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第33話 大日本連邦

 新政府軍の言いなりになっていた将軍は大政奉還を行い、政権を天皇に委譲する形でその権力を手放した。

 翌日に仁孝天皇の勅許により大政奉還は受理された。

 幕府は「天皇が国家統治を将軍に委任している」という建前で成立していたため、政権を時の天皇である仁孝天皇に返上することは極めて自然なことだった。

 この降伏と大政奉還によって1336年から502年も続いた室町幕府は滅亡し、唯一の正当な政府は国民議会であると決定された。

 日本史上最も平和と覇権を謳歌した幕府も盛者必衰の定めからは逃れられなかった。


 だがしかし、500年近くも政治とは距離を置いてきた朝廷がまともな政務能力を持ち合わせているはずがなく、将軍は朝廷に政権を返上しても依然として室町幕府中心の政治システムが続くと考えていた。

 実際、突然政治を丸投げされた形となった朝廷の上層部は困惑していたし、実務機関も完成していなかったためその後も幕府の中枢人物たちが政治を続けている。

 これではこれまでの政治と何も変わらないと発覚した国民軍は将軍を幽閉し、その間に『王政復古の大号令』が布武された。

 その内容は将軍の将軍職辞職を勅許すること、摂政・関白・幕府を廃止し、摂政・関白の廃止、新たに総裁・議定・参与の三職を置くことなどが盛り込まれた。

 三職の中に将軍の名前はなく、幕府の影響力を削ぎ落す方向に全力を注いでいたことが窺える。

 足利一門は単なる地方の一大名にまで零落した。

 総裁・議定には皇族や公家、大名が任命され、参与には本革命の元勲となる者たちが役職に就いた。

 更には将軍の官位の辞退と幕領を天皇に返す(天領)こととした(辞官納地)。

 幕府は大きく力を削ぎ落とされる結果となり、続いて国籍奉還によって名義的に全国の領土を朝廷に奉還したこととなった。

 この奉還は朝廷側としてもかなり博打であった。

 理由は保守派が多い守護大名からの反対は免れないと思われたからだ。

 今までの権力を振るうことが出来なくなることを勘案すれば抵抗は必至であり、万が一にも反乱になった場合はそれを鎮圧するための部隊を準備していた。

 しかしそれは杞憂に終わった。

 理由は各守護大名としても渡りに船だったからだ。

 各々の守護大名は実際うまく国を統治出来ているとは言えなかった。

 そのため、どこの国でも慢性的な財政難を解決できなかったのである。

 そこへ朝廷が国籍奉還を布告したことで、この財政難を押し付けることが出来ると考えられた。

 実際に国籍奉還を達成した後にその経理状況を見た役人は泡を吹いて倒れたという逸話もある。

 国民政府は債務不履行(デフォルト)を宣言した。

 新しい政治体制を整えるためには膨大な金がかかった国民政府に更なる重圧となる各国の負債までは賄えなかったのだ。


 だが、これはあくまでも名義上の話であり、これまで国を統治してきた守護大名がそのまま知事となったにすぎず、中央集権体制を確立する上で支障が出ると考えられた。

 これが解決されるのはもう少し後の事。



 戦後日本の首都は幕府の遺風が残る近畿ではなく、江戸に改められその名を『東京』に改称した。

 皇居も東京へと変遷し、京都と東京の両都制を完全に廃した。

 これまで将軍の親政によって行われてきた政治とは全く違う政治体制が宣誓された。

 『億兆安撫(おくちょうあんぶ)国威宣揚(こくいせんよう)御宸翰(ごしんかん)』にて、これまでの摂関政治と武家政権への政権委任の愚行への猛省の弁を述べ、これからは日本の将来のための改革を行っていくことを神に誓うという形で宣言した。

 その宣言の内容が通称『五ヶ条の御誓文』である。

 そして、それを国民向けに発表したのが『五榜の掲示』である。

 まず、身分制度を整えて華族・士族・平民と分類し、身分を越えての結婚や職業選択の自由、移住の自由が保障され、行政上は『四民平等』が達成された。

 これによって武士が消滅し、武士の代わりに平民を中心として新しい軍隊を作る必要に政府は迫られた。

 いわゆる徴兵令によって全国から兵隊が集められた。

 この徴兵制において行政区分を制定し、大規模な軍隊を創設するために、新式の徴兵制度を導入する。

 この制度では各部隊に一定の地域が割り当てられ、その中で徴兵するように定められた。

 以前の徴兵制度では徴兵請負人が手当たり次第に男子を集めてくる方式であったため兵士の質は低いか、粗暴の悪いものしか集まらなかったばかりか、国外脱走などを図り徴兵を逃れるものも相次いだ。

 しかしこの制度では各連隊は同郷出身者で固められたため、兵士の士気は連帯によって高く、徴兵逃れもほぼ不可能であった。

 日本はその人口規模も併せて当時世界最大規模の軍事国家となった。

 軍隊への訓練も怠らず、朝から晩まで行進するのは序の口であり、実戦さながらの模擬戦まで行われていたという。

 実弾まで使用され、訓練中の死者が相次いだ。

 過酷な訓練と最新技術の導入により日本軍は世界最強の軍隊へと変貌した。

 これほどの過酷な訓練に耐えることができたのも新政府が日本人としてのナショナリズムを積極的に先導したからというのが大きいだろう。

 その矛先は目下南下してくるロシアやイギリスへの報復に向けられる。


 版籍奉還によって天皇のものとなった土地と人民であるが、実際は大名が統治しており、政府の意向通りに地方が政治を履行してくれるというわけではなかった。

 そこで行われたのが廃国置県である。

 これにより大名は馘首(かくしゅ)され、代わりに政府が派遣した知事が国に代わる新しい県を統治するようになった。

 廃国置県が行われたのは日本全国津々浦々、日本列島はもちろん、多里也半島、安龍山列島から南陸地方に至るまで、その範囲は太平洋を覆うほどに広範であるから、幾らかの混乱が見られたのも無理はない。

 当然日本領内ではあるものの、その実日本人の比率が10%以下の地域はいくつも存在した。

 そのような地域は日本国内の更に内部に国家を認めた。

 つまり幕末の東南アジア統治を踏襲した形となる。

 日本人として迎え入れたものの、その自治は現地に委ねられたその地域を『自治州』もしくは『王国』として扱った。

 連邦制を採用したのだ。

 『日本連邦』はこうして相成ったのである。

 これで土地と人民とそれを統治する知事(自治国王(スルタン)、或いは自治共和国議長)が天皇のもとに管理されるようになり、中央集権体制が整った。

 だが実際には未だに日本主導の連邦制には懐疑的な自治国王は相当数おり、特にムスリム国家においてそれは顕著だった。

 しかし日本政府は「飴を舐めなければ辛酸を」をスローガンに東南アジアの各国を平定していく。


 更に地租改正が行われ人々が持っている土地の値段を確定し、その値段の3%を、価値の安定している現金で支払わせた。

 価値が安定していた理由は、貨幣改革の賜物である。

 これまでの金と直接交換できる兌換(だかん)紙幣から、金との交換の保証のない不換紙幣を大量に発行した。

 貨幣制度が整備され、日本中央銀行が東京にて設立された。

 兌換紙幣は日本が保有する金の量を超えて紙幣を発行できず、柔軟性に欠ける。

 不換紙幣を大量に発行することで一先ずの資金を手に入れたが、世間の景気は良くなったものの不換紙幣の価値は安定しつつも兌換紙幣よりも低いため、結果的に払う税金が事実上減ってしまったことを意味する。

 一時的な資金のために最終的に政府は大きな損失を被り、好景気とは裏腹に政府は金欠状態が続くという摩訶不思議な状態に陥った。


 一方この頃から自由民権運動が盛んに行われた。

 自由民権運動の最終的な目標は「政府に国会を作らせること」であった。

 自由民権派は選挙で選ばれた国会議員が内閣を作るイギリス式の議院内閣制を提唱し、政府と火花を散らした。


 この頃は革命戦争で活躍した元勲が各分野のリーダーを務めるといったもの(太政官制)であり、強い権力を持つ元老の推薦によって内閣総理大臣が天皇に任命され、その内閣総理大臣が各大臣を任命するという国民の意思が全く反映されない独裁的なシステムだった。

 このような政治体制は内戦中であればこそ許されたシステムであったが、平時となれば到底許されるべき代物ではない。

 太政官制は民衆の批判の的とされ、反政府運動として大同団結運動が展開される。

 反政府運動の中心となったのは幕府時代から職を追われ浪人となっていたにも拘らず、それなりの力は残していた士族である。

 彼らは秩禄処分や廃刀令によって特権を奪われ、不満が溜まっていた。

 だが反政府運動は政府と干戈(かんか)を交えることはなく、演説によって運動は展開されたのも特徴の一つである。

 演説は暴動よりも敷居が低かったためか演説運動は全国に波及して各地で活発に行われるようになると、自由民権運動は身分の垣根を超えて更に燃え上がった。

 不換紙幣が農村部にも普及したおかげで大農場主、つまり豪農が経済的な力を得て、自由民権運動に助力していたことも大きい。

 しかしこれも政府の讒謗律(ざんぼうりつ)や新聞紙条例、保安条例によって弾圧されることとなった。

 だがこの弾圧がかえって民衆の心に火をつけてしまい、全国各地の演説はいつしか暴動に発展する。

 これに狼狽した政府は慌てて「10年後に国会を開設する」ことを約束したことで、当初の目標が達成され、自然と沈静化することとなる。


 また、政府は自由民権運動を弾圧をしつつも、大同団結運動で提唱されたものの一つである憲法の制定には乗り気であった。

 

 欧州各国の憲法を研究して、さらに憲法を審議する枢密院を設置し、大日本帝国憲法の制定に漕ぎつけた。

 この憲法は議会が時勢によって改正や改革が行いやすい軟性憲法が採用された。

 だが最初の憲法はその特徴として、天皇大権と呼ばれるほど、天皇の権力が超大であったことである。

 具体的には官僚の任命権に始まり、逆に辞めさせる権利、陸海軍を率いる統帥権、宣戦布告や条約の締結に至るまでの絶大な権利を保持していた。

 しかし実際は、天皇の仕事は内閣が上奏した意見を承認して政府が実行するようにしていた。

 こうすることで天皇は失政を行ったとしても責任の所在は内閣にあるため、天皇は権力を濫用しない代わりに責任から逃れたというわけである。

 新生大日本帝国としての当面は天皇を中心とする国家の形成であるため、天皇にはボロを出して社会的信用を失墜させるわけにはいかなかったのである。

 天皇の威信が失墜するようなことが再びあるとまた新たな維新が誕生してしまう恐れがあった。

 イギリスのように「君臨すれども統治せず」のスタンスをとった。


 臣民は()()()()()()()()()()、言論や集会、宗教の自由が認められている。

 しかし、そのカウンターとして保安条例や集会反政社法、治安警察法などといったデモクラシーを弾圧するための法律も順次適応されており、あまり自由とは言えない代物でもあった。


 さらに約束通り国会が設立されたことで、一応は国民の声が政治に届くようになった。

 この国会は『帝国議会』と呼ばれ、皇族や貴族からなる貴族院と選挙で選出された衆議院からなるイギリス式の二院制が採用された。

 このように、議会や内閣、憲法に至るまでイギリスの色濃い影響が見える。

 これは当時イギリスが世界の工場として振る舞い、世界に覇を唱えていたからであった。

 衆議院議員選挙法が制定され、議員の選挙を行うことによって国民にも参政権が付与された。

 ただし、最初は税金を多く納税する高所得の男性にしか選挙権は認められていなかった。

 現代的な視点で俯瞰すると平等ではなかったが、当時の価値観的に考えると世界各国はどこもかしこも平等選挙を行っている国などどこにもなく、男女の差も当然あり、更に経済力などで恵まれていなければならなかった。

 欧州各国から様々な制度を見習った日本でもその歪んだ選挙法が行われたのである。

 日本はこうして大日本帝国として新たに生まれ変わり、遅れていた世界各国との交流を再開させる。

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