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第6話 蝦夷地進出

 義尚は子供に恵まれなかったが、家督は足利義稙に譲り10代将軍足利義稙(よしたね)が誕生した。

 彼が主に行ったことを羅列することは難しく、強いて言えば、先代の政策の完遂であった。

 まだ土地の開拓は言わずもがな、治山治水工事は中途半端、鉱山開発も軌道に乗っておらずマイナス収支、紡績業はそもそも始まってすらいないという酷い有様であった。


 老中たちの中にはこの土地改革に懐疑的な視線を注ぐ者もあらわれていたが、義稙は彼らの意見を一蹴した。

 彼には長い歳月と金と権威を濫用して行われている一大プロジェクトを止める勇気はなかったようであるが、もし、足利義稙が方針転換していれば、これら全てが中途半端になっていた可能性を考慮すれば、決して彼を無能呼ばわりはできない。

 影が薄い彼だが、縁の下の力持ちであったことには違いない。

 これらすべてのタスクが完了する頃には10年以上が経過しており、彼ができることはもうあまり残されていなかった。

 その上、足利義稙が征夷大将軍になったころには将軍職というものは実務的なものから権威的なものへと緩やかに変貌を遂げており、彼の活躍がなくても世間は回り続けることが可能であった。

 将軍の代わりに実務を行うのは老中らであった。

 将軍という存在は政治の表舞台から少しずつフェードアウトしていき、政治的に重要な一つのファクターという位置づけに落ち着いた。

 彼の仕事は下から上ってきた提案に対し、我を通すことは珍しく、そのほとんどの場面において裁定を下すのみであったという。


 この頃から日本の人口は爆発的に向上しつつあり、これに飢饉が直撃すると大変なことになると危惧した老中各員はさらなる新田開発を唱えたものの、東北地方の気候では収穫高は思うように上がらず、困り果てていた。

 これには伊勢貞親が奨励した畜産業が影響していると言われている。

 家畜の食糧は人間の食糧と競合する場合が多かったばかりでなく、牛は人間の4倍、馬は人間の8倍の穀物を消費した。

 とある民は「()()()()()()()()」と表現した。

 実際、日本人の人口は2500万人で頭打ちとなっており、代わりに馬は100万頭、牛は150万頭、その他羊や山羊も含めて家畜の総数は400万頭を上回ったという。

 これ以上土地開発をして食糧を微増させても、そのキャパシティを上回る勢いで人口も増えるのが世の法則である。

 そこで提唱されたのが蝦夷地への入植である。

 もともと、蝦夷との交流もわずかながらにあった東北諸大名を窓口とし、まずは函館を入植地とした。

 当初は流刑や姨捨(おばすて)の意味を含みつつあった蝦夷地だが(文献の中には蝦夷地を『姨捨島』と揶揄しているものもある)、村が飢饉で参っていたところに舞い込んできた東北大名の肝いりで始まった蝦夷地開拓というプロジェクトの話を耳にし、村総出で蝦夷地に開拓をしに来ることもあったようだ。


 幕府もこの地を放置することはなく、蝦夷地に対して探検隊を編成し派遣した。

 目的は蝦夷地の地理的特徴を調べ上げ、また、新たな文明との交易を目的としていた。

 また、100年かけた八州の土地開発によって飽和状態となった日本人の捌け口を、つまり良質な土壌を探す目的も付随していたため、稲作が可能かどうかの前段階の検地も行われた。

 蝦夷探検隊は現地のアイヌ人の案内を受けながら、本州から遠く離れた奥へと足を進め、その地理的特徴をまとめ上げた。

 その時にまとめ上げた地図はアイヌ語を無理やり片仮名で表し記されたため、現在では漢字に置換されたりもしたが多くの場所でアイヌ語が由来の地名が用いられている。

 その時に蝦夷地の北にあった北蝦夷(樺太)や列島(千島)、さらにその深奥である半島(多里也(たりや))を発見し、そこにも探検隊を派遣した。

 しかし、その厳しい気候のために、多くの探検隊員は凍死し、その被害を鑑み、探検隊はそれ以上奥地に行くことを躊躇し、最終的には撤退したがその成果は将軍を満足させるには充分の成果だった。

 その時に発見した蝦夷地北方の内海を『北海』と暫定的に名付けたが、それが現在にまで受け継がれ、今もなおその名前は北海地方という形で名を残している。


 それはさておき、蝦夷地では砂金が取れるという噂話がどこからか流れてきた。

 そして、実際に行って川で採集してみると、本当に砂金が取れたのだ。

 東北大名は箝口令(かんこうれい)を敷いた形跡が見られるが、残念ながらこの情報は噂話とは比較にならないほど風のように素早く本州に届けられた。

 蝦夷地ゴールドラッシュの始まりである。

 一攫千金を夢見た人々が次々と寒い大地に降り立ち、凍えるような川から砂金を集めまくった。

 その中には薩摩出身の者もいたのいうのだから驚きである。

 だが、このゴールドラッシュは思いの外早期に終結する。

 実は蝦夷地の砂金は大した埋蔵量ではなかったためだ。

 しかしそのわずかな間、本土の人々が生活できるためのインフラ整備に没頭するものが現れる。

 理由は「儲けるから」の一言に尽きた。

 このゴールドラッシュを冷静に見つめる者たちは、数々の道具を販売し、一攫千金への挑戦者へ等しく挑戦権を与える役割を負った。

 津軽海峡を往復し、鉱夫を蝦夷地に、現金を本州に送り届けた『津軽便船』は後に太平洋全域で船を走らせることになるが、それはまた別の話。

 そのような者たちがいつしか日本人居住地を作り上げ、蝦夷地には数々の日本人町が完成する。


 ただ、そこでは本来本州では問題にならないことが住民の頭を悩ませた。

 それは、安定した収入源がないことである。

 砂金は価値があり、それを掘るために道具が持ち込まれる。

 その道具にも当然値打ちがあり、日々取引されている。

 見てわかる通り、蝦夷地の経済活動は砂金に大きく依存しているモノカルチャー経済だった。

 一応、アイヌの民や満州地域と交易で名をあげる者や、北海の豊かな漁場を見つけて漁撈に従事して定住する者もいるにはいたが、やはり大部分は金発掘であった。

 本州ではこのようなことはありえないことだった。


 なぜなら、本州では稲作ができるからである。

 水田があり、飢饉に見舞われなければ、日本人は勤勉に働いた報酬として明日の生活は保障されていた。

 しかし、ゴールドラッシュに沸く蝦夷地では物価の上昇は本州と比較した場合法外な値段まで吊り上がっていたし、鉱夫は貯金という概念が無いといわんばかりにあぶく銭のごとく浪費した。

 そもそも蝦夷地は稲作を行うにはあまりにも厳しい大地だった。

 稲作が出来る地域は精々蝦夷地南部(渡島(おしま)半島)に限られていた。

 一時的に大和人は蝦夷地から大きく数を減らした。

 稲作ができないため、今日の糧明日の糧は狩猟に頼らざるを得なくなり、極寒の冬は薪を必要としたために森林伐採が加速し、生態系が再起不能なレベルで破壊される。

 生態系が破壊されると来年の狩猟に悪影響を及ぼす。

 負のスパイラルが短期間のうちに完成してしまったのだ。

 居留地の拡大は湿地帯の埋め立ても加速させたため、野鳥の狩猟にも悪影響を与えた。

 たった5年で深緑だった山が禿山に変わり果てた例もあるほどである。

 この時の蝦夷地の歌人は皆一様に本州とは違う茶色の山を詠んでいる。

 だがしかし、環境破壊についての憂慮というのはごく稀で、勇ましさや猛りを表現している歌が多い。

 当時はまだそういった視点で森林を見ていなかった何よりの証明であろう。


 このような環境で憤慨したのは他でもないアイヌの民だった。

 先祖代々守ってきた土地を勝手に荒らしまわった挙句、更にはアイヌ人は貨幣の概念を持たないために不平等な物々交換が日夜行われており、アイヌから見てれば大和人は侵略者そのものである。

 このような環境破壊によって大和人だけが被害を被るならばまだしも、アイヌにも食糧危機などの災禍が降り注いでおり、いいとばっちりであった。

 当初は抗議を行うにとどめていたが、多くのアイヌ人は反省するどころか侵略を加速させる大和人に憤りを隠せなくなり、日本人町では絶えずアイヌ人と大和人の刃傷沙汰が多発していた。

 これを憂慮して幕府は蝦夷地評定所(裁判所)を開いたが、アイヌ人の口伝による習わしよりも、しっかりと明文化された大和人の法律が優先され、大和人にその自覚はなかったとはいえ、彼らにとってみれば裁判においても不平等な立場だった。

 また、大和人とアイヌ人の円滑なコミュニケーションができる人間は極少数だったことも両者の隔絶を拡大していた。

 大和人は蝦夷地の生活に馴染むにつれて、東北の訛りとアイヌ言語の混合語のようなものを喋り始めた。

 これは口頭語に限定され、文字は普段通りの日本語にアイヌ語は片仮名で代用されたが、そのような新蝦夷語をアイヌの民は喋れるわけではない。

 そして遂にアイヌ人たちによる焼き討ち事件が勃発した。

 それに呼応してか、各地で焼き討ち事件や打ちこわしが多発する。

 これは突発的なものではなく、綿密に計画されたものであると幕府が認めると東北の大名に動員をかけ、大和人の保護を命令する。

 日本の武将はアイヌ民族が用いる毒矢に苦戦を強いられていたものの、一所懸命の精神で日々鍛錬を積む彼らの敵ではなかった。

 最終的に反乱は鎮圧され、アイヌ民族は函館条約を結ばされた。

 内容はアイヌ民族の大和人への従属と言ってよいものだった。

 こうしてアイヌ民族は大和人の文化への順応を強要され、いつしか彼らのマイノリティは淘汰されていった。

 当時そういう概念はなかったが、後の世でいうところの同化政策である。

 現代、アイヌ民族を詐称する人はいるものの、専門家は1893年の最後の多里也半島のアイヌ人の死亡を最後に樺太アイヌ、千島アイヌを含め絶滅したものと結論付けた。

 彼らの存在を証明する術はこれらの資料に加えて、数枚のモノクロ写真しかない。


 一方産業面では新たな萌芽が芽生えようとしていた。

 それは畜産業である。

 起源は農耕の働き手であった牛が食用として食べられ始めたからだとされ、義尚が奨励したからというわけではなかった(当時はまだ奨励されていたとはいえ仏教的価値観の強い世の中であった)。

 農業用に持ち込まれた牛だったが、本来の活躍を見込めないまま寒波にやられることが多かった。

 ならばせめてと食牛文化があちこちで見られるようになる。

 それに伴い、牛の牧畜が始まったのだ。

 元々本州では牛の牧畜のノウハウがあったため、牛が本州から連れられるにつれて牛の牧畜も緩やかに広まっていった。

 それに加えて蝦夷地の土地柄が牧畜業を味方した。

 本州と比較して未だに未開拓の平野部が多く存在していたため、まさにうってつけだったわけである。

 ちなみにいまだに東北では食牛は禁忌として扱われ、蝦夷民には唾罵の目線が送られたが、当の蝦夷民からしてみれば食料はこれか狩猟、もしくはアイヌの民から齎される海産物しかないのである。

 それに異種間の風習に触れてきた蝦夷民はある意味チャレンジャーとなって、食べれるものなら何でも食べる悪食文化を生んだ。

 これが蝦夷民魂のルーツとなる(実際はただの根性論)。

 この文化が未知の病気を引き起こし、蝦夷民にとって差別の時代となる。

 だが蝦夷出身の科学者らがこれらの病気の原因を次々に解明していき、次第に蝦夷民の名誉は回復されていく。

 それはともかく、この悪食文化が解決するのは、寒さに強い東北米が蝦夷地でも波及し始めたことだった。

 東北米による稲作は当初から行われていたが、微妙な気候の違いによって稲作は失敗続きであった。

 しかし、それでもめげずに品種改良を続けたことによってようやく蝦夷地の気候に耐えうる稲が誕生し、これは『蝦夷米』と呼ばれた。

 その後も蝦夷米の収穫高は年々向上していき、普及し始めて30年も経つ頃には東北地方の石高に匹敵するほどまでに上昇していたのだ。

 幕府は蝦夷地(日高州)、北蝦夷地(樺太州)、千島列島(日高州千島郡)、多里也半島(多里也州)を幕領と認定し、年貢を徴収し始めた。


 また馬の畜産も活発化した。

 蝦夷地の馬は本州の馬と違い、とても力の強い馬だった。

 上手く家畜化に成功した人はそれを幕府に送り、幕府はこの馬の育成を奨励することになる。

 本州の木曽馬は徐々に道産子に置換されていくようになったが、それにはかなりの時間を要し、完全な置換が完了したころには海外産の優秀な馬(アングロアラブ、アンダルシアなど)が国内に多数輸入されたため残念ながら道産子の立つ瀬はなかった。

 しかし道産子が日本に齎した役割は非常に大きく、本州で街道が石畳で整備されると籠の時代から馬車の時代となるのだが、その時代を支えたのは間違いなく道産子だった。


 稲作が出来ないならば漁業だと言わんばかりに漁業が発達し、刺し網漁や巻き網漁によって(にしん)などが漁獲された。

 塩焼きや揚げ物、干物や燻製、切り込みなどで米に変わって主食とされたほか、身欠きニシンは冷蔵技術の発達していなかった当時は貴重な保存食であり、蝦夷地山間部で食べられた以外にも本州に輸出されたり、船乗りのお供となるなど、重要な貿易手段となった。

 食用以外でも高窒素肥料の金肥として鰊粕は商品作物の肥料として活躍したが、製造する過程で高火力で煮上げる必要があったため、薪、木炭の生産のために森林が伐採され環境破壊が進んだ。

 稲作が出来なかった頃は幕府に対してこれらの海産物を収めてお茶を濁していた。

 幕府側としても稲作が困難であることを理解していたため米の年貢は要求しなかった。

 その代わりに明と交易をおこなうための俵物を要求し、それによって得られる利益を実質的な年貢とした。

 小樽や留萌、稚内などの沿岸地域には漁業によって巨万の富を得た網元によって鰊御殿が立ち並ぶほどであったという。


 蝦夷地の政策策定に奔走していた幕府だったが、今度は南部から新技術を携えて幕府の肩を叩く者達が現れる。

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Pixivで架空地図を作成しています。

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