第7話 海外貿易(アジア編) ★
稚拙ですが初めて画像挿入してみました。
国内では大改革の強風を起こす一方、前述したように国外の貿易にも改革の波を引き起こしていた。
東南アジアへの進出が始まっており、朱印と呼ばれた幕府からの許可証を持つ船団のみに貿易が許された(朱印船貿易)。
伊勢貞親は竜骨を持たない安宅船を考案する。
彼が考案した安宅船、それだけでなく和船には竜骨などの骨組みは存在せず、主に板材が外角の役割を果たしており、幅広の板を繋ぎ合わせて、端と端を梁で繋いだような、欧州のそれと比べれば簡素なものだった。
船の構造の差異の理由は、主に大洋を乗り越えるために発達したヨーロッパの船に対し、日本の安宅船はあくまでも近海の航行をする目的が主だったからだ。
外洋航海が少なかった日本船には、過剰な対波性能や耐久力は求められなかった。
また、中世には既に木材が枯渇しかけていた欧州とは違い、日本ではまだ幅広の木材が豊富に取れた。
日本は湿潤な気候と中華大陸から運ばれる黄砂の養分により、森林の再生力が絶大だったからだ。
そのためクスノキなどの板材をメインにした構造の船が作りやすかった(スギ、ヒノキなどの針葉樹は強度の問題で外洋航海には向かない)。
安宅船は建造にかかる人件費などといった生産コストが欧州の船と比べて低かったため、造船技術の敷衍が組織的に行われたことのもあり、各地に文章や絵図が残っている。
欧州式の造船技術のように細い板を繋いで作るより、幅広の一枚の板を使うほうが簡単だった。
安宅船の最大の特徴は低い技術で量産が出来るという一点に集約されており、その性能は欧州のガレオン船以下であることには間違いない。
だがしかし、当時の日本としてみれば高価で頑丈な船を一生懸命作るよりそれなりの強度の船を廉価で量産した方がコストパフォーマンスに優れていたのだ。
それに性能不足といえども風を読み、帆走することができれば東南アジアへの道は開けるほどには最低限の性能を有していた。
そんな安宅船にライバルとなる船が現れる。
15世紀、16世紀の日本近海の船の主役となった船、唐船である。
唐船は明から伝わった船、つまりジャンク船である(さらに元をたどればマレー半島辺りから伝わった)。
ジャンク船は安宅船の性能に加えて隔壁が存在し、これは肋材のような補強の役割を持つ。
船体の一部が破損して浸水しても隔壁のお陰で全体に水が浸水することを押えられる効果があった。
ブラインドのように蛇腹のようになっている独特な帆(網代帆)のお陰で急な突風などにも素早く対応することが出来た。
横桁にはロープがそれぞれ繋がっていて、これを操作して帆の向きや形を調節し、風向きに合わせて四角帆と三角帆の両方の機能を切り替えることも出来る。
大型のもので排水量は500トンから600トン、乗組員は100人から120人程度、耐用年数は10年から20年であり、これはガレオン船と同等の性能だった。
伊勢貞親はジャンク船の可能性を理解するとすぐさま明の造船技師を呼んで日本各地に造船所を作らせた。
また、後年には潤沢な木材資源のある東南アジアの日本人町に於ても唐船の造船が始まることとなる。
特に豊富な木材資源と造船技術の揃う暹羅では日本人による造船事業が活発化した。
他にも東南アジア各地の港町には日本人町が出来つつあった。
中圻、交趾、占城、太泥、分寧、馬尼剌、揚張などで特に大きな日本人町を形成していた。
交趾(後に交趾支那と呼ばれる)を支配する阮氏は対外貿易の発展によってその財政を豊かにせんとして、領内の港湾を解放して外泊を招致した。
交趾の港湾において、貿易上圧倒的勢力を有していたのは朱印船と支那船であったようである。
阮氏は日本人と支那人とにフェフォを与えて町を営ませた。
ツーラン湾に投錨すると交易地フェフォに商人が向かい、商品を売りさばき、対して現地では銅や銅線を特占的に買い上げた。
在留日本人が貿易上の覇権を掌握すると、支那人や現地住民若干数名にジャンク船を艤装させて生糸や焼き物、鉄鍋、香料、胡椒、その他唐物を積載しては日本に輸送した。
また日本人の交趾への進出は精神面によるところも大きいとされている。
日本人のキリスト教徒は自国においては自由にミサや説教を聞き通信を交わすことさえ出来ないので、貿易の利よりも、むしろ精神の善を探し求めてこの港に集まったのではないかと思われる。
例えばある日本人が死亡した際、教会堂に埋葬されたいと願い出て、埋葬の比にはキリスト教徒は大っぴらに十字架をかざして葬式の行列を成して教会堂に集まったという。
キリスト教の禁教令は交趾の日本人町までは適用外だった。
この日本人町は何度か火災に遭っているわけだが、なんと当時すでに日本の中では画期的だった石造による耐火家屋であった。
さらに驚くべきことに、さながら租界のように日本人は各自の町にそれぞれの奉行を設置して日本人による法律に従って生活していた。
居留民の中から一人の頭領を選任して租界長とし、全くの治外法権が許された自治制の町であったと思われる。
交趾の隣邦である柬埔寨にも商船が渡航した。
当時柬埔寨において諸外国人の船舶が輻湊して交易を営んだ場所はメコン川の遥か上流であるチャド・ムーク(現在のプノン・ペン)である。
辺りには日本洲や日本丘、日本河など日本の名を関する地名が歴史資料に記載され始める。
柬埔寨王国は交趾とは違って、完全な自治は許容せず、半自治的な統治の形式がとられていた。
柬埔寨国王は、同国在住外国人及びその商人などを統制して、港務、貿易、船舶事務を管掌し、更に土地の官吏と諸外国貿易商などとの中間にあって、諸般の用務を執行するため、柬埔寨人以外のアジア人種出身のシャバンダール(港務長官)を各居留地に1名ずつ選任した。
シャバンダールはその居留地の行政的な支配並びに、彼らの裁判にも裁判官として関与するなど、強権を振るっていたが、それを辟易するかの如く日本人は奉行を設けて自治に努めようとしていた。
時代によってはシャバンダールに日本人が選任されることもあった。
暹羅との通信の歴史は1389年まで遡ることが出来る。
1563年に暹羅からの大ジャンク船が肥前の横瀬浦に入港、1565年にも五島に来航しており、歴史もさることながら研究も活発である。
日本人町は王城の南方、メナム川の東岸にあり、対岸にはポルトガル人の居留地、北方にはオランダ商館が隣接していた。
日本人町を統括する頭領も現れており、自治権を獲得していた。
日本人と同様に暹羅人、ペグー人、支那人、マカッサル人、マレー人、交趾支那人、柬埔寨人、オランダ人、ポルトガル人など多種多様な人種が彼ら自身の頭領の下に暮らしていた。
頭領は居留地の事項に関して、暹羅国王が特に任命したマンダリンと呼ばれる官吏と共に事を決定する必要があった。
但し重大な事件の場合、マンダリンには決裁する権限はなく、バルカロンにこれを移管していた。
バルカロンとは暹羅の財務、貿易、外務を総括する長官又は大臣とも言うべき顕職である。
暹羅に限ったことではないが、柬埔寨や交趾などインドシナ半島では鹿皮や鰐皮、鉛、蘇木などが輸出されている。
それらの地に移り住むことを幕府は奨励した。
日本人はその地を開墾して交易に頼らずとも自立して生活できるようにするなど勤勉に働いた。
特に揚張は何もない土地をゼロから開墾して良質な港町にしている。
揚張港は日本に一番近い呂宋島の港として繁栄を極めた。
それに、揚張港は朝鮮半島などの大陸を除けば最も近い海外領土であったため、日本人町が殊更大規模であった。
やがて日本人と現地人との間で交配が進み、日本の文化と言語を持つ彼らは後世『日系人』、英語圏では『ジャポニクス(ジャパニクス)』と呼ばれる。
交趾のフェフォには2500人、ツーランには500人、柬埔寨のピニャールーには1000人、プノン・ペンに2500人、暹羅のアユタヤには30000人もの日本人が移民として押し寄せたと言われている。
対外貿易において金銀の流出を防ぐために対明(清)や対欧州(東南アジア地域)の輸出品目の拡大に着手し、広大な蝦夷地の開拓に乗り出すために蝦夷地や樺太、千島の調査を行った。
中華料理に需要が多かったフカヒレやアワビ、イリコなどの蝦夷地の海産物を主力として増産し、逆に清との貿易において銀を稼ぐことに成功している。
これらのものを俵に詰めて輸出したため、『俵物』と呼ばれている。
金銀の産出や貨幣経済の発達により、この100年間、日本では年2%ものインフレーションを記録した。
現代では健全なインフレ率だと言われる2%だが、同時、物価は不変的なものであるという認識ゆえに大きな混乱が巻き起こる。
商品作物などを売る商人が力をつけ、都市部で台頭していくことになる。
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