第9話 南蛮貿易
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南蛮人が日本各地に上陸(そのほとんどが難破)するようになる。
そこで幕府は1552年に平戸に南蛮船を受け入れる国際港を開港した。
主に澳門(日本名:天川)から来た欧州人(主にオランダ人・ポルトガル人)が平戸に集結し、貿易を開始した当初は真新しいものが続々と平戸に出没した。
1557年にはルイス=デ=アルメイダによって日本で初めて病院が設立された。
ただし、我々が想像するような近代医療ではなく、キリスト教の影響を深く受けていることに留意しなければならない。
治療法として聖水やロザリオ、祈祷文などが利用され、神学的・呪術的な医療が大多数を占めた。
ハンセン病患者のための入院制度などが整えられて、日本における医療技術は大きな進歩を見せた。
救民のための孤児院の設立も熱心な宣教師によって行われている。
日本には嬰児殺しや姨捨の文化が未だに根強く残っていたため、孤児院は皮肉なことに盛況だった。
日本は繫栄を謳歌していながらも道路事情が劣悪なことに気付いた外国人は日本で初めてアーチ橋を建設する。
その他新大陸の情報がもたらされ、馬鈴薯(ジャガイモ)などと言った新大陸起源の作物も輸入されるようになった。
ジャガイモは東北地方や蝦夷地における飢饉対策の作物として重宝された。
日本には存在しなかった洋犬や象、アラビア馬、虎などが絵画の中で現れるようになったのもこの頃である。
商人や宣教師に混じって黒人奴隷の姿もあった。
日本から見た世界とはインドと中華と日本で完結していたわけだが、そうではないということを地球儀を見て有力者は理解することとなる。
南蛮人は黒人が多く住まうアフリカ大陸の南端に到達してからアジアにやってきていた。
東南アジア産のタバコが日本に流入し喫煙の習慣が民衆に広がり、機械時計が普及して正確な時刻が日本で流れ始め、盲目の人間を眼鏡という画期的なアイテムが救済した。
金属製の活字による活版印刷技術が宣教師ヴァリニャーノによって導入され、1592年に『平家物語』が日本で初めて大規模に印刷され、続いて1593年に『伊曽保物語(イソップ物語)』が初めて日本国内で大規模に海外産の書物が印刷された。
当初こそ難儀した日本とポルトガル間のコミュニケーションであるが、『日葡辞書』が1603年に出版されたことで一気に活性化し、これまで必要であった中華人の通訳を必要とせずにコミュニケーションをとることが出来るようになった。
特に南蛮からもたらされた文化は日本に大きな影響を与えたことは言うまでもない。
油絵や銅版画の絵画技術が導入され、オルガンやクラヴォ、ヴィオラなどと言った西洋楽器が平戸では奏でられ、ヨーロッパにおいては一般的な一夫多妻制や様々な倫理観、多神教と汎神論に馴染みの深かったそれまでとは違い一神教の教義が日本人に触れられた。
貿易の開始は人の往来を誘い、両国の間では技術交流が盛んに行われるようになった。
この頃から、欧州からの技術を総じて『青学』と呼ぶようになった。
特に幕府は技術者個人に高額の報酬を提示することで積極的に外国人技術者を雇用し、青学の教鞭を握らせる。
時には土地と武士の位を授けるなどして日本に縛り付けることもあった。
特に土木技術の分野におけるオランダ人技師の活躍はめざましかった。
オランダ人はその出身地故に土木には人一倍強かった。
そういった外国人技師と日本人とが力を合わせて各地でも土木工事が行われていた。
その他の分野においてもお雇い外国人が活躍し、日本国内の学術レベルは急激に向上することになる。
逆に日本からの主な輸出品目は銀と刀であったが、後に陶磁器などがこれらに加えられた。
特に灰吹き法によって得られた銀は海外から絶賛され、世界では『ソーマ銀』と呼ばれた。
彼ら商人は日本との貿易で利益を生み出し、大いに潤った。
まだ製鉄が出来なかったため、鉄や鉛、そして遠路はるばる東南アジアに向かいムスリム商人ともコネクションを結んで通商ネットワークを構築し、彼らからはインド産の胡椒が輸入された。
対して日本は銀によって交易していたわけだが、日本刀がヨーロッパ人にウケがよかったのか、大量に輸出されている。
あまりに売れるものだから、『数打物』として量産された価値の薄い日本刀も登場した。
また、漆器が芸術作品として評価され、高値で取引されていることがわかると全国で漆器ブームが到来する。
日本各地で南蛮人に伝統工芸品の売り込みが行われる光景が常態化して、ポルトガル人が辟易している日誌が残されている。
日本に上陸した異国人たちは貿易を活発に行っていたが、それと同時に一神教の『キリスト教』なるものを布教することにも活発であった。
当初は静観していた幕府だったが、その実情が彼らから漏れ出るにつれて危機感を募らせていた。
曰く、「キリスト教に改宗した兵士を使って日本を支配しようとしている」ようだった。
幕府は臨時で発足した伴天連目付によってその情報が真であることが確定的であることが分かった。
1584年、手紙の検閲を行った伴天連目付はとんでもない情報を握ることになる。
これはイエズス会日本布教長カブラルがフェリペ2世に宛てた手紙の内容である。
「私の考えでは、明の植民地化を行うのに7000人から8000人、多くても10000人の軍勢とある程度の艦隊があれば十分だろうと思います。……日本に駐在している宣教師たちが容易に2000人から3000人の日本人キリスト教徒を送ることが出来るでしょう。彼らは喜々としてこの征服事業に馳せ参じ、陛下のために働くでしょう」
この内容を知った幕府中枢は驚愕した。
日本人をキリスト教の先兵として明に進攻しようとしていたのだ。
この事実に幕府内では衝撃が走ったがしかしそれでも、幕府は彼らとの関係を断つことは出来なかった。
なぜなら、貿易による利益は計り知れないものだったからだ。
しかし幕府内でもこのまま貿易を続けるのか、禁教のために海禁政策へと方針をシフトするかで意見は割れた。
だが、最後は将軍の鶴の一声で現状維持の方針を決した。
このときの将軍は「問題は宣教師なのであって、貿易商人に罪は無し」と高説したとされる。
その言葉に不安を覚えたある老中は念のため、本当にイスパニアが侵略してきた際の備えが必要だと訴えた。
その訴えは尤もであり、これは幕府総出で対策を講じることになる。
その際に問題となったのが火薬を輸入に頼っているという実態であった。
火薬は主に木炭と硫黄、酸化剤としての硝石の混合物であるわけだが、当然ながらそのような事実を知られては商売にならないため、ポルトガルやスペインの商人は黙秘していた。
尋問されても知らぬ存ぜぬでのらりくらりとかわし続ける。
酷い人物は自国ではたくさん産出されると法螺を吹いた奴もいた。
そのような環境下で、幕府はこの火薬の研究を命じるのも当たり前のことであった。
だが貞親は貞親教訓書の中で既に解を出していた。
さらに硝石丘法によって硝石の量産体制を確立しており、日本は一気に火薬を生産できる体制が整った。
流石にポルトガル人やスペイン人は狼狽する。
黒色火薬の国産化は、日本が独力で彼らの国に挑戦する力を手にしたと同義であったからだ。
なお、火薬の作成法が伝搬すると最初に行われたのは土木工事における発破であった。
もともと火薬は元寇にて蒙古軍が使用したてつはうによって伝来しており、用途は専ら武力であったが、16世紀は人口の急増に伴い、日本国内は空前の土地開発ブームとなったことで、火薬に別の活路を見出した。
軍事的な目的で研究開発された火薬が生活のために利用され、まさかの民需転用されるというのは何たる皮肉だろうか。
だが、国と国の競争とは、武力だけが全てではない。
ポルトガルやスペインは日本や明が遠洋航海技術を保持していないことをいいことに、物品を右から左へ流すだけで莫大な利益を得ていたことも幕府の眉をひそめさせた。
とはいえ、日本は当時長期にわたる金山や銀山の開発が実を結び、金銀の生産が軌道に乗り始めたことによって好景気に沸いていたため、問題は軽微であった。
だから尚更、幕府としてはポルトガルやスペインといった仲介人が介在せずに自由な貿易を行いたいとも考えていた。
また、伴天連目付から報告されるキリスト教宣教師の動きも幕府中枢を緊迫させるのには十分の情報を毎日のように寄越していた。
民を改宗させたかと思いきや神仏像を破壊するならまだいい方で、自ら改宗したキリシタン大名が勝手に土地を寄進するだけでなく、日本人を海外に奴隷として売り捌いていた。
これを止めようと宣教師コエリョに対して将軍が文句を言うとコエリョも「日本人が日本人を奴隷として売っている」と言い訳をして喧嘩を売っていた記録も残っている。
特に九州で有馬、大友、大村などキリシタン大名が多かった。
キリシタン大名でなくとも、島津や龍造寺など九州諸国は南蛮人と商取引を行い、鉄砲や大砲を輸入していた。
そんな中、あるキリスト教宣教師が薩摩国が南蛮人と密貿易をしているという情報を密告した。
というのも、薩摩国は辺りのキリシタン大名の諸国に政治的ちょっかいをかけており、これを解決したい九州キリシタン大名がキリスト教宣教師に頼んだ結果、彼らは密貿易の密告という陰湿な情報戦を展開したのだ。
『九州北部のキリシタン大名(裏にイエズス会) V.S. 九州南部の薩摩国』という構図となっていた。
予てより惣無事令を出しているにも拘わらず横暴を極める薩摩国に辟易しているところであったが、もし彼らを処罰してしまえば薩摩国が押さえ込んでいたキリシタン大名の勢いが益々増大してしまうため、幕府は問題を先延ばしにしていた。
それでも幕府は思い腰を上げ、薩摩国に対して宣戦布告した。
九州平定の始まりである。
この戦役は日本では初めて火薬が大量に使われた戦争として日本戦争史に深く刻み込まれている。
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