第36話 日露戦争
1875年、ロシア帝国は李氏朝鮮に対して宣戦布告、次いで日本にも宣戦布告を行った。
これによってイギリス帝国がロシア帝国に宣戦布告し、日露戦争(またの名を朝鮮戦争)が勃発した。
開戦初期、ロシアの目論見通り、イギリスは手出しすることが出来なかった。
既に艦隊はアジアに展開済みであり、イギリスには軍事的に介在の余地がなかった。
おまけに日本も南方に多くの植民地を持つため、出力は多くとも80%程度になるはずであり、戦力が集中する前に朝鮮半島を下せば勝機はあった。
当の李氏朝鮮王朝政府は清に協力を要請したものの、10年前に敗北したばかりで、革命騒ぎになっている清が手出しできるはずもなく、にべもなくそっぽを向かれた。
日本は朝鮮に対して軍の駐留と戦闘の許可を求めていたが、ロシア兵が急速に南下してくるのにも拘らず、返答を先延ばしにしていた。
焦れた日本は朝鮮に許諾を得る前に釜山に強襲上陸を仕掛ける。
それと同時に対馬海峡の制海権を得るために済州島を制圧した。
この時点で朝鮮王国は首都である平壌、そして第二首都である漢城も陥落し、風前の灯火であった。
腐っても地域大国である清に打ち勝ったロシア帝国が朝鮮に負ける道理などどこにもなかった。
日本兵とロシア兵が直接対峙したのが大邱であり、互いに先遣隊であったため、戦闘は小規模且つ消極的であったが、日本軍は大邱から退却し、釜山にて籠城戦の構えをとる。
日本軍は釜山に上陸してまだ間もなく、大砲の上陸がまだ完了していなかった。
日本兵のゲリラ戦術によって釜山到達が遅れたロシア軍は遅れながらも釜山攻撃を始めた。
ロシア軍は一気に決着をつけようと大連から対馬海峡に向けて艦隊を派遣したが、前述の通り、済州島沖で待ち構えていた日本海軍によって追い返されてしまう。
ロシア太平洋艦隊は艦隊保全主義に則り大連港に艦隊を残存させることで圧力をかけ、日本海軍の動きを制限した。
実際この動きに日本海軍は困惑し、太平洋艦隊の策中にまんまと嵌った。
一方陸戦でも一進一退が続いていた。
大砲の上陸を完了させた日本軍は砲兵火力によってロシア兵を蹴散らそうと画策した。
対してロシア軍は塹壕を掘ることで日本の砲兵火力を逓減させることに成功しており、戦線は膠着状態に陥った。
日本軍は果敢にも銃剣突撃を敢行したが、機関銃陣地によってそのこと如くが全滅することになってしまう。
そこへロシアから和平交渉を行う使者が来日する。
その内容は日本が敗北を認めるといった内容だった。
ロシアに朝鮮半島の領有を認める代わりに、雀の涙の賠償金を支払うというもの。
そのあまりの酷さに当時の外相は和平交渉の文書をその場で破り捨て、交渉を決裂させたという伝説が残されている。
しかし状況はあまり好転していない。
頼みの綱と言うわけでもないが、イギリス帝国はアフリカ分割に躍起になっており、平時ではありえないが、あまりこちらに注力していないように見える。
つまり、日本は独力でロシアを打ち破る必要があった。
そのために必要だったのは陸戦での打開。
日本は乾坤一擲の作戦を打ち出した。
1876年4月21日、突如日本軍2万人が漢城に上陸した。
この作戦は後に「仁川上陸作戦」とも、「漢城の奇跡」と呼ばれることになる。
当時この地を守備していた兵力は皆無に等しく、斬首するかの如く日本軍はロシア軍の背後を食い破る。
釜山を攻略していたロシア軍は挟撃される形となり、瓦解するまで時間を擁さなかった。
この作戦はマレー戦争でも見せた、後手に奇襲上陸してから挟撃するという日本軍の常套作戦がきれいに決まった作戦である。
専守に取り組んでいた釜山守備隊もロシア軍の動揺を確認すると反転攻勢に打って出て銃剣突撃を開始した。
このとき、砲弾が枯渇していたため、準備砲撃を行わずに突撃した部隊がいたが、なんと準備砲撃を行わない部隊の方が突撃の成功率が高いという研究結果が出ていた。
この統計は後の戦争で日本陸軍のドクトリンに大きな影響を及ぼすことになる。
閑話休題、ロシア軍は大邱まで撤退したわけだが、そこで背後から挟撃してきた日本軍と遭遇し、絶望的な戦いを強いられることになった。
戦いは日本軍の圧勝で終わり、朝鮮半島における戦闘の趨勢を決定づける開戦となった。
ロシア軍は鴨緑江・豆満江ラインまで撤退し、満洲の地にて迎撃を行うように態勢を立て直していた。
一方で日本軍も河川と山地で守られたロシア軍陣地を突破できずにいた。
ここで動き出したのが遼東半島の戦線だった。
朝鮮戦争の膠着を打破しようと考えた日本軍は遼東半島への上陸作戦を策定した。
しかし課題もある。
何せロシアの太平洋艦隊がいまだ健在であったからである。
彼らは旅順港で機を熟すまで待つ穴熊戦術に打って出て、積極的な制海権確保を重要視しなかった。
しかし、上陸作戦を実施するにはどうしても黄海の制海権を完全に掌握する必要があった。
海軍には、太平洋艦隊を港湾の外へ誘き出し、完全に掃討しなければならないという難しい任務が与えられた。
日本海軍は小手調べに旅順港に艦隊を吶喊させて太平洋艦隊の様子を見ていた。
その練度は優れているとは言い難かったが手堅く、日本は太平洋艦隊に対して陸軍国家としては充分強力な艦隊であるという認識を共有した。
日本海軍は陸軍の損耗を考慮する場合、あまり時間をかけていられない。
それを知ってか知らずか、ロシアの太平洋艦隊は旅順港に籠り、ただひたすらに時間を稼いでいる。
先に音を上げたのは大本営だった。
大本営は陸軍の損耗を考えると、残るタイムリミットは1か月程度であると海軍に通達した。
それ以上時間をかけると陸軍は戦線を維持できなくなり、崩壊すると、かなり厳重に海軍に釘を刺す。
とはいえ、半年かけても手出しできていない鉄壁の旅順要塞に対して、1ヵ月で陥落させる作戦を練ることが出来るわけがなく、結局、日本海軍は再三行われた艦隊突撃を行い、太平洋艦隊に対して大きな損害を与えることに成功したが、肝心の旅順要塞を攻略することが出来ず、作戦は失敗した。
作戦失敗の報告を受けて日本政府は遂に和平交渉のテーブルに着くことを決心する。
1877年、日本の依頼を受けたイギリスが両国に講和を勧告することで、奉天にて日本とロシアによる奉天条約が調印された。
2年をかけて日本とロシアが戦った朝鮮戦争では、その結果として日本とロシアの勢力圏が明確に線引きされた。
その境界線は戦争が完全に停滞した鴨緑江・白頭山・豆満江ラインとし、それより以南を日本の勢力圏、以北をロシアの勢力圏とした。
当然のことながら戦場となった李氏朝鮮の意見は全く反映されなかった。
事実上朝鮮半島は日本の植民地として、あるいは日露のバッファーゾーンとして機能していくことになる。
一方満洲地域はロシアの勢力圏であることをイギリスと日本が承認した。
ロシアは当時の陸軍大臣の名からとって内満洲地域を「ミリュチンスク地方」と命名してロシアに編入した。
ミリュチンスク地方の中には当然遼東半島も含まれており、ロシア陸海軍は大連にて大々的に軍事パレードが行われ、ロシアは南下政策の成就を記念して祝杯が挙げられた。
大連はロシアが獲得した最南端の港湾都市であり、長年の悲願が達成されたわけだ。
一方日本が手に入れた領土は地政学的には重要な位置にある朝鮮半島であるが、栄えた都市もなければ、主要な産業があるわけでもない。
かといって日本領シベリアと違って、大した資源を産出するわけでもない。
どちらがより良いものを手に入れたか、言い換えればどちらが勝利したかは決定的に明らかだった。
日本は朝鮮半島に対して緩衝地帯としての役割を求めたことは前述の通りだが、未だに李氏朝鮮王国は清(というよりは中華大陸)への従属意識が強かったため、その解消に乗り出した。
清の冊封体制からの離脱を示すために李氏朝鮮第25代の王である哲宗が皇帝に即位し、あわせて国号を『大韓帝国』と改称した。
皇帝として即位させたのは朝鮮半島を『清の皇帝に保護される王国』ではなく、『清から独立した帝国』というアピールのためだった。
また、元号を光緒から新たに隆熙と改め、グレゴリオ暦(太陽暦)を採用した。
光緒は清が用いる元号を李氏朝鮮も使用していたのだが、清の影響力を排除するために、暦ごと刷新したのだ。
その他、清に対する従属の証であった恥辱碑(大清皇帝功徳碑)や清を迎え入れるために建立した迎恩門の撤去し、独立意識を芽生えさせつつ、新たに漢城に韓国総督府を設置した。
室町時代初期並みだった劣悪な道路事情も日本資本が改善に乗り出し、鉄道を開通させるなど、インフラ整備に努め、目も当てられなかった識字率を向上させるために万民が平等に学べる、日本語と朝鮮語を国語とする学校を設立する。
その代わり、財政政策は日本円を利用し、朝鮮半島で編成されつつあった自警団を解散させ、日本軍が駐留する口実を作り、司法権、警察権、外交権を手放させ、韓国総督府が高級官吏の任免権を有するなど、絶大な権力を握っていた。
インフラを整備したのも、国民に教育を施したのも、来るべきロシアとの戦争に備えて軍を輸送し、朝鮮人を徴兵するためであった。
正に飼い殺しの状態だった。
また、済州島は対馬海峡と言う日本にとってのチョークポイントであり、国防上日本本土として扱いたいことから住民による大韓帝国からの独立の是非を問う国民投票が行われた。
その結果は独立派が賛成多数により、大韓帝国から離脱したわけだが、現在では日本による数々の不正が浮き彫りになっている。
皮肉にもこれが朝鮮人最初の国民投票であり、その特性をよく理解していなかった。
そのことを知ったうえで日本政府は国民投票を強行したと言われている。
しばらくの間、済州島は海外領土と見做され、海軍の根拠地として日本本土とは違う管轄で行政が行われていたが、1937年に済州県として日本本土に編入され、九州の一県に内包された(現在は日本が抱える領土問題の一つになっている)。
表面上は朝鮮人によって近代化を成し遂げようとするような恰好を、日本は裏から操る構図となった。
衆愚には悟られなかったが、この動きは先進国には目に見えて明らかだった。
しかしそれに対して言及する国家は一国も現れない。
自分たちも同様のことをアフリカ大陸でやっていたのだから、当然の対応であった。
寧ろ、非文明人には文明国による啓蒙が必要であると訴える差別主義者や国粋主義者はそれが非文明国に対する正しい統治の方法であると評価する批評家もいたほどだ。
朝鮮人改め、韓国人が己に置かれる不平等に対して不平不満を訴える国際的な舞台は最初から存在しなかったのである。
その一方、一応自国の領土で日本とロシアの二国が戦争を始めることを止められず、封冊国が自身の知らぬところで独立したことで、国家の威信が完全に踏みにじられた清では全国規模の動乱が発生し、既に権威が失墜していた皇帝はもはやどうすることもできなかった。
ロシアに莫大な領土と賠償金が奪われたのは、民衆から上納される税金を皇族の贅沢のために無意味に、湯水のように濫用し、圧倒的地位に胡坐をかいて国粋的研鑽に努めることをしなかった皇帝に責任があった。
1851年に発生した太平天国の乱によって2000万人以上が死亡し、続いて勃発した1864年の満洲戦争の結果、多額の賠償金と領土の約50%を喪失し、そこに住んでいた住民もシベリア鉄道を敷設するために抑留されており返還は成されていない。
また、イギリス領インド帝国から密輸によって流入してくるアヘンによってアヘン中毒者が大量発生しており、社会問題化。
高級官僚もアヘン中毒に陥っていたこともあったほど、清は腐敗していた。
その三角貿易の影響によって国内の当初は清側に回っていた銀もアヘンが国内に充満するようになると、大量に流出し、財政を窮地に追いやった。
1880年、清は各地で発生する反乱を制御することが出来ず、皇帝が国外逃亡する。
その先は日本であった。
奇しくも200年前、後金に攻撃されて日本に逃亡してきた鄭成功とシチュエーションは酷似していた。
当初日本はこの男の取り扱いに困惑したが、やがて彼の本土復帰の野望を利用することになる。
皇帝こそ逃したが、清を討伐した彼らは紫禁城にて『中華民国』の建国を宣言する。
当時彼らはまだ北京政府と呼ばれ、一地方政権に過ぎなかったが、北京政府軍は次々に主要都市を陥落させ、権力争いなど何度かゴタゴタがあったものの、1885年、北京政府はチベット地域を除いて中華大陸の一帯を掌握するに至った。
国内で蔓延するアヘンに関しては徹底的に取り締まることで対策した。
この動きにイギリス議会は清に対する報復戦争を機としていたが、作戦行動のためにはヒマラヤ山脈を越えてチベットから侵攻しなければならないわけで、どう考えても戦術的に不可能だった。
ならばマラッカ海峡を経由して中国沿岸部を攻撃できるかといえば、それは日本の顔を見れば政治的に不可能なことはすぐにわかる。
日本にとってシナ海は中庭であり、それを第三国に荒らされることを酷く拒んでいた。
その結果中国国内のアヘン問題は無事に解決するようになる。
そんな中華民国に接近したのはドイツ帝国だった。
元々北京政府(の山東半島の港湾青島)に目を付けていたドイツ帝国は多額の資金援助を行っていた。
北京政府が中華を統一できたのには少なからずドイツ帝国の影響があったのは間違いない事実だ。
失地を奪回したい中華民国と、意図的に世界大戦を引き起こし、世界政策を実行に移し、世界の覇者となりたいドイツ帝国は協力関係を築くのにそう時間はかからなかった。
欧州にはタタールの軛というある種のトラウマ、黄禍論が再燃しつつあったが、彼らの理論によれば、仮想敵国の黄色人種やスラヴ系民族に対して黄色人種をぶつけるのは間違ったことではないようだった。
ドイツ帝国は大英帝国が推進する3C政策に対向して4B政策を打ち出した。
だが、カイロ(Cairo)-ケープタウン(Capetown)-カルカッタ(Calcutta)を鉄道で結び、西アジアに帝国主義的進出をすすめていたイギリスと、ベルリン(Berlin)-イスタンブル(Byzantium)-バグダード(Baghdad)を結び、中東に進出し、到達目標を中華民国の北京(Beijing)に定めたドイツ帝国とは必然的に利権が交差する。
互いの利権に対する妥協は一切見られず、ただ徒に互いの関係性は急速に冷えていった。
これによって、イギリス・フランス率いる協商連合vsドイツ率いる中央同盟という図式が明確化し、サライェヴォ事件をきっかけに第一次世界大戦を引き起こすことになってしまう。
東洋で日本が防波堤となっているため、中華大陸が植民地になることはありませんでした(北方から目を背けながら)。
世界大戦はもうちょっとあとで……。
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