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第5話 国家改造計画(第二次土地開発)

投稿した後ではありますが、実はこれまでの全ての話にて改稿を行っています。もし時間が空いていたら、ぜひ確認してみてください。削った部分は後に回して、逆に増量している場所もあるため、少々混乱をきたす場合がございます。

 1475年、長きにわたって幕政を支え続けてきた伊勢貞親は死去した。

 伊勢貞親亡き後、将軍足利義政は家督を息子の足利義尚に継がせて隠居生活を送るようになる。

 貞親にとって、本来の幕府の権力を独占するという目的は自身の死によって達成されなかったが、平穏無事に将軍継承は粛々と行われた。

 幕府にとって昔ならば、伊勢貞親の喪失は両手両足の壊死に等しい損害であったが、先代たちの努力の甲斐があって、新しい四肢が芽生えていた。

 彼の独裁(ワンマンプレー)がなくとも老中たちが将軍、幕府を支える役目を全うする気概があった。


 ()()()()が最初に実践したのは土地開発による生活圏の拡大である。

 だが、これが最初で最後の仕事になるとは彼自身思いもよらなかっただろう。

 彼の寿命もそうだが、土地開発は長い時間をかけなければならなかった。

 まず先代に続いて全国に二毛作や三毛作を推奨、続いて灌漑工事や治水工事などを大々的に行って新田開発を奨励した。

 理由は当然飢饉対策であるが、民衆が暇になれば一揆を起こす口実となる。

 百姓は生かさぬよう殺さぬようと言うが正にその格言通りに殺すギリギリまで働かせ、百姓をコントロールし、その日を生きるのが精いっぱいで反乱を起こす時間を許さないという状況を演出した。


 しかし、寛正の墾田永年私財法とも呼ばれるほどの新田開発の奨励によって幾ばくかの障害が出てきた。

 奨励とは言うものの、実際には荘園制度が事実上復活してしまう恐れがあったため個人が開拓できる面積は制限されていた。

 しかしその不安は杞憂に終わる。

 経済活動が活発化し、日本国内で初めて物価の上昇が確認されて、土地転ばしの旨味が激減するなどして荘園が生まれることはなかった。

 問題はそこではなく、真の問題は土地の帰属問題である。

 当然義政は間接的であっても特別な許可がない限り他国の領土を開墾することは禁じたため、陸上で問題になることは少なかった。

 それでも、ただの森であっても薪の産地となり得る日本では、いくらかの事例は存在したわけだが。

 仮に問題となっても、大抵の場合中間の国境線を引けば互いに満足することが多かった。

 そもそも国境線がざっくばらんで、いい加減だったというのもある。

 特に問題に発展したのは海上や湖沼の土地問題である。

 これらの問題は時として全国各地で暴動という形で幕府の負債として降りかかる。

 次から次へ舞い降りる裁判沙汰に耐えかねて、遂に将軍は専属の部署(土地評定所)を用意した。

 土地の裁判は必ず問題の二者に加えて、評定所が介入し、特に二国間の土地の開墾については絶対に介入することが取り決められた。

 その過程で海岸の開発できる距離を制定し、その距離は海岸から3里(約11.78km)とされた。

 日本で初めて、いや、世界で初めて『領海』という概念が登場したのである。

 また、この政策の裏には円満に土地開発に励ませようとすると同時に、二国間が協力して土地開発に着手しないようにするだけでなく、その気になれば幕府が土地開発の主導権を握ることも可能であるという意図があった。


 また特に淀川の治水工事は優先事項のようであったため、かなりの人員と金を使って工事が行われた。

 槇島(まきしま)堤を築くことで京都盆地南部に流れ込む淀川の流れを巨椋池(おぐらいけ)に直接流れ込む形から、伏見への流れに変えたことである。

 このことにより淀川は京都防衛のために伊勢貞親によって桃山丘陵に築かれた伏見城の外濠の役目を担うことになるとともに、水位が上がったことにより伏見城下に港を開くことを可能にした。

 それまで沼地であった宇治は水捌けがよい土地に生まれ変わり、チャノキの栽培にうってつけの場所となった。

 宇治茶は幕府内でも愛飲される御用達の茶となるまでそう時間はかからなかった。


 後年建設されることになる大坂城の外堀とも結合し、伏見城と大坂城が水運によって連結されることになった。

 また、長享堤を伏見・淀間の宇治川右岸に築き、流れを安定させたことで、水害の破壊力が減少し、伏見は交通の要衝として栄えることになった。

 淀川を交通の要衝として更なる発展を目指すための河川の開削も積極的に行われた。

 恒久的な運河として高瀬川、大阪では道頓堀を開削し、水運や橋梁の整備に奔走した。

 新田開発のために巨椋池の干拓も推進され、これにより淀川流域の森林伐採が加速し、居住地が微増する代償として、加速する森林伐採に土地の再生が追いつかずに土砂災害や河床の上昇による氾濫が相次いだ。

 この過程で巨椋池は()()()()()姿()()()()()

 これには定期的に民衆を動員して浚渫を行ったが、根本的な解決には至らず、これが解決するのは1世紀先の砂防工事の竣工を待たねばならない。

 河川運搬には畜力が専ら利用された。

 運河を通行する船舶を馬が牽引するなどして活躍した。

 帆船も利用されていたようだが、取り回しの問題でやはり馬の方が便利だったようである。

 強引ではあったが馬を10頭近く準備できれば川を上って輸送することも可能だった。

 以上の治水工事によって京における輸送能力は飛躍的に向上する。

 京都が中心だったとはいえ、他の地方でも負けてはいなかった。

 中国地方では宇品にて大規模な埋め立てが行われ瀬戸内海の島々が山となり、東北地方では琵琶湖に次いで大きな八郎潟そのものを干拓し耕作地と化した。

 東海地方では洪水のたびに大暴れして甚大な被害を引き起こした木曽三川(木曽川・長良川・揖斐川)の分流工事が行われ、水害を克服した。

 その昔には木曽三川は網状の河川であり、洪水のたびに河川の経路が変わるような状態だった。

 油島締切堤と大樽川洗堰と逆川洗堰の建設を行い、標高の低い西側を洪水から守ろうとした。

 油島締切提は後に千本の松が植えられたことから千本松原と呼ばれている。

 この締切堤は岩ごときでは流されてしまうことから、岩を積んだ船ごと沈めるという荒業で解決を試みた。

 とどめと言わんばかりに大槫(おおぐれ)川などの長良川の派川も締め切って完全な分流に成功した。

 木曽側から分岐する佐屋川も廃止し、代わりに長良川と合流する部分を掘削拡張し、仕上げに木曽長良背割堤で二つの河川を完全に分離した。

 ケレップ水制によって川の流れを弱めたり向きを変えるようにして背割堤の決壊を防ぐという新技術も登場した。

 海に突き出るようにして作られた導流提は河口部で川の流れが弱まり、土砂が堆積するのを防いだ。


 越後平野では標高100mの山を掘削して大河津分水が完成し、洪水を起こせば甚大な被害を与えていた信濃川も流域面積が減少して都市開発が捗り、米の品質も改良された。


 これらの土木技術にはオランダ人技師の活躍もあったといわれている。

 オランダ人はその出身地故に土木には人一倍強かった。

 そういった外国人技師と力を合わせて各地でも土木工事が行われていた。

 その他の分野においてもお雇い外国人が活躍し、日本国内の学術レベルは急激に向上することになる。


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Pixivで架空地図を作成しています。

https://www.pixiv.net/users/84505225

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