第4話 身分はそれ相応に
足利義政は伊勢貞親の援護のもと、体制の大改革を実行、正確には断行した。
まず、人民の身分を刀狩りで朧気に述べた以上に明確に区別した。
最初に武士の中でも10000石以上の土地を保有する武士、大名について、足利一族を親藩、三管領と六職を譜代大名、それら以外を外様大名と定義した。
特徴としては、親藩、譜代大名を京の近くに配置し、外様大名を遠国に改易したことだった。
親藩は足利宗家が滅亡した時のピンチヒッターとして将軍となることが可能な大名家である。
これによって源氏のように宗家が断絶した後でも将軍を輩出することができる。
また武家諸法度で大名の権力を大幅に制限した。
大名が幕府の許可なく城を築城、修理することや結婚を禁じるなど、あらゆる権力は禁止、もしくは幕府の介入が必要とされ、弱体化した。
数々の賦役も課されたわけだが、とりわけ強力だったのが参勤交代である。
この制度は、大名の妻子を京に住まわせるばかりでなく、大名本人も1年若しくは数年に一度京に参陣し、京に住まわせた。
これにより妻子を人質にとり、大名の謀反を防止するだけにとどまらず、それらの諸々の出費は大名に負担させることで大名の財政を圧迫させる目的があった。
当然のことながら外様は京から遠国に位置しているためその出費は馬鹿にならず、大きく国力を削がれることになる。
外様大名に限れば、参勤交代を免除するかわりに対外戦争に駆り出されることもあった。
さらにそれでも謀反の可能性を捨てきれないため、大目付や遠国奉行によって徹底的に監視されていた。
何か不穏な動きがあればその情報は参勤交代制度によって発達した道路によってすぐに幕府中枢に届けられた。
後年には腕木信号が発明され、これによって1時間もかからないうちに九州の出来事が京に伝わる体制が整った。
後述するが、この腕木信号は朝鮮半島の監視も担っていた。
次に朝廷や公家の統制について述べると、禁中並公家諸法度があげられる。
元々は公家諸法度であったが、後に禁中も加えられた。
勝手に大名の官位を与えることを禁ずるなどが含まれていたのだが、特に重要だったのは「天皇は学問に打ち込むべし」と記述したことである。
これはつまり、天皇の立場を明確に定めたことに他ならず、これにより朝廷や公家に対する権力の削減に成功する。
この時に与えられた天皇の領土は3万石
続いては大名以下の武士である。
武士はいわゆる特権階級であり、苗字を持つことや帯刀などが許されていた。
一応、当時常備軍の概念が乏しかったために、ひとたび戦争となれば京に馳せ参じる兵役の義務を負っていた。
しかし、実際には役人になることが多く、譜代大名の下で働く武士は奉行衆に就くことが大多数であった。
そして、最も大多数を占める身分が百姓である。
その生活は自給自足に等しかったが、大名経由で年貢を納める義務を負っていた。
幕府の経済を下から支えていたのは間違いなく百姓であり、彼ら失くして世の中は回らなかった。
その一方で特権階級からは下に見られており、それに対して八つ当たりするがごとく穢多・非人に差別する社会構造が出来つつあった。
これらの身分の統制によって室町幕府は跳梁跋扈する大名の統制と百姓による財政の基礎を固めることが出来たのである。
しかし当然、既得権益を享受する人間にとってはあまり芳しい政策ではなかった。
特に細川一門にとっては不満であった。
細川氏は此度の権力闘争の結果、畠山氏、斯波氏の零落のため三管領の中でもとりわけ強大な力を保持するに至ったわけだが、譜代大名として彼らどころか六職と同列扱いとなり、実質的に地位が低下してしまった。
細川一門は現体制に不満を持つ外様大名に対して応援を呼び掛けた。
だがそれは遅かった。
既に幕府は全国支配を確立しており、不穏分子がどこかしこに存在するような乱世の時代はもう終わっていたのだ。
細川氏の反乱扇動未遂を幕府が当然許すはずもなく、細川氏に征伐軍を派遣する。
細川氏の援軍が思った以上に集まらなかったことが理由で派兵される前に細川氏は降伏し、譜代大名の立場を甘んじて受け入れることになった。
譜代大名としての地位に留まることが出来たのは、京都動乱の時代に様々な場面で活躍したことを踏まえて細川家のメンツを立てたからだと言われている。
ただし、当然のことながら細川氏も減封を受けることになり、彼らも零落した一門という立ち位置になってしまったのだった。
晩年、細川一門は辛うじて譜代筆頭の地位を保持していたものの、実態は火の車であった。
細川一門だけでなく、細川に与した諸大名にも仕置が下り、ただでさえギリギリだった東北諸大名は没落大名へと転落していく。
改易によって空になった土地は僅かながらに普代大名に分け与えられたが、そのほとんどを幕領とし、統治を容易にするだけでなく、東北関東への睨みも利かせていた。
また、身分の統制と並行して足利義政と伊勢貞親は大規模な行政改革にも着手した。
将軍の下には政治を総括する老中が5人、様々な政策を執り行う奉行衆(特に畿内奉行(畿内の町政)、勘定奉行(幕府の財政・幕領の監督)、寺社奉行(寺社の取り締まり)は『三大奉行』と呼ばれるほどの権威を保持していた。
老中を補佐する若年寄や朝廷の監視を行う禁中所司代、関東大名、東北大名の監視を行う鎌倉城代などが順次機能していくようになり、大名が謀反を起こせる体制は徐々に封じ込まれつつあった。
極めつけは1469年に発布された惣無事令であり、これは幕府が認可しない合戦は全て罰するという後の世でいうところの喧嘩両成敗にあたる律令が出来上がり、現体制に不満を持つ大名にとっては手詰まりとなってしまった。
所詮幕府が勝手に言ってるだけ、と高を括った六角氏はその後に悪夢を見ることになる。
1472年、伊勢貞親はまたしても外征に出撃し、六角征伐を命じた。
この時集まった大軍は雲か霞かと言われるほど集結し、敵の大将である六角高頼は甲賀にてゲリラ戦を仕掛けるしか対抗する術はなかった。
結局六角高頼は伊勢へ逃亡するも、彼の行動は筒抜けであり、伊勢で北畠氏の軍勢に討ち取られた。
六角一族は諸共奥羽の僻地へ左遷させられた。
このように、今後反乱が起こるとその大将や一族は奥羽や高砂国、蝦夷地に実質的に流刑にして、各国の大名への見せしめとすることで恐怖政治を敷いていた。
それらの大名は外様大名と呼ばれ、彼らの子孫は歴史の大部分においてひどく冷遇されることになる。
各々の大名が幕府の威信を肌で感じずにはいられなかった。
しばらく見れなかった日本列島の安寧が戻ってきた。
未だに外様大名の謀反は警戒されていたが、参勤交代や治山治水工事の財政的負担を強いたことで外様大名の力を削ぐことに成功しており、謀反を起こしたくても起こせるような状況ではなくなっていた。
民衆による一揆は度々起こっていたが、形式的には幕府の命令によって大名が民衆に命令を発布していた。
そのため、政治に対する怒りの矛先は大名に向いていたため、直接的に幕府に不満が続出するような事態にはならなかった。
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