第35話 グレートゲーム
19世紀前半からオスマン帝国領内の諸民族の独立運動が活発化するようになるとヨーロッパ諸国はこぞって介入するようになっていった。
数世紀前からオスマン帝国には中欧がいいようにやられていたからその腹いせのようにも感じられるが兎も角、特に積極的に介入を行ったのは、市民革命を経験しなかったロシア帝国であった。
目的は不凍港の獲得である。
特に地中海への出口であるダーダネルス・ボスポラス海峡を求める南下政策が目立ち始めるようになるが、ロシアの台頭を恐れるイギリスはこれに干渉し南下政策は激化する。
それが体現されたのがクリミア戦争だった。
ロシアは1853年にギリシア正教徒保護を口実に宣戦布告なしに戦争は始まった。
だがロシア海軍によるシノープの虐殺によって英仏の干渉を受けることになりアナトリア地方のみならずクリミア半島にまで戦火は拡大した。
結局、本戦争でなにかを享受できた国家は何一つ現れず、ロシアは南下政策の失敗を宣言したに等しく、対抗した英仏、トルコもただ徒に兵士を磨り潰しただけだった。。
特にロシアは産業革命を達成しておらず、国力は英仏に大きく劣っていたことは言うまでもない。
だが、ロシアはウィーン体制を結果的に打破することに成功する。
これはオスマン帝国領内のスラヴ諸民族の独立運動を促進することになった。
この流れを利用してロシアは1870年代からパン=スラヴ主義を敷衍した。
これは全てのスラヴ民族の統一と連合を目指す運動の事であるが、これはロシアがバルカンを支配するための口実に過ぎない。
1875年のボヘニア=ヘルツェゴヴィナ蜂起が起こり、これがブルガリアに波及するとパン=スラヴ主義に則ってオスマン帝国に戦争を仕掛けた。
この露土戦争の結果、サン=ステファノ条約でバルカン半島におけるロシアの勢力拡大に成功することになった。
だがしかし、この事態に欧州各国は黙って見ているわけではなかった。
ドイツ首相のビスマルクがイギリスとオーストリアの抗議を受けてベルリン会議を開催。
諸国家間の調停を行った。
イギリスはキプロス島を得て、オーストリアはボスニア=ヘルツェゴヴィナの統治権を獲得、セルビア、ルーマニア、モンテネグロの独立が承認された。
オスマン帝国はバルカン半島から完全に脱落したのである。
一応ブルガリアはオスマン帝国領内の自治国としてとどまっていたものの、これは南下してくるロシアへの抑えとしてであり、オスマン帝国の凋落は誰の目から見ても明らかであった。
ロシアは欧州における南下政策は難しい、若しくは時期が悪いと考えて今度は極東方面へと目を向けることになる。
極東の国家としては清帝国と日本連邦が不凍港を領有していたのだが、多里也半島(ロシア名:カムチャッカ半島)の不凍港は遠すぎる上にシベリア鉄道の延伸も難しいため、必然的に清帝国の海参崴が選ばれるのである。
ロシアはクリミア戦争の敗北を受けて、皇帝アレクサンドル2世の下で一連の改革が行われた。
1861年の農奴解放令は農民を身分的に自由にして、それまで統治が行き届いていなかった農村共同体を統治圏内に組み込み、工場労働者を創出することで工業化を達成しようとした。
しかし、1863年のポーランド独立運動が起こった結果アレクサンドル2世は専制政治を復活させてしまった。
当時知識人が農村で農民相手にナロードニキ運動を展開していたことも災いだった。
1890年代に入るとフランスなどから資本が導入されて重工業を中心とした工業化が推進された。
シベリア鉄道の建設も開始されて、物流が活発化することでこれから続くロシアの膨張政策の力添えとなった。
1858年、ロシア帝国の東シベリア総督ニコライ・ムラヴィヨフ=アムールスキーが、停泊中のロシア軍艦から銃砲を乱射して、調印しなければ武力をもって黒竜江左岸の満洲人を追い払うと脅迫し始めたのだ。
大清帝国国内では1851年に起こった太平天国の乱によって齎された混乱状態から立ち直ったところでの今回の外患だった。
とはいえ、満洲は大清帝国発祥の地であり、とても譲れる場所ではなかった。
大清帝国は総督の脅迫に屈することなく、戦争も辞さない覚悟で総動員を行った。
総督としては多少脅せばすぐに屈服するであろうと楽観的に考えていただけに、大清帝国のこの対応は彼にとっては予想外であった。
彼の手持ちに大清帝国と戦争できるだけの軍隊は無く、ひと先ず撤退する。
後に軍隊を集結させてくるだろうと想定して大清帝国は対策を講じた。
だが、何故か彼らは大日本帝国と同盟を組もうとしたり、ロシア帝国と友好条約を結ぼうとしたりすることはしなかった。
大清帝国は彼らなりのやり方で、独力で防衛しようとしていたのだ。
ヨーロッパでは戦争とは、外交の延長線上であり、政略結婚などで多国間と同盟を組むことが当然のしきたりであり、対する大清帝国の外交孤立にもめげずに戦争準備を行うという愚行は前時代的のように見えた。
しかし、当時大清帝国はアジアの覇権国であり、東南アジアや太平洋で幅を利かせていた日本もおいそれと手出しは出来なかった。
清帝国は「眠れる獅子」と称され、フルスロットルになれば誰も止められないのではないかと目されていた。
それ故に欧州から見れば辺境であるはずのこの満洲における軍事的衝突を各国首脳陣は静観していた。
勝つのはシベリアの熊か、眠れる獅子か。
スタノヴォイ山脈(外興安嶺)に集結しつつあるロシア兵と、待ち構える満洲人により満洲の緊張はピークに達していた。
一方で満洲危機における日本の動向も注目の的だった。
日本も極東でロシアと国境を接する国である以上、何らかの介入が行われるのではないかと言われていたが、現実は恐ろしいほどの沈黙を貫いている。
日本としてもロシアの南下は不愉快であった。
だが、それと同時に大清帝国にはロシアに勝利する期待を寄せていた。
大清帝国は日本にとっても清が乗っ取った中華大陸は精神的宗主国であり、疎遠になっていたとはいえ、その威光は十全だった。
そして1864年、ロシア兵が満洲地域に侵入したことで、遂に開戦する。
結果は、大清帝国の大敗北であった。
まず、ロシア帝国と大清帝国は漠河にて激突した結果、大清帝国は20000人の死傷者を出して大敗北を喫する。
続いて哈爾浜にて捲土重来をかけて決戦を仕掛けるもこれでも敗北し、大清帝国は再起不能レベルの損害を被った。
そこには最盛期に暴れまわった八旗の姿は腐れ果て、少し砲撃されただけで敗走する無様な兵士があった。
これでは烏合の衆以下の軍隊モドキである。
大清帝国がここまで落ちぶれているのにはそれ相応の理由があった。
大清帝国の戦術は1世紀前から進歩していないのである。
確かに小銃や大砲などといった兵器は揃っていた。
しかしその生産量、配備された量は少量で、それも有効活用できているとは言い難かった。
対してロシア兵は兵士の数の力を有効利用、大規模に火薬を利用したほか、銃剣突撃や騎兵突撃も行い、近接戦闘、遠距離戦闘共に隙が無かった。
この1世紀、ロシア帝国は不凍港を獲得するために何度もオスマン帝国に果敢に挑み、その戦術の練度を高めていた。
地域覇権国として胡坐をかいていた大清帝国が勝てる相手ではなかった。
長春の戦いではなんと最高司令官が捕虜となり大清帝国は戦闘が不可能になった。
ロシア兵は南下を続け、盛京(瀋陽)を下し、不凍港である大連にまで到達。
北京を虎視眈々と狙う構えを見せた。
大清帝国はたまらず降伏し、長春にて講和条約を結んだ(長春条約)。
春に始まった戦争は、冬になる前どころか、秋になる前に終わった。
満洲戦争と言われたこの戦争で、大清帝国は心の故郷である満洲地域全域を喪失。
また、盛京(遼東半島)なども占領し、大清帝国全体で見ても、東北地方全域を奪われた形となった。
その上、新疆地方、内蒙古地方以北の地域も清から離脱し、ロシアの勢力圏に入った。
流石にこれには大日本帝国も待ったをかけた。
あまりにも無残な戦いに呆然としていたが、気が付いたら大清帝国が敗北したことで、日本の国防上看過できない脅威が黄海と日本海に現れたのだ。
大日本帝国はイギリス帝国と共に、ロシア帝国に対して遼東半島を清に返還するように勧告した。
ロシアの南下を何としてでも阻止したい二国は戦争も辞さないと言った覚悟で勧告を行った。
ロマノフ朝もこれには冷や汗が止まらなかった。
流石に世界の覇権を握る二国を相手に出来るほどロシア帝国は精強ではない。
仮に陸上で勝利しても、海上封鎖を突破できなければ負けはしなくても勝利は不可能であり、寧ろ海上封鎖のせいで貿易が封じ込まれて敗北する可能性すら拭えなかった。
だが、不凍港の獲得はロシア人のナショナリズムを高揚させた。
今、政府が不凍港を手放せば不満を爆発させた市民によって暴動に発展、最悪の場合革命騒ぎになる可能性が浮上した。
もはや正常な判断が出来る状況じゃなかったロシア帝国はこの勧告を黙殺。
ロシア帝国領内で総動員が発令された。
ロシアにとっての勝機は3つある。
1つ目は日本とイギリスの物理的距離である。
この二国はその距離故に情報の伝達を行えば必ず齟齬が生まれるし、戦術レベルでの共同は不可能だ。
2つ目がまだ満洲にはロシア兵士が駐屯しているという事である。
ロシア兵士だけでなく、遼東半島の大連と吉林地域の海参崴には予め新設されていた太平洋艦隊が駐在していた。
これらの軍隊を総動員して電撃的に朝鮮半島を南下し、太平洋艦隊の力を使って一気に日本本土に上陸してしまえば、有利な条件で講和を打診するという戦略をとることが出来る。
ロシア帝国にとって、戦争をするのなら、勝ち筋はそれしかなかった。
3つ目が、ドイツ統一戦争がヒートアップしていることである。
プロイセン王国は鉄血宰相ビスマルクの巧みな外交政策によってデンマーク(1864年)やオーストリア(1866年)を撃破してきた北ドイツ連邦を成立させた。
その上、1870年にはエムス電報事件に端を発する普仏戦争が勃発。
本戦争ではプロイセン軍だけでなく、北ドイツ連邦の各国が参戦した。
しかも、ドイツ統一を目前に控えたドイツ人たちは植民地戦争で戦争慣れしていたフランス相手に八面六臂の大健闘をし、遂にパリに入城しフランスを下すまでになった。
1871年、ヴェルサイユ宮殿の鏡の間にてプロイセン王のドイツ皇帝への即位式が行われ、名実ともにドイツ帝国が誕生した。
ドイツ帝国の誕生は欧州のパワーバランスを根底から揺るがしかねない大事件だった。
イギリス・フランス・ロシア・オーストリアなど欧州主要国は爆誕したドイツ帝国に対して大きな警戒心を抱いていた。
つまり、この間は全力を挙げてロシアを攻撃することが出来ないことを意味する。
そして何より、ロシア帝国が極東で戦争をしてくれるというのはドイツ目線でもありがたい。
何分一時的にとは言え、東に注視する必要性が亡くなったからだ。
よって、欧州側から攻撃される可能性は著しく低いことに賭けた。
1873年にはドイツ・オーストリア=ハンガリー帝国との間に三帝同盟の締結に成功し、バルカン半島の権益をある程度妥協することで欧州、つまりは背後の憂いを排除した。
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