しました。そうでしょう?」
クララはそう言ってサリーの両肩を掴み、そのアメジスト色の瞳で彼女の碧眼を見つめる。
すると、サリーは少しぼーっとしたようにその場で立ち尽くし、虚空を見つめたまま動かない。
「芽衣は無事ですよ。安心してください」
クララのその言葉でふと我に帰ったかのように首を振り、
「う、そうだったかも……。あーもう、わかったってば。じゃ一旦逃げ──」